🌸🌸トリプル介護🌸🌸①
(脇谷さんは、ご家族3人の介護🌸されながら、ラジオ📻のパーソナリティー🎤や執筆活動✒️をしてこられたそうですね)
FMラジオ📻のパーソナリティー🎤を始めたのは、平成17年でした。
脳性麻痺🌀の "かのこ"(娘の名前)が気管切開🌸して呼吸器をつけた頃で、
介護🌸がものすごく大変😵だったんですが、
たまたま娘がお世話になっていた園の隣にあるスタジオ🎤で、
地元西宮のコミュニティー番組をやっていましてね。😊
出演🌸の依頼を受けて、娘の介護🌸のお話🎵をしたら、
アナウンサーの方が心配😨なさるので、
「いやいや、諦めることはないですよ」
って。
「実は私、実家でうつ病になった母🌸を喜ばせるために、五千枚(放送当時は3,000枚)、毎日☀️ハガキを書き続けたら、よくなって、😊
母は、そこから作家✒️にまでなったんですよ」
という話をしたんです。😊🎵
そうしたら、しばらくしてラジオ局📻から
「番組をやりませんか?」
ってご依頼🌸をいただいたんです。😊
私と同じ重度🚨の障がい児😷を持ったお母さんの中には、
夜中🌌に熟睡しないようにラジオ📻やテレビ📺をつけっぱなしにして寝る💤方がたくさんいらっしゃるんです。😊
お子さんが発作💥を起こした時、すぐ気づかないといけませんから。😊
番組では、そういう皆が知らない親の苦しみ😩、悲しみ😢をいろいろお話🎵しするんですが、
早いものでもう13年ですよ(笑)。
(いま、お母様に5,000枚もハガキ✉️を書いたとおっしゃいましたね)
ええ。阪神・淡路大震災💢の翌年に、大分の実家🏠にいた母がうつ病😨と認知症😵を発症🌟したんです。
娘のかのこを抱えていたので家を離れることができなくて、
代わりに毎日一枚、「くすっ」と笑える😊話をハガキ✉️に書いて送ることにしたんです。
それを13年と11ヶ月かけて、5,000枚描き続けたんですが、
おかげさまで、母はうつ病も認証もなくなり😊、
おまけに元気🍀になって、書いた作品が出版社🏢の目に留まって👀、
77歳で作家デビュー🌟まで果たしたんです。
そのハガキ✉️は、とにかく母に治って欲しい🙏一心💓で書き送ったもので、
公にする気は全くなかったんですけど、
母がすべて保管🌸していたので、
私が本📖にすることになりました。
ところが、その後で、
両親を大分から呼び寄せたら、
次の年に、母が脳梗塞⚡️で倒れ、
4年目に父が認知症😵を発症しました。
かのこと併せてトリプル介護🌸の生活が始まりました。😊☀️
そういう体験🌸を、エッセーにまとめて新聞📰に連載したり、本📖にしたりしてきたんです。😊
(もともと書くことはお好き💕だったのですか)
小さい頃、幼稚園🏡に行かないで小学校🏫に入ったら、
いじめ✊の対象になって😵、いつも図書館に逃げ込んで🏃💨本を読んでいるうちに、詩や童話を書くようになったんです。😊
高校🏫の時に、雑誌📖の詩のコーナーで詩人の丸山薫さんに選んでいただいて、
書くことに自信🍀を持つようになりましたね。
学校🏫を出て航空会社✈️に勤務🌸した後に結婚退職して、一男👦一女👧に恵まれるんですか、
28歳で出産🌸した長女の かのこ は2ヶ月くらい経っても目👀でものを追わなくて、
大きな病院🏥で調べてもらうと、
脳性麻痺🌀だということが分かり🌟ました。
周りからは、
「そんな大変な子を育てられるわけがないから、施設🏡に預けなさい💢」
と散々☁️言われましたが、
私は、どうしても✊自分の側で、育てたかった。✊😊
もちろん不安😱でした。
ちゃんと育てられるかなって。😊
(それでどうなされましたか)
どうしていいか分からなくて、診断📊を受けた日、
