母の教育②(マイ・ストーリー②)
学校での出来事についてはすべて母に話した。
休みに私たち友達同士の話から情報を得る母に、
私は午後に帰宅するなりカバンを床に放ってお菓子のもとへ急ぎながら続きを知らせた。
そういえば、私と兄が学校にいる間に母が何をしていたのかをはっきりとは知らない。
子どもは自己中心な生き物なので、1度も訊かなかった。
仕事をせず昔ながらの専業主婦でいることに対して母がどう思っていたのかわからない。
わかっていたのは、家に帰ればいつも冷蔵庫には私の分だけではなく友達の分まで食べ物があったことくらいだ。
クラスで遠足に行くとなれば、母はほぼいつも付き添い係に立候補し、
おしゃれなワンピースを着て濃い色の口紅を塗り、
コミュニティ・カレッジや動物園までバスに乗って一緒に向かった。
家族での生活には予算の制約があったが、それについて話し合うことはあまりなかった。
母はいつもうまくやりくりしていた。
ネイルと髪染めは自分でやり(いちど思いがけず緑の髪になっていた)、
新しい服を手に入れるのは誕生日プレゼントに父からもらうときだけだった。
その後も金持ちになる事はなかったが、母は何をするにも器用だった。
私が幼い頃には、古い靴下から魔法のようにマペットそっくりの指人形を作り上げた。
かぎ針編みのドイリーからはテーブルクロスを作った。
服もたくさん作ってくれたが、中学生になると私からもうやめてと言った。
前ポケットにグロリア・ヴァンダービルトの白鳥の形をしたロゴマークがついたジーンズを穿くことがステータスのすべてだと感じるようになったからだ。
また、母はしょっちゅう居間の模様替えをしていた。
ソファーの布カバーを替え、壁にかけた額入りの写真や絵もよく取り替えていた。
あったかくなると儀式のように春の大掃除に取り掛かった。
家具に掃除機をかけ、カーテンを洗濯し、
さらに二重窓はすべて取り外してクリーナーでガラスを磨いて、窓枠を拭いてから、
狭くて混み合った私たちの住まいに春の風を入れるために網戸をつけて再びはめ込んだ。
それから、特にロビーとテリーが年老いてあまり動けなくなってからは1階もきれいに掃除した。
私は今でも松の匂いのする液体クリーナーの香りをかぐたびに清々しい気分になるが、それは母のおかげだ。
クリスマスシーズンの母はとりわけクリエイティブだった。
ある年には、赤レンガ柄が印刷された段ボールを箱型の金属製ヒーターにかぶせることを思いつき、
段ボールを片足からホッチキスでつなぎ合わせて天井まで届く煙突や炉だなと炉床付きの暖炉をつくった。
一家の美術担当である父には極薄のライスペーパーにオレンジ色の炎を描かせ、
その後ろで電球を点けるとなかなか本物の火らしくなった。
大晦日には決まって特別な籠入りのオードブルを買ったものだが、
そこにはブロックチーズ、缶入りの牡蠣の燻製、様々な種類のサラミなどが入っていた。
その日は父の妹のフランチェスカを招いてボードゲームをした。
夕食にはピザを注文し、母が用意してくれるソーセージパンやエビのフライ、リッツクラッカーの上にチーズクリームを塗って焼いたカナッペなどもつまみながら優雅な夜を過ごした。
年明けが近づくと小さなグラスでシャンパンを飲んだ。
今になって考えると、母の教育精神は素晴らしく、私にはほとんど真似できないものだ。
禅の精神のように物事に動じず、バランス感覚が優れていた。
友達の中には、母親が子供に構いすぎて我が子の喜びも悲しみも自分のことのように思ってしまうケースもあれば、
両親とも自分の問題に手一杯で、あまり構ってもらえない子供もたくさんいた。
その点、うちの母はいつも落ち着いていた。
急性に判断を下すこともなければ、子供にあれこれ干渉することもなかった。
私たち子供の心の状態を観察し、
いずれ訪れる様々な苦痛や成功について慈愛あふれる教えを説いた。
私たち子供にとってうまくいかないことがあっても、少ししか同情しなかった。
私たちが何か大きなことを成し遂げれば、自分も嬉しいのだとわからせる範囲で褒め、
決して褒められること自体が目的にならないように節度を保った。
母がアドバイスをくれるとき、それは現実的で実利的なことが多かった。
「担任の先生を好きにならなくてもかまわないけどね」
と、家に帰って不満を吐き出す私にある日の母は言った。
「誰にでも自分なりの考えがあるはずで、それはあなたにも必要なものよ。
そのことに目を向けて、他は気にしないようにしなさい」
