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🚢🚢奇跡の大航海🚢🚢①

2018-04-23 10:50:35 | お話
🚢🚢奇跡の大航海🚢🚢①


人生では特に全く予想もしない😵出会いが訪れ、

その出会い🌟によって、思ってもみない方向👉に運命💓が導かれることがあるものです。😊

オルガ・モルキナとの出会い🌟は、まさにそうでした。😊

2009年9月、ロシアの古都・サンクトペテルブルクで、篆刻(てんこく)の個展🌸を開いていた時、

1人のロシア人🇷🇺中年女性🌸が近づいてきて、唐突に⚡️

「あなたのお名前は、キタムロさんですよね」

と英語🔤で話かけてきたのです。

「ええ、そうですが😊」

「お名前のキタムロと、室蘭🌸とは何か関係があるのでしょうか」

彼女は私の名前に「室」の字が入っていたことで、

北海道の室蘭🌸と何か関係があるのではないか、と思ったようなのです。😊

石川県🍀で生まれ育った私にとって、
室蘭🌸は何の縁もない土地🍀です。

あまりに突拍子もない😵質問に

「いいえ」とそっけなく答えましたが、

彼女は、そのまま強い✊口調👄で話を続けました。

「実は、ある人物🍀を探しているのですが、少し話を聞いてもらえませんか… 」

この時の彼女の話🎵、そこで手渡された資料📑の内容は概略、以下のようなものでした。📑


1920年頃のロシア革命⚡️後の混乱期🌀、戦火🔥を逃れるために、

当時の首都ペトログラード(現サンクトペテルブルク)から、東に数千キロ離れた日本海沿いのウラジオストックまで避難し💨、

難民となった約800名の子供たち👦👧がいました。☀️

子供たちは「ヨウメイマル」という日本船🚢に乗ってウラジオストックを出発。

太平洋、大西洋を船🚢で横断し約3ヶ月の大航海🚢の末に、
無事、ペトログラードの両親👪のもとに帰還↩️します。

子供たちにとって、この大航海🚢は終生🌸忘れられない幸せ💕な思い出となり、

その体験談🌸は子孫に語り継がれてきました。😊🎵

私に声🎵をかけてきたロシア人女性オルガノの祖父母は、ともにヨウメイマル🚢によって救助された子供たち👦👧で、後に結婚💒。

その時の体験🌸を、まるでどこかの国のおとぎ話🎠のように孫のオルガンに話していたといいます。😊

おとぎ話🎠のように、というのは、

圧政下💢のソ連では、自国の子供たちが資本主義・日本🇯🇵の船に救われるという屈辱的な出来事🌟は、

口にすることさえタブー視😈されていたからです。

ヨウメイマルはウラジオストックを出た後、まず室蘭🌸に寄港して現地の子供たちと交流🔄しています。

オルガが、室蘭🌸と北室は関係があると思ったのは、そのためでした。😊

そのオルガが私に依頼🙏したのは、

祖父母👴👵の話の中に度々出てくる、
カヤハラという日本人船長🍀に関する調査📝でした。

祖父母が慕って💕いたカヤハラ船長の墓参り🙏を果たし、

助けていただいたお礼✨を子孫に伝えたい💕というのが、オルガの切なる⚡️願い🌟だったのです。☀️


私にしてみたら、見ず知らず😵の外国人からの一方的⚡️な頼み事🙏ですから、丁寧🌸にお断り⚡️することもできました。

事実、これまで何人もの日本人🇯🇵は、オルガの依頼🌸を断った✋といいます。

しかし、その真剣⚡️な眼差し👀に何かを感じた私は、

ホテル🏨に帰ってから英文🔤で書かれたA4の用紙3枚の資料📑に丁寧に目👀を通してみました。

読めない部分もありましたが、

「これは、すごいことだ🌟」

とわかりました。🌟🌟🌟

そして、帰国するまでヨウメイマルのことがずっと頭🌀から離れる☁️ことがありませんでした。😊

幸いというべきか、私は専門の書道✒️に限らず、1つのことに強い関心💓を寄せると、

時間を忘れて没頭🌀してしまうタイプの人間🍀です。

いまは雲☁️をつかむような話でも、5年、10年すれば、何かが分かってくるのではないか☁️、😊

という気楽🌸な気持ちで探索🔎に取り掛かりました。