かのこ👧を抱っこし、長男👦の手を引いて行ったのが、
筋ジストロフィーの息子さん👦を育てた地元で有名🍀な女性🌸のお宅🏠でした。
その方は、
私がワンワン💦泣いて😂いる間に
「おめでとう🌟、よかったね。💕
ここから、あんたの、ほんまもんの人生🍀が始まるんだよ😊」
って言うんです。😵
「ほんまもんの人生なんか、いりません😭」
って泣き続ける私に、
「私たち家族🌸は、筋ジスの息子👦がいたおかげで、
いまがある🌟と思ってるんやで😊」
と話してくださいました。😊🎵
当時の障がい児🌀は養護学校🏫にも行けず、
病院🏥か家🏠で暮らすしかなかったそうです。
ご夫婦👪は、息子を絶対に手放さない✊ことを決意🌟して、
優秀な専門医🏥をつけ、家庭教師🌸をつけるために、
介護🌸をしながら必死⚡️で働く🍳🍴のです。
あいにく、その子は16歳で亡くなり😇ましたが、
その間に、家業🌸はどんどん盛り上がった⤴️というんです。
「あんたも、絶対😊幸せ💕になれる。
頑張れるか?」
と言われて、
私も
「がんばります✊」
と答えるしか、ありませんでした。😊
(その女性との出会い🌟が、大きな転機🔄になったわけですね)
私の心💓の内をすべて披瀝🌈✨できる人でした。
そして、かのこをなんとしても歩かせたい✊と思って週三回もリハビリに連れて行くようになったんです。😊
ところが1年経ち、2年経つうちに病状はどんどん悪く😵なって、
発作💥や肺炎💢を繰り返して
月に1度は入院🏥するようになったんです。
周りには精いっぱい✨明るく☀️振る舞っていたんですけど、
心💓の中は
「幸せ💕になると言われたのに、
どんどん不幸になっていくやんか😨」
と思うわけです。😊
(逆に状況は厳しく⚡️なったと)
娘につきっきりで、3歳の息子👦は放ったらかし☁️です。
12月のある日、入院中の病院🏥から、夜電話してみたら
「寒いよ、お母さん…😨」
と。
慌てて💢タクシー🚕で戻ったら、
こたつに首まで潜り込んで震えて⚡️いたんです…。
「こんな時くらい家🏠にいてやってよ」
と、夫を責めたり💥もするようになるんですよね。😔
娘と息子の間で、体が張り裂け💢そうでしたし、
娘ももう十分苦しんだから、心臓💓を止めて⚠️楽にしてやってください🙏って思う時もありました。😔
1人になると、泣いて😢いました。
冬⛄️の日、
バス🚌に乗ると「音🎵刺激」で娘が発作💥を起こして、
泣き叫ぶので、バスに乗れず、
粉雪⛄️の中、娘をおんぶして息子を抱いてバス停をいくつも歩く👟👟わけです。
横の国道、大きなトラック🚚がゴーゴー走って、
「あ〜、50センチ車道に入ったら、全てが終わる」
と、思ったこともありました。😵
人間🍀って不思議なもので、
魔😈がさすっていうのか😵、、、
何メートルが歩くと、
これ以上、不幸にはならないだろう✊と笑えて😊きたものです。
(どのようにして乗り切られたのですか)
唯一本音🌸を吐けたのが、先ほどお話しした筋ジスの息子さんを育てた女性🌸だったんですけど、
いつ訪ねても
「あんたが、変わらなければ、あかんのやで😊」
とおっしゃるんです。
私はいつも周りの人に明るく☀️振る舞っているのに
「あんたが変わらなければあかん」
と。😵
かのこを京都の病院🏥へ連れて行くためにJR京都線🚋に乗っていたんですね。
発作でいつ泣き出すか分からないので、
いつもすぐ降りられるようにドア🚪のところに立つようにしていました。
山崎駅で電車🚋が止まって、外を見たら、
田んぼが緑🍀の絨毯のように広がっていたんです。
その間の道を、赤い車🚗が走っていく。
思わず
「かのこちゃん、あの車🚗の中には幸せ💕な家族🌸が乗っているんやろうね🎵」
って呟(つぶや)いていました。