母は兄と私にいつでも愛情注いでくれたが、過剰に世話を焼くことはなかった。
目的は私たちを外の世界に送り出すことだった。
「私は赤ちゃんを育てているんじゃないの。
大人を成長させているの」
と母はよく言っていた。
母も父もルールというよりガイドラインを与えてくれた。
だからこそ、ティーンエイジャーのときも門限はなかった。
その代わり、
「家には何時に帰ってくるべきだと思う?」
と訊き、私たち子供は自分で定めたその時間を守るものと信頼してくれた。
兄によると、8年生のある日、好きな女の子から含みのある誘いを受けたという。
それは彼女の家に来ないかというものだったが、両親がいないから2人きりになれると強調してきたらしい。
兄には行くべきかどうか一人でさんざん悩んだ。
そのチャンスにはそそられたが、父と母ならこんなこそこそとした背徳的な行為を許さないだろうとわかっていた。
そこで兄は母に半分だけ事実を伝えることにした。
女の子と会う予定だけれど、場所は公園だと話した。
しかし結局、嘘をついた罪悪感、そもそもそんな嘘を考え出した罪悪感にすら耐えられなくなり、
兄はついに家で2人きりでのデートだと母に打ち明けた。
カンカンに怒った母に行くのを禁じられると予想し、
おそらくそれを期待しての告白だった。
でも母は止めなかった。
当然だ。
母はそんなやり方をする人ではなかった。
母は兄の話に耳を傾けたが、現場の迷いから解放してやることはしなかった。
軽い調子で肩をすくめて、再び自分一人で悩ませることにした。
「一番いいと思うやり方で、どうにかしなさい」
とだけ言って、皿洗いだったが山積みの洗濯物をたたむ作業だったかに戻った。
これもまた、わが子を外の世界に送り出すための小さな一押しだった。
きっと心の底では兄が正しい選択をするとわかっていたのだろう。
今考えると、母の行動の裏にはすべて、
自分が子供たちを大人に育てあげたいのだという口には出さない自信があった。
私たちは自分で自分の決定を下した。
私たちの人生は私たちのもので、母のものではなく、
この先もずっと変わらないのだから。
(「マイ・ストーリー」(集英社)ミッシェル・オバマ著 長尾莉紗 柴田さとみ訳)
学校での出来事についてはすべて母に話した。
休みに私たち友達同士の話から情報を得る母に、
私は午後に帰宅するなりカバンを床に放ってお菓子のもとへ急ぎながら続きを知らせた。
そういえば、私と兄が学校にいる間に母が何をしていたのかをはっきりとは知らない。
子どもは自己中心な生き物なので、1度も訊かなかった。
仕事をせず昔ながらの専業主婦でいることに対して母がどう思っていたのかわからない。
わかっていたのは、家に帰ればいつも冷蔵庫には私の分だけではなく友達の分まで食べ物があったことくらいだ。
クラスで遠足に行くとなれば、母はほぼいつも付き添い係に立候補し、
おしゃれなワンピースを着て濃い色の口紅を塗り、
コミュニティ・カレッジや動物園までバスに乗って一緒に向かった。
家族での生活には予算の制約があったが、それについて話し合うことはあまりなかった。
母はいつもうまくやりくりしていた。
ネイルと髪染めは自分でやり(いちど思いがけず緑の髪になっていた)、
新しい服を手に入れるのは誕生日プレゼントに父からもらうときだけだった。
その後も金持ちになる事はなかったが、母は何をするにも器用だった。
私が幼い頃には、古い靴下から魔法のようにマペットそっくりの指人形を作り上げた。
かぎ針編みのドイリーからはテーブルクロスを作った。
服もたくさん作ってくれたが、中学生になると私からもうやめてと言った。
前ポケットにグロリア・ヴァンダービルトの白鳥の形をしたロゴマークがついたジーンズを穿くことがステータスのすべてだと感じるようになったからだ。
また、母はしょっちゅう居間の模様替えをしていた。
ソファーの布カバーを替え、壁にかけた額入りの写真や絵もよく取り替えていた。
あったかくなると儀式のように春の大掃除に取り掛かった。
家具に掃除機をかけ、カーテンを洗濯し、
さらに二重窓はすべて取り外してクリーナーでガラスを磨いて、窓枠を拭いてから、
狭くて混み合った私たちの住まいに春の風を入れるために網戸をつけて再びはめ込んだ。
それから、特にロビーとテリーが年老いてあまり動けなくなってからは1階もきれいに掃除した。
私は今でも松の匂いのする液体クリーナーの香りをかぐたびに清々しい気分になるが、それは母のおかげだ。
