🌸🌸知られざる日本の偉人🌸🌸④
(松沢フミさん)
🔹岡田、もちろん歴史上の偉人🌸も大事なんですが、
日本🇯🇵には「名もなき一庶民」が、歴史に残るような偉業🌸をなした例が数多くあります。😊
例えば、日本政府🏤と日本国民が力を合わせ、多数のポーランド孤児👦👧を救った話などは、
ほとんど知られていないと思います。😵
🔸服部、知られていませんね。
🔹岡田、これはどういう話かというと、
第一次世界大戦💣やロシア革命🇷🇺⚡️の混乱🌀の中、
シベリア⛄️にいたポーランド人が、数多く亡くなり😇、両親を失った😵孤児が何千人🗻と出たのです。
そこで、その悲惨な😵状況を見るに見かねて、ウラジオストック在住のポーランド人たちが立ち上がり✊、
大正8年に「ポーランド救済委員会🌸」がつくられました。
ところが、救済委員会が欧米各国🌍に「孤児たちを助けてほしい🙏」と訴えても、
同じキリスト教国にもかかわらず、ことごとく断る✋んです。
🔸服部、欧米諸国は断った⚡️と。😵
🔹岡田、それで「もう頼れるのは日本🇯🇵しかいない」と、救済委員会🌸の会長が日本にやって来て、
当時の原敬内閣🏤に
「孤児を何とかしてもらえませんか🙏」
と嘆願します。
日本政府🇯🇵は、その救済の申し出を快諾🌟。
日本赤十字社🏥が救援活動🍀を中心に担い、
早くも翌月7月には、375人のポーランド孤児👦👧を
陸軍輸送船🚢に乗せ、敦賀経由で東京🗼まで運びました。
🔸服部、本当に迅速⚡️な対応でした。
🔹岡田、それで子供たちは、もう飢えて体はガリガリ😱、半病人😨もいっぱいいたのですが、
それを全員治療🌸して健康🍀にし、着物👚も与えてあげて、
祖国ポーランドまで送り返して↩️あげました。🎵
さらに大正11年には、
第二回救済事業🌸として、大阪で390人の子供たちを受け入れ、
同じく1人の死者を出すこともなく祖国🌍まで送り返しました。😊
また、大正天皇のお妃🌸である貞明皇后様も、ポーランドの子供たちに深く同情💓され、
現在の価値👑で約5000万円の御手元金💰を出されていますし、
ポーランドの子供たちの元には、
全国🗾から、子供用の衣服👚や義援金💰などが殺到⚡️しました。
🔸服部、困っている人の力✊になりたいという日本人🇯🇵の優しい💕心根が伝わってきます。😊🎵
🔹岡田、この第一回救済事業の時には、日本国内で腸チフスが流行し、二十数人のポーランドの子供たちが腸チフス👿に罹ってしまいます。😵
日赤の医師🏥や看護師🌸たちが
「ここで死者を出したら申し訳ない」
と、全力✊をあげて治療💉したことで、
全員元気🍀にすることができたのですが、
その時に、看護🌸をしていた
23歳の松沢フミという女性🌸が腸チフスに罹るんです。😵
ところが、フミは腸チフスになっても、
昼夜問わず献身的に子供たちを看護🌸し続け、
心配する同僚🌸たちには、こう言ったといいます。
「人は誰でも、自分の子👶や弟👦や妹👧が病に倒れたら、
己が身を犠牲⚡️にしても助けようとします。😊
けれども、この子たちは、両親も兄弟🍀、姉妹🌸もいないのです。✊
誰かが、その代わりにならなければなりません。✊
私は、決めた🌟のです。
この子たちの、姉🌸になると☀️」
そしてフミは、殉職😇。
ポーランドの子供たちは、その死を悼み😭、声が嗄れるほど泣いた😭といいます。
🔸服部、胸を打つ😭お話です。
フミは、医師が
「もうこの子は助からないかもしれない😰」
という女の子👧を、
「どうせ死ぬなら、私の手の中で死なせてあげよう😊」
と言って、毎晩🌌、就寝の時に抱き寄せて☀️添い寝💤したそうですね。
それで、腸チフスが、うつってしまった。😵
そうしたフミが示した思いやり💕の心❤️は、
私たちが子供たちに、ずっと語り継い☁️でいかなくてはなりません。✊
🔹岡田、フミは名もなき一庶民🌸ですが、
歴史📚に残されるべき偉人🌸です。😊☀️
(つづく)
(「致知」4月号 岡田幹彦さん服部剛さん対談より)