その時、初めて気がついたんです。🌟🌟🌟
「あ、私は、自分のことをメチャクチャ不幸や😵と思ってるんやな🌟」
と。😊
(それまで自覚🌟がなかった)
心💓の奥に押し隠して🌚いたんでしょうね、😊
無意識に、いい母🌸を演じていたんでしょう。
そして、
「変わらなければあかん✊」
というのは、
心💓の闇🌚の部分だったんだなと。😊
いくら表面を取り繕っても、
私の本質⚡️は、かのこが生まれた瞬間🌟から、全く変わっていなかったことに気づいた🌟んです。😊
その山崎で、私は
「変わろう✊」
と誓い✨ました。😊
かのこが歩けないからって何が悪いの。✊
歩けなくても、世界一🌏幸せ💕な子にしてやろう。😊🎵
夫も、私が精いっぱい✨助けて、一流👑の学者🏫にしよう。
そして私も、諦めていた文章📝を書いてお金💰をもらうことに、もう一回挑戦🌟しようと。😊✊
結果的に、息子は元気🍀に成長してくれましたし、
夫は大学教授🏫になり、
私も機会に恵まれて作家デビュー🌟を果たすことができました。😊🎵
それもこれも、全部、あの山崎の誓い✊✨があって実現🌸したことです。
(まさに人生🍀を変える🔄転機🌸となったわけですね)
私を叩き💢直して💫下さった女性🌸は、
2年前に亡くなり😇ました。
生前、
「『あんたが変わらなければあかん』
という言葉🍀に支えられました😢」
ってお礼✨を言ったら、
「あれは、私の言葉🍀じゃないねん」
っておっしゃいました。😊
ご自分が筋ジスの息子さんを抱えて泣いて😢いた時に、
先輩🍀のお母さん🌸から言われたんだと。😊🌟
あぁ、力✊のある言葉🍀って受け継がれていくんだなと思って、
私もいま、障がい児😵のお母さんが相談🍀に見える度に
「あんたが変わらければ、あかんよ😊」
と、お伝え🎵しているんです。😊☀️
(つづく)
(「致知」5月号 脇谷みどりさんより)
(脇谷さんは、ご家族3人の介護🌸されながら、ラジオ📻のパーソナリティー🎤や執筆活動✒️をしてこられたそうですね)
FMラジオ📻のパーソナリティー🎤を始めたのは、平成17年でした。
脳性麻痺🌀の "かのこ"(娘の名前)が気管切開🌸して呼吸器をつけた頃で、
介護🌸がものすごく大変😵だったんですが、
たまたま娘がお世話になっていた園の隣にあるスタジオ🎤で、
地元西宮のコミュニティー番組をやっていましてね。😊
出演🌸の依頼を受けて、娘の介護🌸のお話🎵をしたら、
アナウンサーの方が心配😨なさるので、
「いやいや、諦めることはないですよ」
って。
「実は私、実家でうつ病になった母🌸を喜ばせるために、五千枚(放送当時は3,000枚)、毎日☀️ハガキを書き続けたら、よくなって、😊
母は、そこから作家✒️にまでなったんですよ」
という話をしたんです。😊🎵
そうしたら、しばらくしてラジオ局📻から
「番組をやりませんか?」
ってご依頼🌸をいただいたんです。😊
私と同じ重度🚨の障がい児😷を持ったお母さんの中には、
夜中🌌に熟睡しないようにラジオ📻やテレビ📺をつけっぱなしにして寝る💤方がたくさんいらっしゃるんです。😊
お子さんが発作💥を起こした時、すぐ気づかないといけませんから。😊
番組では、そういう皆が知らない親の苦しみ😩、悲しみ😢をいろいろお話🎵しするんですが、
早いものでもう13年ですよ(笑)。
(いま、お母様に5,000枚もハガキ✉️を書いたとおっしゃいましたね)
ええ。阪神・淡路大震災💢の翌年に、大分の実家🏠にいた母がうつ病😨と認知症😵を発症🌟したんです。
娘のかのこを抱えていたので家を離れることができなくて、
代わりに毎日一枚、「くすっ」と笑える😊話をハガキ✉️に書いて送ることにしたんです。
