🌸🌸トリプル介護🌸🌸②
(かのこさんお一人でも大変ご苦労なさった上に、ご両親の介護🌸も重なったわけですね)
そうなんです。最初に少し触れましたが、
阪神・淡路大震災💢の翌年に、父が大分の実家🏠から電話📞をかけてきて、
母👵が自分の髪の毛を切って✂️燃やして🔥いると。😵
お風呂🛁の水💦は出しっぱなし、鍋は火🔥にかけっぱなしで、
「死にたい、死にたい💀」と言って、起きてこない。😵
病院🏥で診てもらったら、
認知症😵と鬱💀を両方患っていたから、ずぐ帰ってこい✊と父は言うわけですよ。
けれども、最重度の障がい💢を持っているかのこを施設に預けたら、
環境の変化🔄によって一晩🌌でストレス💢で胃に穴が開いて😵亡くなってしまう😇こともあるんですよ。
ですから、父には「帰れない🚫」とハッキリ🌟言いました。
(あぁ、帰れないと)
その代わり、一週間まとめて、2人の食べるもの🍱を作って冷凍❄️して、送り💨🎁ました。
それから、笑う😊ことが体にとてもいい💕と言う話を聞い👂たので、
毎日一枚、ハガキ✉️には「くすっ」と笑える😊話と絵を描いて送ることにしたんです。
(絵心はあったのですか?)
ないない(笑)。必要に迫られて描いた🎨だけです。
といっても、娘の介護🌸で行動範囲も限られて⚡️いるから、ネタはすぐ枯渇😵してしまう。
日々☀️の出来事ひとつひとつの中から、毎日、目👀を皿のようにして面白いこと😍を見つけださなければいけません。😊
知人にも頼んで、必死⚡️になってネタ📰を探す日々が、
両親の呼び寄せるまで、13年と11ヶ月続いたんです。😊
おかげさまで、母の状態🌸もだんだんまし✨になってきて、
4年目には、うつも認知もなくなり☁️、
先ほどお話ししたように、作家デビュー🌟まで果たしたわけです。
(お母様への一途な想いが、5,000枚ものハガキ✉️となり、奇跡🌟を起こしたのですね)
本当は、やめるのが怖かった😱んですね。😊
そういういいこと🌟は続けないと、前より悪くなると新聞📰に書いてあったので。😊🎵
自分にはできないことが多過ぎるから、
できることを200%やってみようって。😊✊
(ところが、その後、トリプル介護が始まったと)
そうなんです。母が電話で
「日本中🗾探して、いい養老院🏡があればそこへ行くことにした」
と言うので、それなら私がお世話🌸をしたいと考えて、
同じ団地に部屋🚪を借りて2人を呼び寄せたんです。😊
平成20年でした。
そうした3ヶ月後には、母がお風呂🛀から出られない😵と言う。
脳梗塞🌸を発症していたんですよ。
おまけに父は、4年後から認知症😴の症状が出始めました。
夏の暑い日に「寒い、寒い😨」と言ってエアコンをつけないんです。
リハビリ中の母が熱中症🔥で倒れてしまって、😵
私のところに預かったら、
大好き💕な妻を取った悪人😈にされて、
そこから、私への暴力✊💢が始まりました。
剣道の有段者🌟ですから、バシーッ💥て叩かれたら、
次の日には紫色に腫れ上がって😵いましたもん。
一所懸命💓お世話しているのに、
何でこんな目に遭わなければいかんのって…😵
怒りが😠、こみ上げてくるんですよ。
(辛い状況でしたね)
娘のヘルパー💕さんが、以前老人施設🏢にいた方で、老人👴👵を知り尽くしていましたね。
父の言うことを否定🚫したらいけないと。😊
「オレは寒いんだ」
と言ったら、
「あぁ寒いのね。大変だね💕」
「俺の財布を取ったろう」
と言ったら
「財布をなくなったんやね。一緒に探そうか💕」。
いつもの2倍ゆっくりと肯定🌟してあげなさいと。😊🎵
私は、そこで初めて、