クリスマスシーズンの母はとりわけクリエイティブだった。
ある年には、赤レンガ柄が印刷された段ボールを箱型の金属製ヒーターにかぶせることを思いつき、
段ボールを片足からホッチキスでつなぎ合わせて天井まで届く煙突や炉だなと炉床付きの暖炉をつくった。
一家の美術担当である父には極薄のライスペーパーにオレンジ色の炎を描かせ、
その後ろで電球を点けるとなかなか本物の火らしくなった。
大晦日には決まって特別な籠入りのオードブルを買ったものだが、
そこにはブロックチーズ、缶入りの牡蠣の燻製、様々な種類のサラミなどが入っていた。
その日は父の妹のフランチェスカを招いてボードゲームをした。
夕食にはピザを注文し、母が用意してくれるソーセージパンやエビのフライ、リッツクラッカーの上にチーズクリームを塗って焼いたカナッペなどもつまみながら優雅な夜を過ごした。
年明けが近づくと小さなグラスでシャンパンを飲んだ。
今になって考えると、母の教育精神は素晴らしく、私にはほとんど真似できないものだ。
禅の精神のように物事に動じず、バランス感覚が優れていた。
友達の中には、母親が子供に構いすぎて我が子の喜びも悲しみも自分のことのように思ってしまうケースもあれば、
両親とも自分の問題に手一杯で、あまり構ってもらえない子供もたくさんいた。
その点、うちの母はいつも落ち着いていた。
急性に判断を下すこともなければ、子供にあれこれ干渉することもなかった。
私たち子供の心の状態を観察し、
いずれ訪れる様々な苦痛や成功について慈愛あふれる教えを説いた。
私たち子供にとってうまくいかないことがあっても、少ししか同情しなかった。
私たちが何か大きなことを成し遂げれば、自分も嬉しいのだとわからせる範囲で褒め、
決して褒められること自体が目的にならないように節度を保った。
母がアドバイスをくれるとき、それは現実的で実利的なことが多かった。
「担任の先生を好きにならなくてもかまわないけどね」
と、家に帰って不満を吐き出す私にある日の母は言った。
「誰にでも自分なりの考えがあるはずで、それはあなたにも必要なものよ。
そのことに目を向けて、他は気にしないようにしなさい」
母は兄と私にいつでも愛情注いでくれたが、過剰に世話を焼くことはなかった。
目的は私たちを外の世界に送り出すことだった。
「私は赤ちゃんを育てているんじゃないの。
大人を成長させているの」
と母はよく言っていた。
母も父もルールというよりガイドラインを与えてくれた。
だからこそ、ティーンエイジャーのときも門限はなかった。
その代わり、
「家には何時に帰ってくるべきだと思う?」
と訊き、私たち子供は自分で定めたその時間を守るものと信頼してくれた。
兄によると、8年生のある日、好きな女の子から含みのある誘いを受けたという。
それは彼女の家に来ないかというものだったが、両親がいないから2人きりになれると強調してきたらしい。
兄には行くべきかどうか一人でさんざん悩んだ。
そのチャンスにはそそられたが、父と母ならこんなこそこそとした背徳的な行為を許さないだろうとわかっていた。
そこで兄は母に半分だけ事実を伝えることにした。
女の子と会う予定だけれど、場所は公園だと話した。
しかし結局、嘘をついた罪悪感、そもそもそんな嘘を考え出した罪悪感にすら耐えられなくなり、
兄はついに家で2人きりでのデートだと母に打ち明けた。
カンカンに怒った母に行くのを禁じられると予想し、
おそらくそれを期待しての告白だった。
でも母は止めなかった。
当然だ。
母はそんなやり方をする人ではなかった。
母は兄の話に耳を傾けたが、現場の迷いから解放してやることはしなかった。
軽い調子で肩をすくめて、再び自分一人で悩ませることにした。
「一番いいと思うやり方で、どうにかしなさい」
とだけ言って、皿洗いだったが山積みの洗濯物をたたむ作業だったかに戻った。
これもまた、わが子を外の世界に送り出すための小さな一押しだった。
きっと心の底では兄が正しい選択をするとわかっていたのだろう。
今考えると、母の行動の裏にはすべて、
自分が子供たちを大人に育てあげたいのだという口には出さない自信があった。
私たちは自分で自分の決定を下した。
私たちの人生は私たちのもので、母のものではなく、
この先もずっと変わらないのだから。
(「マイ・ストーリー」(集英社)ミッシェル・オバマ著 長尾莉紗 柴田さとみ訳)