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マイ・ストーリー③

2019-12-19 16:33:00 | お話
マイ・ストーリー③

診療予約を取ったのは私だったが、最終的に父を病院に連れて行ったのは母だった。

救急車で。

もはや両足はぶよぶよに腫れ上がり、ついに父も針の上を歩いているようだと認めた。

病院に行こうとしたときにはもう、父はまったく立ち上がれなかった。

その日私は職場にいたが、母があとからそのときの様子を教えてくれた。

たくましい救急隊に運び出されながら、父は彼にさえ冗談を言っていたという。

父はシカゴ大学の附属病院に直接搬送された。

それからのつらい数日間は、採血と脈拍の計測、手をつけることのない食事の配膳、医師の回診が繰り返された。

その間も父の体はどんどん膨れ上がっていた。

顔はパンパンで、首も太くなり声も弱々しくなっていった。

正式に診断を下されたの下された病名は、クッシング症候群(副腎皮質ホルモンの分泌過多で起こる代謝疾患)で、

持病の多発性硬化症と関係があるかもしれないし、ないかもしれないとのことだった。

いずれにせよ、救急処置を施せる段階はとっくに過ぎて、父の内分泌系はもうめちゃくちゃになっていた。

CTスキャン画像を見ると、喉の異物が巨大化しすぎてほぼ窒息状態にあることが分かった。

「どうして気づかなかったんでしょう」

父は心底困惑しているふうに医師に言った。

まるで、こんな状態になるまでいっさのの症状を感じなかったかのように。

実際には、数年とは言わずとも、数ヶ月、数週間と痛みに気づかないふりをし続けてきただけだ。

母、兄、ジャニス、私は入れ替わりで父に付き添った。

その間も医師は父に大量の投薬を続け、

父の体に取り付けられる管と機械が増えていった。

私たちはなんとか専門的な説明を理解しようと務めたが、

ほとんど意味がわからなかった。

父の枕を直し、大学バスケや外の気候についてたわいのない話をした。

もう父に話す体力は残っていないけれど、聞こえていることがわかっていたから。

うちは計画好きの一家だったが、いまやすべてが計画外だった。

ゆっくりと、父は私たちのもとを離れて見えない海の底へと沈みつづけていた。

昔の思い出を話をすると、父の目に少しだけ光が戻るのが見えた。

夏になると、ビュイックの巨大な後部座席に笑い転げる私を乗せて、

よくドライブインシアターに出かけたのを覚えている?

ボクシングのグローブをくれたことや、デュークス・ハッピー・ホリデー・リゾートのプールで遊んだことは?

ロビーのオペレッタ・ワークショップのためによく小道具を作ってたよね。

ダンディの家でディナーしたことは覚えている?

大晦日にママがエビのフライを作ってくれた事は?