人を受け入れる☀️ことを学び✊ました。
(あぁ、人を受け入れること)
それまで私は、泣いて😢いる若いお母さんたちを、
「頑張れ✊」
って励まして✊しまう人だったんです。
「辛かったやろうな。ようわかるよ💕」
って、受け入れができていなかった。😊
でも、私が態度🌸を変えた🔄ことで父は、
「いつも、おいしいご飯🍚をありがとう🙏」
とか、
「あんたさんを叩いた💢らしいが、悪いことをしたな😊」
とまで言ってくれるようになったんです。😊
そうして、8年間の介護🌸を経て、父は平成28年に97歳で亡くなり😇ました。
大好きな妻🌸より先に死にたい。
家🏠で苦しまずに死にたいという思いを全部まっとうして、
老衰💀で自宅で新聞📰を読みながら逝きました。☁️😇☁️
亡くなっても耳👂は聞こえているっていうので、
「お父さん、私に人生で大切な、寛容🌸、容認☀️の心を、身をもって教えてくださって、本当にありがとうございました😊」
って耳元で言いました。😊
(その後は、お母さんとかのこさん、お二人の介護を続けておられるのですね)
はい。かのこは、若いリハビリの先生のおかげで、7年かけて意思💓の疎通⚡️ができるようになりました。
私は最初の頃
「ムリやから、先生」
って言っていたんですが、
先生は
「お母さん、なんで諦めるの?」
と。
後から、母である私の無理解に1人で泣いた😢こともあると知って、
とんでもない親やったな😵と反省しました。
実際、かのこは手を握ったり✊開いたり✋することで、会話🎵がどんどんできるようになりました。😊
「これまでたくさん発作💢を起こして、しんどかったな🎵」
って聞いたら
「違う⚡️」
と。
「自分の思ってることを、ちゃんと表現🌸できないことが、しんどかった。😊
でも、いまは楽しい💕」
と言うんです。
究極✨の会話は、
「お母さんがいなくなったら大変だね😊」
って言ったら、
「大丈夫。若い人に介護🌸してもらって、私は楽しく💕暮らしてききます✊」
と(笑)。
(目覚ましい成長🍀ですね)
さらにありがたいことに、
母に5,000枚のハガキ✉️を書いたいきさつが
『キセキの葉書』という映画🎥になったんですけど、
すぐに打ち切り⚡️になると思っていたら、大ヒット🌟したんです。😳
同じ方が、ご家族🌸や仲間🍀を連れて何回も見に来て下さるので、会場はいつも満杯🌸で。
養護学校🏫の車椅子の子たちを連れてこられた方は、
君たちが家族🌸の希望✨なんだと伝えたかった💕と。
こうしてヒット🌟しているのが考えても分らないんです。
あえて言うと、本📖にしようとかヒット🌟させようとかいう思いはなかったんですね。😊
(ご本や映画をヒット🌟させたいという思惑はなかったと)
最初にも言いましたが、もともと5,000枚のハガキ✉️を本📖にするつもりは全くありませんでしたしね。😊
映画🎥の舞台挨拶🎵でいつも言うんですが、
母に書いた5,000枚のハガキ✉️は、
誰も知らない洞窟🌑の中で、
ポチョーン💧、ポチョーン💧と
水滴💧を落としていくような営み🌸でした。
誰も知らないけれど、
いつか洞窟🌑が水💦で満杯🌸になると、
出口を求めて自然🍀に地上に噴き出して⛲️、
みんなの目👀に触れる💕ものなんですね、と。
(そこまで続けられたら要因🍀は何ですか)
たった1人の母🌸を助けることもできないで、
何が文章📝を生業🍀とするだと。
だから、配達してくださる郵便局🏣の方も、つい読んでしまうような面白い💕ものを書こうと。✊
その積み重ね⏫で、ここまできたわけで、