これが私と陽明丸🚢との出会い☀️となったのです。😊🎵


探索の取っ掛かりは、「ヨウメイマル」という船🚢を特定🌟することでしたが、

これは早い段階で、大正時代に運航していた外国航路🌸の大型船「陽明丸」にほぼ間違いない✊ことが分かりました。😊

その系統に繋がる船会社🏢に話を聞く👂などする中で浮上⤴️したのが、

当時の経営者🌸(船主👑)だった勝田銀次郎という人物🍀の名前🎵です。

さらに調べて📝いくと、
ごく簡単な記述ながら、勝田船主は

「子供たちを救ってほしい🙏」

というアメリカ赤十字🏥の依頼🌸を受けて、
貨物船🚢だった陽明丸に客室🚪を装備、

人員輸送に必要な装備を施した上で、ロシア🇷🇺に船🚢を差し向けていたことが分かりました。😊✊🌟


人望💕の厚かった勝田船主は経営🌸の一線⚡️を退いた後、神戸市長🏤を2期務めていますが、

それだけの人物🍀でありながら、

古書店🏠で入手した評伝🎵などを紐解いてみても、

陽明丸🚢や子供たちの救済🌸に関しては、

なぜか、ごくごく限られた⚡️情報以外に見つけることができません。😵

神戸に行けば何か新しいヒント🌟があるのではないか、と考えた私は、
毎月3回ほど石川から神戸に足👟を運び、

市立図書館🏤に籠っては、勝田船主に関係する資料📃の収集に当たりました。😊

1日に取るコピーの数は約100枚。

なかなか核心💓は掴めないまでも、私の心💓は勝田船主の人物像が、

少しずつ明らか⛅️になっていく喜び💕に満たされていました。😊🎵


一方、肝心のカヤハラ船長🍀については、全くといってよいほど情報⚡️が得られませんでした。😵

手始めに「カヤハラ」を漢字変換🔄しながら該当人物をインターネット💻で検索🔎してみましたが、

全くのお手上げ😵状態でした。

1つだけ、「栢原」の文字と関連キーワードを入力する中で、

ある海運会社🏢のホームページ💻に辿り着きました。

ダメ元で海運会社🚢の社長👑に手紙✉️を出してみたところ、

やはり何の関係もない😵ことが分かりました。😵

しかし、ありがたいことに社長の栢原氏は、

私の思いや行動に共感💓し、探索に協力✊することを申し出てくださったのです。😊🎵

栢原氏の口添え🎵により海運関係の月刊誌📖に陽明丸についての記事📰が掲載されたほか、

陽明丸が立ち寄った室蘭🌸の地元紙📰、
さらに全国紙📰でも私の活動🍀が取り上げられました。😊🎵

これも、すぐには読者からの反応🎵が得られなかったものの、

新聞📰を手にしたオルガが、その記事を自身のホームページ💻で紹介🌸してくれたりと、

その頃から私たちの信頼🍀関係🌸は少しずつ深まっていきました。😊🎵


幻☁️のカヤハラ船長🍀を探し始めてから丸2年。☀️☀️

その名前は、ある日突然⚡️、天から真珠💎の珠✨が目の前に落とされたかのように、

海事海運関連の資料📚の中に、見つけることができたのです。😍

分厚い名簿📖に「茅原基治」という名前と、
岡山県笠岡市の原籍📝や住所🍀がくっきりと記されて✒️いました。😍


私の心💓は、まるで長年探し👀求めていた恋人🌸にやっと巡り会えた🌟ときめき💓を覚えていました。😍

次なる行動は✊、茅原船長の遺族🌸を探し出す🔎ことです。

私は図書館🏤で岡山県版のハローページ📖に当たり、該当地域の茅原姓に絞って⚡️1人ずつ電話📞をかけてみることにしました。

見ず知らずの家🏠に電話をするのは相当のプレッシャー💢でしたが、

2軒目の電話に、70代後半と思われる老婦人👵が出て、

抑揚の効いた柔らかな岡山弁🎵でこう答えられたのです。

「ああ、茅原基治さんは、私の遠戚🌸で、外国航路🚢の船長🍀をしていました。😊

基治さんは、子孫がおらなんだけぇ、

うちが、お墓の管理🍀しょうるんです😊」

老婦人👵の話を聞くうちに、私は思わずしゃがみ込み、

受話器📞を握る汗ばんだ💦手が震える⚡️のを感じ💓ました。

遠戚🌸とはいえ、ようやく親族🌸に出会えた🌟のです。


親族🌸の同意💓を得て、茅原船長🍀の墓参り🙏ができたのは、

その1週間後☁️のことでした。😊