それを13年と11ヶ月かけて、5,000枚描き続けたんですが、
おかげさまで、母はうつ病も認証もなくなり😊、
おまけに元気🍀になって、書いた作品が出版社🏢の目に留まって👀、
77歳で作家デビュー🌟まで果たしたんです。
そのハガキ✉️は、とにかく母に治って欲しい🙏一心💓で書き送ったもので、
公にする気は全くなかったんですけど、
母がすべて保管🌸していたので、
私が本📖にすることになりました。
ところが、その後で、
両親を大分から呼び寄せたら、
次の年に、母が脳梗塞⚡️で倒れ、
4年目に父が認知症😵を発症しました。
かのこと併せてトリプル介護🌸の生活が始まりました。😊☀️
そういう体験🌸を、エッセーにまとめて新聞📰に連載したり、本📖にしたりしてきたんです。😊
(もともと書くことはお好き💕だったのですか)
小さい頃、幼稚園🏡に行かないで小学校🏫に入ったら、
いじめ✊の対象になって😵、いつも図書館に逃げ込んで🏃💨本を読んでいるうちに、詩や童話を書くようになったんです。😊
高校🏫の時に、雑誌📖の詩のコーナーで詩人の丸山薫さんに選んでいただいて、
書くことに自信🍀を持つようになりましたね。
学校🏫を出て航空会社✈️に勤務🌸した後に結婚退職して、一男👦一女👧に恵まれるんですか、
28歳で出産🌸した長女の かのこ は2ヶ月くらい経っても目👀でものを追わなくて、
大きな病院🏥で調べてもらうと、
脳性麻痺🌀だということが分かり🌟ました。
周りからは、
「そんな大変な子を育てられるわけがないから、施設🏡に預けなさい💢」
と散々☁️言われましたが、
私は、どうしても✊自分の側で、育てたかった。✊😊
もちろん不安😱でした。
ちゃんと育てられるかなって。😊
(それでどうなされましたか)
どうしていいか分からなくて、診断📊を受けた日、
かのこ👧を抱っこし、長男👦の手を引いて行ったのが、
筋ジストロフィーの息子さん👦を育てた地元で有名🍀な女性🌸のお宅🏠でした。
その方は、
私がワンワン💦泣いて😂いる間に
「おめでとう🌟、よかったね。💕
ここから、あんたの、ほんまもんの人生🍀が始まるんだよ😊」
って言うんです。😵
「ほんまもんの人生なんか、いりません😭」
って泣き続ける私に、
「私たち家族🌸は、筋ジスの息子👦がいたおかげで、
いまがある🌟と思ってるんやで😊」
と話してくださいました。😊🎵
当時の障がい児🌀は養護学校🏫にも行けず、
病院🏥か家🏠で暮らすしかなかったそうです。
ご夫婦👪は、息子を絶対に手放さない✊ことを決意🌟して、
優秀な専門医🏥をつけ、家庭教師🌸をつけるために、
介護🌸をしながら必死⚡️で働く🍳🍴のです。
あいにく、その子は16歳で亡くなり😇ましたが、
その間に、家業🌸はどんどん盛り上がった⤴️というんです。
「あんたも、絶対😊幸せ💕になれる。
頑張れるか?」
と言われて、
私も
「がんばります✊」
と答えるしか、ありませんでした。😊
(その女性との出会い🌟が、大きな転機🔄になったわけですね)
私の心💓の内をすべて披瀝🌈✨できる人でした。
そして、かのこをなんとしても歩かせたい✊と思って週三回もリハビリに連れて行くようになったんです。😊
ところが1年経ち、2年経つうちに病状はどんどん悪く😵なって、
発作💥や肺炎💢を繰り返して
月に1度は入院🏥するようになったんです。
周りには精いっぱい✨明るく☀️振る舞っていたんですけど、
心💓の中は
「幸せ💕になると言われたのに、
どんどん不幸になっていくやんか😨」
と思うわけです。😊
(逆に状況は厳しく⚡️なったと)
娘につきっきりで、3歳の息子👦は放ったらかし☁️です。
12月のある日、入院中の病院🏥から、夜電話してみたら