映画化は降って湧いた話ではあったけども、嬉しい💕ことでした。
(まさに、利他によって開けてきた人生🍀と言えそうですね)
かのこと映画の舞台挨拶🌸に行った時は、
「いま入ってきたのが原作者の娘さんの、かのこさんです」
ってスポットライト🌟を浴びて、娘は握手や写真撮影📷を求められました。🌸
あんなキラキラ✨したかのこを見たことはなかったので本当に感動💓しました。😍
生きてきたことを肯定🌟していただいたのです。☀️
いま、私の人生🍀のどこを切り取っても、
かのこに教えられて導かれて💕きたことがよく分かり🌟ます。
(介護🌸をしてきたかのこさんに、ご自分が教えられて🌸きたと)
作家📝としても、かのこがいたから普通とは違う闘い✊もあり、思い🌀もあり、
書く内容も、何が大事かが確立🌟されてきたんでしょうね。😊
かのこに学んだのは、息子も同じです。
私が
「かのこを施設🏡に預けたい😵」
と弱音を吐いた時、当時中学生🏫だった息子から、
「かのこは物じゃないんやで、可哀想じゃないか! ✊
お母さんが面倒を見られないならいいよ、
僕がおんぶして学校🏫に行く」
と言われて、
胸を突かれ⚡️ました。
息子はいつもかのこの味方🌸でした。
彼は自分でお金💰を貯めてアメリカ🇺🇸へ行きました。
日本では皆がかのこをジロジロ見る👀のに、
向こうでは、障がい者が好奇の視線に晒(さら)されないことに感動💕したと。
いまカンザス🌇で障がい児教育🍀に携わっています。
昔は不幸の種😵のように周りから言われていたかのこは、いまはダイヤモンド💎の種✨になりました。
山崎で
「あんたが変わらなければあかん」
と言われた本当☀️の意味🍀を悟った時から、
石ころがダイヤモンド💎に変わった🔄んですね。😊🎵
(真の利他に目覚めた🌟時から、すべてが変わったのですね)
介護🌸のあり方というのは、10人いたら10人違います。😊
利他と言うのは、どういうことを言うんだろう?
介護🌸される方だけが、幸せ💕になると言うのは、無理⚠️があると私は考えています。
どうやったら喜んで💕もらえるのか?
守れる✊のか?
考えて🌀、実践🌸して、
挫折😵して、
また、学んで✊いく中で、
自分自身も打たれ強く😊、したたかで✨、
とてつもなく豊かな👑心💓になっていいることに気づく🌟んです。😊
自己犠牲⚡️ではなく、
両方幸せ💕になることが、勝利👑でしょうね。😊🎵
(おしまい)
(「致知」5月号 脇谷みどりさんより)
(かのこさんお一人でも大変ご苦労なさった上に、ご両親の介護🌸も重なったわけですね)
そうなんです。最初に少し触れましたが、
阪神・淡路大震災💢の翌年に、父が大分の実家🏠から電話📞をかけてきて、
母👵が自分の髪の毛を切って✂️燃やして🔥いると。😵
お風呂🛁の水💦は出しっぱなし、鍋は火🔥にかけっぱなしで、
「死にたい、死にたい💀」と言って、起きてこない。😵
病院🏥で診てもらったら、
認知症😵と鬱💀を両方患っていたから、ずぐ帰ってこい✊と父は言うわけですよ。
けれども、最重度の障がい💢を持っているかのこを施設に預けたら、
環境の変化🔄によって一晩🌌でストレス💢で胃に穴が開いて😵亡くなってしまう😇こともあるんですよ。
ですから、父には「帰れない🚫」とハッキリ🌟言いました。
(あぁ、帰れないと)
その代わり、一週間まとめて、2人の食べるもの🍱を作って冷凍❄️して、送り💨🎁ました。
それから、笑う😊ことが体にとてもいい💕と言う話を聞い👂たので、
毎日一枚、ハガキ✉️には「くすっ」と笑える😊話と絵を描いて送ることにしたんです。
(絵心はあったのですか?)
