🌸🌸知られざる日本の偉人🌸🌸②
(島田 叡(しまだ あきら)さん)
🔹岡田、ではここから、そうした共通点🌟を備えた偉人🌸たちの生き方を実際に紹介していきたいと思います。😊🎵
まず私が、もっと多くの日本人🗾に知ってもらいたい✊と思っている一人が、
「島守の神☀️」
として、沖縄の人々から敬慕💓される戦前💣最後の沖縄県知事🍀、
島田 叡(あきら)ですね。
🔸服部、島田叡は立派🌸な方ですね。
🔹岡田、島田は沖縄戦💣直前の昭和20年1月に 43歳で沖縄に赴任🌸し、
文官📝にもかかわらず、県民と運命💓を共にして自決⚡️した立派✨な人です。
ただ沖縄では有名🔊でも、本土🗾ではあまり知られていません。😵
その島田が沖縄県知事🍀になったきっかけが、本当に立派🌸なんです。😊
これから沖縄は戦場💣になるということで、現職の知事🍀が職務を放棄☁️☁️したため、急遽⚡️後任を決めることになりました。
ところが「死にたくない😵」と皆断る⚡️んです。
それで最後に、当時大阪府の内政部長をしていた島田に、お鉢が回って🔄くるわけですが、
彼は
「私が行かないなら、誰かがいかなければならない。✊
自分は死にたくないから、
他の誰かが行って死ね💢とは言えない🚫」
と、即座⚡️に知事🍀を引き受ける決断🌸をするんですね。
🔸服部、なかなかできない決断🌸です。
🔹岡田、なぜそんなに立派🌸な決断⚡️ができたかといえば、
島田は子供の頃から、西郷隆盛🌸を尊敬💓したしていたのです。
そのことを示すこんな逸話🎵が伝え💕られています。
それは35歳の島田が、警察🚓部長として佐賀県に赴任🌸したときのことです。
毎週土曜日に、地元の和尚さん☀️が私塾で子供たちに『西郷南洲遺訓』の講義🍀をしていることを知った島田は、
「ぜひ聴きたい」と聴講👂するようになります。
そして、公務が忙しい⚡️ときには和尚さん☀️に頼み込んで🙏、
夏は翌朝の4時、冬は5時に講義🍀をしてもらったと。
私はこの話を知り、
「いま時、こんなお役人、政治家はどこにいるだろうか😵」
と、非常⚡️に感動💓しました。
また、偉人🌸になるような人というのは、
必ず歴史上の偉人🌸を尊敬💕している、
心💓に立派✨な人を抱いているんだなと思いました。😊🎵
🔸服部、心💓に立派な人物を抱く🌈。
🔹岡田、さらにその私塾では、夏季研修の際、東京🗼などから偉い先生🍀を招き、
西郷隆盛の特別講義🎤をしていたのですが、
ある先生が、次のような話🎵をしたそうです。
「西郷の腹心の1人である桐野利秋が、
西郷に
『偉い人とは、どんな人ですか』
かと質問した。
すると西郷🌸は、
『偉い人とは、
地位の高さ⤴️でも、財産💰の有無でもない。
偉い人🌸とは、
後(うしろ)から拝まれる🙏人、
死後😇慕われる💕人だ』
と答えた」
それを聴いた👂島田は大変な😵感銘💓を受け、講義が終わった後、
「自分も、後から拝まれる🙏人、死後😇慕われる💕人になられるよう、
修業⚡️を積みます✊」
と、和尚さんや先生たちに、自分の志💓を語ったといいます。
🔸服部、西郷の言葉🍀が島田の生き方に大きな影響☁️を与えたんですね。😊
🔹岡田、沖縄県知事として赴任した島田は、目覚ましい働き✊をします。
その1つが、県民の疎開🌸です。
犠牲⚡️を少なくするため、島田は沖縄本土にいた約49万人のうち、
22万人の人々を、わずか2ヶ月で疎開🌸させるんです。
結果的🌸には、約10万人の県民が亡くなり😇ましたが、
もし島田の努力🌸がなければ犠牲者は、2倍にも3倍にもなっただろう☁️といわれています。
🔸服部、大変な功績👑ですね。
🔹岡田、そしていよいよアメリカ軍との戦闘💢が始まると、
本土から来ていた民間人の避難💨も始まりました。
その時、親しかった新聞社📰の支局長が訪ねてきて
「知事さんは軍人🔫ではないのだから、
沖縄県民と最期を共にしなくてもよいのではないか」
と言います。
しかし、島田は、次のように答えます。
「知事として、私は生きて帰れると思うかね。
県民が、どれだけ死んだか知っているだろう。
私ほど、県民の力になれなかった😢知事はいない✊」
そして、その言葉のとおり、
島田は沖縄に残り、自決して県民と最期を共にしたと。
島田の生き方🍀は、
役人🌸や指導者👆のあるべき姿のお手本📖です。
🔸服部、私も島田のことは、歴史だけでなく、道徳🌸の授業🍀でも取り上げることがよくあるんですが、
生徒たちは、与えられた役割🌸を最後まで責任🍀を持ってやり遂げようとする姿勢🌸に、まず感動💓しますね。
岡田先生がおっしゃったように、島田は本土ではほとんど知られていません。😵
しかし、沖縄の人たちは、今もなお新しい顕彰碑✨を建て、島田を尊敬🌸し続けています。
何といっても、高校野球⚾️県大会で優勝👑した学校🏫に送られる
トロフィーが「島田杯」なんですから。😊
🔹岡田、島田はまさに、西郷隆盛🌸のように、
後から拝まれる🙏人、死後😇慕われる💕人になったのですね。😊☀️