茅原船長の名前が明らかになった時、
私はその朗報🌸をすぐオルガに電話📞で伝え💕ました。

しばらく沈黙🌌が続いた後、

オルガは

「そう、ほんとによかった。💕

ありがとう😭」

と声を震わせ⚡️ながら、私に感謝🌸の言葉🍀を伝えました。

それから3ヶ月後の2011年10月、オルガは初来日🇯🇵し、親族🌸や多くの地元民が出迎える中、

夢に🌈まで見た茅原船長🍀の墓参り🙏を果たすのです。😊🎵


今から約100年前、革命期⚡️のロシアは混乱🌀の極み😱にありました。

首都ペトログラードは内戦🔥の真っ只中で、深刻な食糧危機⚠️に陥り、

3歳から15歳までの子供たち800人と、引率の教職員🌸合わせて900名は穀倉地帯🍀のウラル地方に避難💨。

しかし、戦火🔥はウラル地方にまでの及び、子供たちは飢え😵と極寒⛄️の中で身を寄せ合いながら生きていました。😨

惨状を見るに忍びず😵、救援🌸の手を差し伸べた人物🍀がいます。

ウラル地方に赴任していたアメリカ🇺🇸聖公会の宣教医師⛪️🏥で、

聖路加(せいるか)国際病院の創立者🌸でもある
ルドルフ・トイスラー博士🍀です。

トイスラー博士🍀は当時、アメリカ赤十字シベリア救援隊🌸を率いていました。

博士は後任のライリー・アレン隊長🌸に救援💕の任務を託し🌸ます。

大陸の東西を繋ぐシベリア鉄道🚂に乗せられた子供たちや教職員は、

激しい内戦💣の中、東へと向かい日本海に面したウラジオストックに到達するのです。😊

ところが、革命⚡️の波🌊はロシア最東端のウラジオストックにまで及びます。😵

その時、アレン隊長🌸は太平洋、大西洋を船🚢で渡って、子供たちをロシアの西端にあるペトログラードの親元👪に帰す↩️という大計画📑を立てます。

しかし、社会主義国となったロシアと対立関係💢にあるアメリカ🇺🇸やイギリス🇬🇧の船会社🏢で、

この無謀で危険⚠️な人道支援🌸を引き受けてくれるところは、どこもありません。😵

ほうぼう手を尽くして、
ようやく協力🌸を取りつけることができたのが勝田船主👑でした。

ところで、

アメリカ赤十字🏥と勝田船主👑との間でどのようなやりとりがあったのか、

トイスラー博士🍀やアレン隊長🌸はどう動いたのか。

誰も引き受けない支援🌸を勝田船主はなぜ受け入れたのか、

茅原船長がいかなる経緯で勝田船主と出会い🌟、船長🍀を任されることになったのかなど、

この大航海🚢はいまだに多くの謎🌀に包まれています。

ただ、確実にいえるのは、勝田船主にとってこの大航海🚢は、

誰からも賞賛✨されることがないばかりか、

多大なリスク😵を伴うものだったという事実🌟です。

時代背景🌚を考えても、少し前までロシアは日本にとって砲火🔥を交えた敵対国💢でした。

人道支援🌸ではあるにしろ、敵国の子供たちを救ったとなれば、非国民😠の誹(そし)りは免れません。😵

また、万一船が沈没💦したり、事故⚠️が起きたりしたらどうでしょう。

勝田船主は世界中から激しく💢その責任🍀を問われ、これまで海運業で築いた巨万の富💰を一瞬⚡️にして失うばかりか、

会社自体🏢も破綻し、数多くの従業員を路頭に迷うわせて☁️しまうことになります。

いわば、決して失敗が許されない✊

「うまくいって当たり前☀️」

の大航海🚢でした。


それらを全て覚悟⚡️の上で、

あえてアメリカ赤十字🏥の要請を引き受けて、子供たちを救出💨したところに、勝田船主🌸の偉大さ👑があるのです。😊

そして、それは船長🍀の茅原氏についても全く同じ🌸なのですが、

そのことについては降段、改めて述べることにします。😊


陽明丸🚢を救出に向かわせることを決断✊した勝田船主は、

わずか1カ月半という驚くべき😵早さで貨物船🚢だった陽明丸を客船🚢🚪に改造🔄🔧します。

改造費や輸送費、燃料🔥等は全てアメリカ赤十字🏥が拠出しましたが、

勝田船主自身🌸も現在の金額で数千万円💴相当のポケットマネー💰を出していたことが、

後に見つかった茅原船長🍀の手記📝で明らかになっています。😊


(つづく)

(「致知」5月号 北室南苑さんより)