ないない(笑)。必要に迫られて描いた🎨だけです。
といっても、娘の介護🌸で行動範囲も限られて⚡️いるから、ネタはすぐ枯渇😵してしまう。
日々☀️の出来事ひとつひとつの中から、毎日、目👀を皿のようにして面白いこと😍を見つけださなければいけません。😊
知人にも頼んで、必死⚡️になってネタ📰を探す日々が、
両親の呼び寄せるまで、13年と11ヶ月続いたんです。😊
おかげさまで、母の状態🌸もだんだんまし✨になってきて、
4年目には、うつも認知もなくなり☁️、
先ほどお話ししたように、作家デビュー🌟まで果たしたわけです。
(お母様への一途な想いが、5,000枚ものハガキ✉️となり、奇跡🌟を起こしたのですね)
本当は、やめるのが怖かった😱んですね。😊
そういういいこと🌟は続けないと、前より悪くなると新聞📰に書いてあったので。😊🎵
自分にはできないことが多過ぎるから、
できることを200%やってみようって。😊✊
(ところが、その後、トリプル介護が始まったと)
そうなんです。母が電話で
「日本中🗾探して、いい養老院🏡があればそこへ行くことにした」
と言うので、それなら私がお世話🌸をしたいと考えて、
同じ団地に部屋🚪を借りて2人を呼び寄せたんです。😊
平成20年でした。
そうした3ヶ月後には、母がお風呂🛀から出られない😵と言う。
脳梗塞🌸を発症していたんですよ。
おまけに父は、4年後から認知症😴の症状が出始めました。
夏の暑い日に「寒い、寒い😨」と言ってエアコンをつけないんです。
リハビリ中の母が熱中症🔥で倒れてしまって、😵
私のところに預かったら、
大好き💕な妻を取った悪人😈にされて、
そこから、私への暴力✊💢が始まりました。
剣道の有段者🌟ですから、バシーッ💥て叩かれたら、
次の日には紫色に腫れ上がって😵いましたもん。
一所懸命💓お世話しているのに、
何でこんな目に遭わなければいかんのって…😵
怒りが😠、こみ上げてくるんですよ。
(辛い状況でしたね)
娘のヘルパー💕さんが、以前老人施設🏢にいた方で、老人👴👵を知り尽くしていましたね。
父の言うことを否定🚫したらいけないと。😊
「オレは寒いんだ」
と言ったら、
「あぁ寒いのね。大変だね💕」
「俺の財布を取ったろう」
と言ったら
「財布をなくなったんやね。一緒に探そうか💕」。
いつもの2倍ゆっくりと肯定🌟してあげなさいと。😊🎵
私は、そこで初めて、
人を受け入れる☀️ことを学び✊ました。
(あぁ、人を受け入れること)
それまで私は、泣いて😢いる若いお母さんたちを、
「頑張れ✊」
って励まして✊しまう人だったんです。
「辛かったやろうな。ようわかるよ💕」
って、受け入れができていなかった。😊
でも、私が態度🌸を変えた🔄ことで父は、
「いつも、おいしいご飯🍚をありがとう🙏」
とか、
「あんたさんを叩いた💢らしいが、悪いことをしたな😊」
とまで言ってくれるようになったんです。😊
そうして、8年間の介護🌸を経て、父は平成28年に97歳で亡くなり😇ました。
大好きな妻🌸より先に死にたい。
家🏠で苦しまずに死にたいという思いを全部まっとうして、
老衰💀で自宅で新聞📰を読みながら逝きました。☁️😇☁️
亡くなっても耳👂は聞こえているっていうので、
「お父さん、私に人生で大切な、寛容🌸、容認☀️の心を、身をもって教えてくださって、本当にありがとうございました😊」
って耳元で言いました。😊
(その後は、お母さんとかのこさん、お二人の介護を続けておられるのですね)
はい。かのこは、若いリハビリの先生のおかげで、7年かけて意思💓の疎通⚡️ができるようになりました。
私は最初の頃
「ムリやから、先生」
って言っていたんですが、
先生は
「お母さん、なんで諦めるの?」
と。
後から、母である私の無理解に1人で泣いた😢こともあると知って、
とんでもない親やったな😵と反省しました。
実際、かのこは手を握ったり✊開いたり✋することで、会話🎵がどんどんできるようになりました。😊
「これまでたくさん発作💢を起こして、しんどかったな🎵」
って聞いたら
「違う⚡️」
と。
「自分の思ってることを、ちゃんと表現🌸できないことが、しんどかった。😊
でも、いまは楽しい💕」