つづく
(島田 叡(しまだ あきら)さん)
🔹岡田、ではここから、そうした共通点🌟を備えた偉人🌸たちの生き方を実際に紹介していきたいと思います。😊🎵
まず私が、もっと多くの日本人🗾に知ってもらいたい✊と思っている一人が、
「島守の神☀️」
として、沖縄の人々から敬慕💓される戦前💣最後の沖縄県知事🍀、
島田 叡(あきら)ですね。
🔸服部、島田叡は立派🌸な方ですね。
🔹岡田、島田は沖縄戦💣直前の昭和20年1月に 43歳で沖縄に赴任🌸し、
文官📝にもかかわらず、県民と運命💓を共にして自決⚡️した立派✨な人です。
ただ沖縄では有名🔊でも、本土🗾ではあまり知られていません。😵
その島田が沖縄県知事🍀になったきっかけが、本当に立派🌸なんです。😊
これから沖縄は戦場💣になるということで、現職の知事🍀が職務を放棄☁️☁️したため、急遽⚡️後任を決めることになりました。
ところが「死にたくない😵」と皆断る⚡️んです。
それで最後に、当時大阪府の内政部長をしていた島田に、お鉢が回って🔄くるわけですが、
彼は
「私が行かないなら、誰かがいかなければならない。✊
自分は死にたくないから、
他の誰かが行って死ね💢とは言えない🚫」
と、即座⚡️に知事🍀を引き受ける決断🌸をするんですね。
🔸服部、なかなかできない決断🌸です。
🔹岡田、なぜそんなに立派🌸な決断⚡️ができたかといえば、
島田は子供の頃から、西郷隆盛🌸を尊敬💓したしていたのです。
そのことを示すこんな逸話🎵が伝え💕られています。
それは35歳の島田が、警察🚓部長として佐賀県に赴任🌸したときのことです。
毎週土曜日に、地元の和尚さん☀️が私塾で子供たちに『西郷南洲遺訓』の講義🍀をしていることを知った島田は、
「ぜひ聴きたい」と聴講👂するようになります。
そして、公務が忙しい⚡️ときには和尚さん☀️に頼み込んで🙏、
夏は翌朝の4時、冬は5時に講義🍀をしてもらったと。
私はこの話を知り、
「いま時、こんなお役人、政治家はどこにいるだろうか😵」
と、非常⚡️に感動💓しました。
また、偉人🌸になるような人というのは、
必ず歴史上の偉人🌸を尊敬💕している、
心💓に立派✨な人を抱いているんだなと思いました。😊🎵
🔸服部、心💓に立派な人物を抱く🌈。
🔹岡田、さらにその私塾では、夏季研修の際、東京🗼などから偉い先生🍀を招き、
西郷隆盛の特別講義🎤をしていたのですが、
ある先生が、次のような話🎵をしたそうです。
「西郷の腹心の1人である桐野利秋が、
西郷に
『偉い人とは、どんな人ですか』
かと質問した。
すると西郷🌸は、
『偉い人とは、
地位の高さ⤴️でも、財産💰の有無でもない。
偉い人🌸とは、
後(うしろ)から拝まれる🙏人、
死後😇慕われる💕人だ』
と答えた」
それを聴いた👂島田は大変な😵感銘💓を受け、講義が終わった後、
「自分も、後から拝まれる🙏人、死後😇慕われる💕人になられるよう、
修業⚡️を積みます✊」
と、和尚さんや先生たちに、自分の志💓を語ったといいます。
🔸服部、西郷の言葉🍀が島田の生き方に大きな影響☁️を与えたんですね。😊
🔹岡田、沖縄県知事として赴任した島田は、目覚ましい働き✊をします。
その1つが、県民の疎開🌸です。
犠牲⚡️を少なくするため、島田は沖縄本土にいた約49万人のうち、
22万人の人々を、わずか2ヶ月で疎開🌸させるんです。
結果的🌸には、約10万人の県民が亡くなり😇ましたが、
もし島田の努力🌸がなければ犠牲者は、2倍にも3倍にもなっただろう☁️といわれています。
🔸服部、大変な功績👑ですね。
🔹岡田、そしていよいよアメリカ軍との戦闘💢が始まると、
本土から来ていた民間人の避難💨も始まりました。
その時、親しかった新聞社📰の支局長が訪ねてきて
「知事さんは軍人🔫ではないのだから、
沖縄県民と最期を共にしなくてもよいのではないか」
と言います。
しかし、島田は、次のように答えます。
「知事として、私は生きて帰れると思うかね。
県民が、どれだけ死んだか知っているだろう。
私ほど、県民の力になれなかった😢知事はいない✊」
そして、その言葉のとおり、
島田は沖縄に残り、自決して県民と最期を共にしたと。
島田の生き方🍀は、
役人🌸や指導者👆のあるべき姿のお手本📖です。
🔸服部、私も島田のことは、歴史だけでなく、道徳🌸の授業🍀でも取り上げることがよくあるんですが、
生徒たちは、与えられた役割🌸を最後まで責任🍀を持ってやり遂げようとする姿勢🌸に、まず感動💓しますね。
岡田先生がおっしゃったように、島田は本土ではほとんど知られていません。😵
しかし、沖縄の人たちは、今もなお新しい顕彰碑✨を建て、島田を尊敬🌸し続けています。
何といっても、高校野球⚾️県大会で優勝👑した学校🏫に送られる
トロフィーが「島田杯」なんですから。😊
🔹岡田、島田はまさに、西郷隆盛🌸のように、
後から拝まれる🙏人、死後😇慕われる💕人になったのですね。😊☀️
つづく