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「武家のお嬢様」①

2016-03-05 14:11:11 | 伝統的考え方
「武家のお嬢様」①


私の曾祖父(そうそふ)は、水戸徳川家の流れをくむ、讃岐(さぬき)国、高松藩松平家の末裔・頼聡(よりさと)で、

そこに嫁いだ曾祖母・千代子は、
井伊直弼の次女でした。

婚礼には、街道を埋め尽くすくらいお嫁入り道具を伴ってきたんですが、

桜田門外の変が起きて、
井伊直弼が水戸藩士に襲われてしまいました。

親が敵同士になりましたから、

普通だったら、
そこで離縁状を渡して終わりますけど、

2人は互いに想い合っていて、
明治になってから結ばれました。

二人の子である祖父の松平 胖(ゆたか)に嫁いだ祖母の俊子は、

鍋島の侯爵家だった鍋島直大(なおひろ)の、六女でした。

西洋の文化を重視していた鍋島家から、
武家の精神がしっかりと息づいてる松平家に移ってきたわけです。

娘の頃はとても活発で、学習院時代のお授業の終わりになる頃に、

「一番後ろで、お廊下に一歩足を出すぐらいの気持ちでいたのよ」

と、おっしゃっていました。

終わった途端に、真っ先に駆けて
テニスコートを取りに行ったんですって(笑)。


けれども、ただ好奇心が旺盛なだけではなくて、

17歳で結婚した後も、
立ち居振る舞いを厳しく躾けられてきました。

鍋島家の娘として身につけた、お琴とか、鼓とか、能とかも、ずっと続けられていました。

社会的にもずいぶん活躍した人で、

関東大震災の時には、

怪我をして避難してきた人たちを、

お屋敷のカーテンを包帯代わりにして手当てをして差し上げ、

炊き出しをして、皆さんに振る舞ったそうで、

それがきっかけで日本赤十字の活動に関わるようになりました。

その時の、祖母の話が印象的でしてね。

松平家では、"一汁一菜"で、

「二分は、人様のために」

という、
「腹八分」の精神が貫かれていてるんです。

そして、祖母は、

あの震災の時に、家にあったお米を皆さんに振る舞いながら、

「あぁ、これが"二分の精神"なんだなぁ」

と深く納得したそうなんです。


そして、家族と生き別れになった子供たちのために

「子供の家」というものをつくって支援もしました。

今もそれはあるんですけど、

昔のお嬢様っていうのは、

"奉仕"というか、

"人のために何かする"っていう覚悟を、常に持っていらしたんですね。

それから、"これからは女子の教育が必要だ"と考えて、

昭和女子大学の前身だった日本女子高等学院の創立の時に、

世田谷に土地を払い受けて支援しているんです。

創立者の人見東明(ひとみとうめい)先生に請われて校長を務めましたが、

その時に、松平の作法を女子教育に取り入れて、

女性は、「美しく、逞(たくま)しく生きていく」ことを伝え続けました。


私がお嫁に行ってからも元気にしておりましたから、
随分長く一緒でした。

1番の思い出は、私が大学生の時のこたでした。

ドライブ好きだった祖母を
月に1回連れて行くことを条件に、

車を買ってもらったのですが、

夏の暑い時に、
お蕎麦屋さんに入って「ざるそば」を頼んだら、

祖母は、ざるそばに、おつゆをザーッとかけてしまって、

「あら大変、

このお皿、おつゆが漏れている」

って(笑)。

祖母は、何しろ、まだお毒味がいるような時代に育ったものですからね(笑)。

でも、ありがたかったのは、

お店の娘さんが、

「すみません」

ってスッと下げて、

すぐに深いお皿に入れ替えて持ってきてくれたのです。

普通でしたら、

「そうではなくて、こうやって食べるんですよ」

って説明するんでしょうけど、

彼女はそうしなかった。

おそらく社員教育など受けていないでしょうけれども、

自分の気持ちに従って咄嗟(とっさ)にそういう対応ができるというのは素敵でしょ。

私は販売をやっていますから、

本当のサービスって、これだなあって、
いま振り返って、つくづく思うんです。


つづく…

(「致知4月号」葵パール社長 松平洋史子さんより)


昔のお嬢様って、すごいですね。(^_^)

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