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「悟り体験」を読む

2020年07月30日 | 趣味日誌

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新潮選書から昨年発刊された
『「悟り体験を読む」大乗仏教で覚醒した人々』
を読了しました。
著者の大竹晋さんは
昭和49年生まれの46歳。
京都大学の講師などを務め現在は
仏典翻訳家としてご活躍中の方です。


さて
タイトルからすると
ご自身の覚醒体験をベースに
歴代の師家方の紹介をしていく
流れかと思いつつ
冒頭には以下のような記載がありました。

「最初に断っておかなければならないことは、筆者自身にそのような覚醒体験はないということです」

この書の要諦は
覚醒体験のない方が
覚醒とはなにかという
疑問や期待を抱きながら
書き進めている
という点だと感じます。
あるいは
覚醒した人には多分書けないだろう
ダイナミックな表現が
随所でされていることでもあります。



たとえば
血盟団事件の首謀者とされる
井上日召(1886年~1967年/80歳没)を
覚醒者としてラインアップしていますが
今風に言うと井上は「テロリスト」
と呼ばれ蔑まれる人物です。
もちろん歴史によってその存在の大きさは
すでに検証されていると思います。


あわせて
女性解放運動家の
平塚らいてう
(1886年~1971年/85歳没)の
エピソードを取り上げている点なども
とてもユニークだと感心しました。


詳細は
ネタバレになりますので割愛しますが
どのような段階を踏んで覚醒に至ったかを
現代語で実にわかりやすく解説されています。


▲Wikipedia 血盟団事件



▲Wikipedia 平塚らいてう


さて
第一部「悟り体験記を読む」のなかの
第一章「中国における覚醒体験」に続き
日本の宗派における覚醒体験記が
詳しく記されています。
臨済宗、曹洞宗、浄土真宗、日蓮宗など
所謂
禅などの修行を伴わない宗派においても
覚醒体験があることに正直驚きました。



河上肇(1879年~1946年/66歳没)は
東京大学を卒業したのち
京都大学で講師を務めた際に
マルクス主義への関心を高めその後
日本共産党に入党した人物です。


▲Wikipedia 河上肇



本書によると
明治38年(1905年)12月9日に
独自に覚醒体験を得たとあります。
『無我』という真理を得ながらも
マルクス主義を標榜したのはなぜなのか。
長文の手記から
多くを読み取ることができます。
覚醒体験は
「この五尺の体躯をして真に天下の公器たるに値せしめること」
に迷いがなくなったとあります。
私のカラダと思っていたモノが
私ではなかったと悟った
ということでしょう。


禅や瞑想は
覚醒体験に近づくための手段です。
しかしこの本を読むと
禅のさなかに覚醒体験をする場合もあれば
ふとした瞬間のほんの数秒で
その境地に達したという方も
多いことが分かります。
悟ったことを認めてもらうことを
「印可」と呼びます。
先の河上肇は結局
師匠に恵まれなかったものの
覚醒体験が信じる道をすすませる
原動力になったことは明らかです。



なお
後半の章では

悟り体験は仏教によらなくてもできる
悟り体験の速成はムリ


の2点について考察されています。
たとえば
キリスト教における悟り体験者として
フーゴ・マキビ・エノミヤ・ラサール神父
(1898年~1990年/92歳没)が登場します。


広島で被爆しその後
世界平和記念聖堂を
建設することに尽力した神父は
昭和43年(1968年)に広島市の
名誉市民として顕彰されました。
神父は

「禅で悟りとなづけられる体験は他の宗教、すべての真摯な宗教にも起こる」

と断言し
禅を積極的に実践し導入しました。


▲Wikipedia フーゴ・ラサール



悟りを早く身近にすることは
可能でしょうか。
昭和30年代の禅ブームにおいて
「禅理学会」なるものが
跋扈したとあります。
曹洞宗の一派が5日間で悟り体験ができる
と謳った早期見性法なるものがそれです。
しかし
どうやらそれは悟りの入り口の前に
立った状態であって所謂超常現象的な
体験を覚醒と呼んでいるに
すぎないのではないか。
従って
早期見性法は悟り体験の敷居を
引き下げるだけのものだった
と結論づけています。



読了し
これら多くの悟り体験記を
読むにあたって感じたことは
覚醒体験とは
超人的なチカラを得ることではなく
今というこの瞬間を
いかにエネルギッシュに
味わうことができるか
ということに尽きると思います。
覚醒しても日常的な様々な出来事は
変わらず目の前にある。
そのことに惑わされず
生き生きと生きていくことが
覚醒体験者の手記から伝わってきた
結論のようなものです。

只管打座

ただひたすらに坐る
ということに尽きるのでしょう。

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