「寒いよ、お母さん…😨」
と。
慌てて💢タクシー🚕で戻ったら、
こたつに首まで潜り込んで震えて⚡️いたんです…。
「こんな時くらい家🏠にいてやってよ」
と、夫を責めたり💥もするようになるんですよね。😔
娘と息子の間で、体が張り裂け💢そうでしたし、
娘ももう十分苦しんだから、心臓💓を止めて⚠️楽にしてやってください🙏って思う時もありました。😔
1人になると、泣いて😢いました。
冬⛄️の日、
バス🚌に乗ると「音🎵刺激」で娘が発作💥を起こして、
泣き叫ぶので、バスに乗れず、
粉雪⛄️の中、娘をおんぶして息子を抱いてバス停をいくつも歩く👟👟わけです。
横の国道、大きなトラック🚚がゴーゴー走って、
「あ〜、50センチ車道に入ったら、全てが終わる」
と、思ったこともありました。😵
人間🍀って不思議なもので、
魔😈がさすっていうのか😵、、、
何メートルが歩くと、
これ以上、不幸にはならないだろう✊と笑えて😊きたものです。
(どのようにして乗り切られたのですか)
唯一本音🌸を吐けたのが、先ほどお話しした筋ジスの息子さんを育てた女性🌸だったんですけど、
いつ訪ねても
「あんたが、変わらなければ、あかんのやで😊」
とおっしゃるんです。
私はいつも周りの人に明るく☀️振る舞っているのに
「あんたが変わらなければあかん」
と。😵
かのこを京都の病院🏥へ連れて行くためにJR京都線🚋に乗っていたんですね。
発作でいつ泣き出すか分からないので、
いつもすぐ降りられるようにドア🚪のところに立つようにしていました。
山崎駅で電車🚋が止まって、外を見たら、
田んぼが緑🍀の絨毯のように広がっていたんです。
その間の道を、赤い車🚗が走っていく。
思わず
「かのこちゃん、あの車🚗の中には幸せ💕な家族🌸が乗っているんやろうね🎵」
って呟(つぶや)いていました。
その時、初めて気がついたんです。🌟🌟🌟
「あ、私は、自分のことをメチャクチャ不幸や😵と思ってるんやな🌟」
と。😊
(それまで自覚🌟がなかった)
心💓の奥に押し隠して🌚いたんでしょうね、😊
無意識に、いい母🌸を演じていたんでしょう。
そして、
「変わらなければあかん✊」
というのは、
心💓の闇🌚の部分だったんだなと。😊
いくら表面を取り繕っても、
私の本質⚡️は、かのこが生まれた瞬間🌟から、全く変わっていなかったことに気づいた🌟んです。😊
その山崎で、私は
「変わろう✊」
と誓い✨ました。😊
かのこが歩けないからって何が悪いの。✊
歩けなくても、世界一🌏幸せ💕な子にしてやろう。😊🎵
夫も、私が精いっぱい✨助けて、一流👑の学者🏫にしよう。
そして私も、諦めていた文章📝を書いてお金💰をもらうことに、もう一回挑戦🌟しようと。😊✊
結果的に、息子は元気🍀に成長してくれましたし、
夫は大学教授🏫になり、
私も機会に恵まれて作家デビュー🌟を果たすことができました。😊🎵
それもこれも、全部、あの山崎の誓い✊✨があって実現🌸したことです。
(まさに人生🍀を変える🔄転機🌸となったわけですね)
私を叩き💢直して💫下さった女性🌸は、
2年前に亡くなり😇ました。
生前、
「『あんたが変わらなければあかん』
という言葉🍀に支えられました😢」
ってお礼✨を言ったら、
「あれは、私の言葉🍀じゃないねん」
っておっしゃいました。😊
ご自分が筋ジスの息子さんを抱えて泣いて😢いた時に、
先輩🍀のお母さん🌸から言われたんだと。😊🌟
あぁ、力✊のある言葉🍀って受け継がれていくんだなと思って、
私もいま、障がい児😵のお母さんが相談🍀に見える度に
「あんたが変わらければ、あかんよ😊」
と、お伝え🎵しているんです。😊☀️
(つづく)
(「致知」5月号 脇谷みどりさんより)