(松沢フミさん)
🔹岡田、もちろん歴史上の偉人🌸も大事なんですが、
日本🇯🇵には「名もなき一庶民」が、歴史に残るような偉業🌸をなした例が数多くあります。😊
例えば、日本政府🏤と日本国民が力を合わせ、多数のポーランド孤児👦👧を救った話などは、
ほとんど知られていないと思います。😵
🔸服部、知られていませんね。
🔹岡田、これはどういう話かというと、
第一次世界大戦💣やロシア革命🇷🇺⚡️の混乱🌀の中、
シベリア⛄️にいたポーランド人が、数多く亡くなり😇、両親を失った😵孤児が何千人🗻と出たのです。
そこで、その悲惨な😵状況を見るに見かねて、ウラジオストック在住のポーランド人たちが立ち上がり✊、
大正8年に「ポーランド救済委員会🌸」がつくられました。
ところが、救済委員会が欧米各国🌍に「孤児たちを助けてほしい🙏」と訴えても、
同じキリスト教国にもかかわらず、ことごとく断る✋んです。
🔸服部、欧米諸国は断った⚡️と。😵
🔹岡田、それで「もう頼れるのは日本🇯🇵しかいない」と、救済委員会🌸の会長が日本にやって来て、
当時の原敬内閣🏤に
「孤児を何とかしてもらえませんか🙏」
と嘆願します。
日本政府🇯🇵は、その救済の申し出を快諾🌟。
日本赤十字社🏥が救援活動🍀を中心に担い、
早くも翌月7月には、375人のポーランド孤児👦👧を
陸軍輸送船🚢に乗せ、敦賀経由で東京🗼まで運びました。
🔸服部、本当に迅速⚡️な対応でした。
🔹岡田、それで子供たちは、もう飢えて体はガリガリ😱、半病人😨もいっぱいいたのですが、
それを全員治療🌸して健康🍀にし、着物👚も与えてあげて、
祖国ポーランドまで送り返して↩️あげました。🎵
さらに大正11年には、
第二回救済事業🌸として、大阪で390人の子供たちを受け入れ、
同じく1人の死者を出すこともなく祖国🌍まで送り返しました。😊
また、大正天皇のお妃🌸である貞明皇后様も、ポーランドの子供たちに深く同情💓され、
現在の価値👑で約5000万円の御手元金💰を出されていますし、
ポーランドの子供たちの元には、
全国🗾から、子供用の衣服👚や義援金💰などが殺到⚡️しました。
🔸服部、困っている人の力✊になりたいという日本人🇯🇵の優しい💕心根が伝わってきます。😊🎵
🔹岡田、この第一回救済事業の時には、日本国内で腸チフスが流行し、二十数人のポーランドの子供たちが腸チフス👿に罹ってしまいます。😵
日赤の医師🏥や看護師🌸たちが
「ここで死者を出したら申し訳ない」
と、全力✊をあげて治療💉したことで、
全員元気🍀にすることができたのですが、
その時に、看護🌸をしていた
23歳の松沢フミという女性🌸が腸チフスに罹るんです。😵
ところが、フミは腸チフスになっても、
昼夜問わず献身的に子供たちを看護🌸し続け、
心配する同僚🌸たちには、こう言ったといいます。
「人は誰でも、自分の子👶や弟👦や妹👧が病に倒れたら、
己が身を犠牲⚡️にしても助けようとします。😊
けれども、この子たちは、両親も兄弟🍀、姉妹🌸もいないのです。✊
誰かが、その代わりにならなければなりません。✊
私は、決めた🌟のです。
この子たちの、姉🌸になると☀️」
そしてフミは、殉職😇。
ポーランドの子供たちは、その死を悼み😭、声が嗄れるほど泣いた😭といいます。
🔸服部、胸を打つ😭お話です。
フミは、医師が
「もうこの子は助からないかもしれない😰」
という女の子👧を、
「どうせ死ぬなら、私の手の中で死なせてあげよう😊」
と言って、毎晩🌌、就寝の時に抱き寄せて☀️添い寝💤したそうですね。
それで、腸チフスが、うつってしまった。😵
そうしたフミが示した思いやり💕の心❤️は、
私たちが子供たちに、ずっと語り継い☁️でいかなくてはなりません。✊
🔹岡田、フミは名もなき一庶民🌸ですが、
歴史📚に残されるべき偉人🌸です。😊☀️
(つづく)
(「致知」4月号 岡田幹彦さん服部剛さん対談より)