と言うんです。
究極✨の会話は、
「お母さんがいなくなったら大変だね😊」
って言ったら、
「大丈夫。若い人に介護🌸してもらって、私は楽しく💕暮らしてききます✊」
と(笑)。
(目覚ましい成長🍀ですね)
さらにありがたいことに、
母に5,000枚のハガキ✉️を書いたいきさつが
『キセキの葉書』という映画🎥になったんですけど、
すぐに打ち切り⚡️になると思っていたら、大ヒット🌟したんです。😳
同じ方が、ご家族🌸や仲間🍀を連れて何回も見に来て下さるので、会場はいつも満杯🌸で。
養護学校🏫の車椅子の子たちを連れてこられた方は、
君たちが家族🌸の希望✨なんだと伝えたかった💕と。
こうしてヒット🌟しているのが考えても分らないんです。
あえて言うと、本📖にしようとかヒット🌟させようとかいう思いはなかったんですね。😊
(ご本や映画をヒット🌟させたいという思惑はなかったと)
最初にも言いましたが、もともと5,000枚のハガキ✉️を本📖にするつもりは全くありませんでしたしね。😊
映画🎥の舞台挨拶🎵でいつも言うんですが、
母に書いた5,000枚のハガキ✉️は、
誰も知らない洞窟🌑の中で、
ポチョーン💧、ポチョーン💧と
水滴💧を落としていくような営み🌸でした。
誰も知らないけれど、
いつか洞窟🌑が水💦で満杯🌸になると、
出口を求めて自然🍀に地上に噴き出して⛲️、
みんなの目👀に触れる💕ものなんですね、と。
(そこまで続けられたら要因🍀は何ですか)
たった1人の母🌸を助けることもできないで、
何が文章📝を生業🍀とするだと。
だから、配達してくださる郵便局🏣の方も、つい読んでしまうような面白い💕ものを書こうと。✊
その積み重ね⏫で、ここまできたわけで、
映画化は降って湧いた話ではあったけども、嬉しい💕ことでした。
(まさに、利他によって開けてきた人生🍀と言えそうですね)
かのこと映画の舞台挨拶🌸に行った時は、
「いま入ってきたのが原作者の娘さんの、かのこさんです」
ってスポットライト🌟を浴びて、娘は握手や写真撮影📷を求められました。🌸
あんなキラキラ✨したかのこを見たことはなかったので本当に感動💓しました。😍
生きてきたことを肯定🌟していただいたのです。☀️
いま、私の人生🍀のどこを切り取っても、
かのこに教えられて導かれて💕きたことがよく分かり🌟ます。
(介護🌸をしてきたかのこさんに、ご自分が教えられて🌸きたと)
作家📝としても、かのこがいたから普通とは違う闘い✊もあり、思い🌀もあり、
書く内容も、何が大事かが確立🌟されてきたんでしょうね。😊
かのこに学んだのは、息子も同じです。
私が
「かのこを施設🏡に預けたい😵」
と弱音を吐いた時、当時中学生🏫だった息子から、
「かのこは物じゃないんやで、可哀想じゃないか! ✊
お母さんが面倒を見られないならいいよ、
僕がおんぶして学校🏫に行く」
と言われて、
胸を突かれ⚡️ました。
息子はいつもかのこの味方🌸でした。
彼は自分でお金💰を貯めてアメリカ🇺🇸へ行きました。
日本では皆がかのこをジロジロ見る👀のに、
向こうでは、障がい者が好奇の視線に晒(さら)されないことに感動💕したと。
いまカンザス🌇で障がい児教育🍀に携わっています。
昔は不幸の種😵のように周りから言われていたかのこは、いまはダイヤモンド💎の種✨になりました。
山崎で
「あんたが変わらなければあかん」
と言われた本当☀️の意味🍀を悟った時から、
石ころがダイヤモンド💎に変わった🔄んですね。😊🎵
(真の利他に目覚めた🌟時から、すべてが変わったのですね)
介護🌸のあり方というのは、10人いたら10人違います。😊
利他と言うのは、どういうことを言うんだろう?
介護🌸される方だけが、幸せ💕になると言うのは、無理⚠️があると私は考えています。
どうやったら喜んで💕もらえるのか?
守れる✊のか?
考えて🌀、実践🌸して、
挫折😵して、
また、学んで✊いく中で、
自分自身も打たれ強く😊、したたかで✨、
とてつもなく豊かな👑心💓になっていいることに気づく🌟んです。😊
自己犠牲⚡️ではなく、
両方幸せ💕になることが、勝利👑でしょうね。😊🎵
(おしまい)
(「致知」5月号 脇谷みどりさんより)