ある晩見舞いに行くと、病室には父1人で、母は家に帰り、看護師は廊下のナースステーションに集まっていた。

部屋は静かだった。

その街階全体が静かだった。

3月の第1周で、冬に積もった雪が解けたばかりの町はもう二度と乾くことがないと思えるほど湿っていた。

父が入院してから10日ほど経っていた。

父はまだ55歳だったが、黄色い目をして重い腕を持ち上げられないその姿は、まるで老人のようだった。

目は覚ましていたが話すことができず、

それが体調のせいなのか、気持ちの問題だったのかは今もわからない。

私はベッド脇の椅子に座り、苦しそうに呼吸をする父を見た。

父の手に触れると、なだめるように握ってくれた。

私たちは黙ったまま見つめ合った。

話すべきことはなく、すべてすべて話してしまったようにも思えた。

残っているのは真実だけ。

終わりが近い。

父はもう回復しない。

この先の私の人生に父はいない。

父の安定感、父の安らぎ、父が毎日与えてくれる楽しみは、もうなくなってしまう。

涙が頬を伝うを感じた。

父は私をじっと見つめたまま、私の手を持ち上げてその甲に何度も何度も、何度もキスした。

ほら、泣かないで、と父なりに伝えたのだ。

父からも悲しみと切迫感を感じたが、同時にもっと深くて穏やかなメッセージが感じ取れた。

キスを通して父は、心の底から私を愛していて、こんなに成長したことを誇りに思うと伝えてくれた。

確かにもっと早く病院に来るべきだったね、どうか許してくれ、と言っていた。

そして、さよならを言った。

その夜は父が眠りにつくまでそばにいて、

凍りつく闇の暗闇の中、病院を出て母のいる家に帰ると、もう電気は消されていた。

家には私と母と、この先家族に訪れる未来だけが存在していた。

なぜなら、太陽が昇るころにはもう父はいないだろう。

私たちにすべてを与えてくれた父、フレイザー・ロビンソン三世は、その深夜に心臓発作を起こして永眠した。


ー・ー・ー・ー


誰かが死んだ後は生きるのがつらい。

何をしても痛みを伴う。

廊下を歩いても、冷蔵庫を開けても、靴下を履いたり、歯を磨いたりするだけでも。

何を食べても味がしない。

色彩も単調になる。

音楽を聴いても、記憶がよみがえってもつらい。

普段なら美しいと思えるもの、夕暮れの紫の空や子供でいっぱいの遊び場を見ても、喪失感が深まるだけ。

この悲しみはとても孤独だ。

父が死んだ次の日、私は母と兄と一緒にサウス・サイドの葬儀場に行き、

棺を選んで葬儀の段取りを決めた。

葬儀場関係者が「ご手配」と呼ぶものだ。

そこでのことはあまり覚えていないけど、私たちはただ呆然とし、それぞれの悲しみの中に閉じこもっていた。

しかしそんな時だと言うのに、遺体を納める棺の購入という忌まわしい手続きについて、

兄と私は大人になってからはじめての兄妹喧嘩をした。

喧嘩の理由はこうだ。

私はその場にある最も豪華で最も高価なもの、取っ手やクッションがたくさんついた棺を買いたかった。

理論的な証拠があったわけではない。

他にできることが何もなかったので、せめてそのぐらいはしたかったのだ。

現実主義になるよう育てられた私にとって、数日後の葬儀で親切な参列者から山ほど贈られるありきたりなお悔やみの言葉など重要ではなかった。

父はここよりも素敵な場所に行ったのだとか、

今ごろは天使に囲まれて座っているなどと言われても、心が安らぐわけでもない。

だからこそ、せめて父を豪華な棺桶に入れてあげたいと思った。

それに対して兄は、父ならもっとシンプルな棺を、控えめで実用的で無駄でもないものを好むだろうと言った。

そのほうが父の性格に合っている。

それ以外は派手に派手すぎるというわけだ。

初めては静かな口論だったが、たちまち大喧嘩になった。

葬儀担当者は気を遣って聞こえないふりをし、

母は悲しみの霧の中から無表情な目でその様子を見ていた。

私たちは論点とは関係のないことまで怒鳴り合った。

結局どちらも棺へのこだわりなどそれほどなかったのだ。

最終的にはお互いに妥協して、豪華すぎず質素すぎない棺を選び、

二度とこの件については蒸し返さなかった。

私たちは不条理で不適切な言い合いをしたが、

誰かの死の直後は、世界のすべてが不条理で不適切に感じるものだ。

その後、母とともに実家に戻った。

3人で1階のキッチンテーブルを囲んで座ったが、

誰もが憔悴していて空気は重く、1つ空いた椅子があるのを見ると悲しみが再び押し寄せてきた。

私たちは泣き出した。

長い時間そこに座ったまま泣きじゃくり、

やがて疲れて涙も枯れ果てた頃、

その日ほとんど話していなかった母がついに口を開いた。

「なんて ざまなの」

と、悲しげに言った。

それでも、その言い方にはわずかに軽い調子が含まれていた。

家族そろってばかばかしいほど情けない状態にあることを指摘したのだ。

もはや誰が誰だかわからないくらい目を腫らし、

鼻水を垂らして、自宅のキッチンで傷ついた心と奇妙な無力感を抱えている。

私たちは誰だっけ?

わかっているでしょはは?

パパが教えてくれたでしょ?

母はそっけない一言で、私たちを心から呼び戻したのだ。

母にしかできないことだ。

母が私を見て、私が兄を見ると、

とたんになんだかおかしくなってきた。

いつもなら、最初の笑い声は、今空いている席から聞こえてくるはずだった。

それでも私たちはクスクスと笑い出し、

ついには思いっきり大笑いをした。

奇妙な光景に思えるだろうが、

泣いているときよりずっと気分がよかった。

きっと父もこっちの方が好きだろうと思ったので、笑うことにした。


(「マイ・ストーリー」(集英社)ミッシェル・オバマ著 長尾莉紗 柴田さとみ訳)