花水木の独り言

庭の大きなハナミズキの、白い蝶のような花びらや、真紅の葉に気持ちを託して・・徒然なるままにキーを打ちました。

山内荘に武家興隆の源を探る

2011-02-11 | 鎌倉の四季
 
   
   <<證菩提寺>>

武家興隆の源となった山内の荘園地帯に牧草地や水田や山砦を歩き、領主となった首藤一族が開発しその後を継いだ源氏、北条氏、足利氏に思いを馳せながら山里の風景を楽しんで来ました。

首藤山内屋敷跡

遠く藤原釜足の流れをくむ秀郷→資清(主馬首・・シュメノオビト・・)は、主馬の長に任じられ、以後首藤氏と称されるようになったのです。12世紀前半の首藤義通・俊通親子辺りと言われています。
その屋敷跡は鎌倉街道から明月院に入ってゆく右側と考えられています。
現在では円覚寺と建長寺の間を北東に広がる谷戸が「明月ヶ谷」と呼ばれています。
明月院の前身の明月庵は首藤俊通を弔うために、息子の經俊が建立しました。

明月ヶ谷の急坂を登ると今泉台の住宅地が拡がっています。北方向に進み横浜の本郷台駅へと歩きました。

散在ヶ池森林公園(別称:鎌倉湖)

          

江戸時代に大船と岩瀬の水争い解決のために造られた人造湖で、湖岸線延長772m、最大水深7.6m、広さ13ヘクタール。
1000種近い動植物が生息しています。鬱蒼と茂る樹木に囲まれ、森林公園として整備されていて楽しみなところになっています。
写真は管理棟に面した湖面に鯉が集まっていました。

せせらぎの小径

     

 矢沢堀小川アメニティ

     

アメニティには散策木道があり、水車がゆっくり回っていて その下流は生物の種類が豊富で量も多いと聞きます。

證菩提寺

       

【開基】源頼朝 【本尊】阿弥陀如来坐像 【創建】建久8年(1197)

トップの写真は山門越しに本堂を撮っています。上記は側面から源氏の家紋を入れて撮ったものです。
1180年8月石橋山の合戦で戦死した佐那田義忠の霊を弔うために源頼朝が開いたお寺。
佐那田義忠の父は岡崎義実といい三浦義明の弟。法名を證菩提と号したので当寺の名前もそれにちなむと言われています。

北東の高い尾根が武蔵の国との境になっており鎌倉の関門になっています。鬼門でもあり更に食料補給地であり武器の製造地でもあり、鎌倉の武家の興隆に大いに寄与した地域と考えられています。

本堂の隣に収蔵庫があり國重文の阿弥陀三尊像を拝観いたしました。(映像はwebサイトより)
        
          

いたち川散策路

     
          

鎌倉の北部にあって横浜と入り組んだところに、長くうねりながら自然の川の姿をとどめながら、下流で柏尾川と合流し尚藤沢で境川と合流して江ノ島付近で駿河湾に注ぎます。
「いたち川」とは鎌倉時代に出立のセレモニーをしたところで「いざ出で立ちぬ~」が、訛ったものだと言われています。
この川の周辺一帯はお米が一番取れる地帯として奈良・平安時代からの中心地であり、鎌倉時代は幕府の食料生産地でありました。

春日神社
  
      

 【創建】山内首藤氏  【創建年】平安時代  【祭神】春日大明神

平安時代 この地は山内荘といい、柏尾川流域を経営した秀郷流藤原氏の名族、山内首藤
の荘園でありました。
春日神社は山内首藤により荘園の中に創建されたと考えらますし、祖先神の奈良の春日大社より勧請したと考えられます。

源頼朝は石橋山の戦いで平家方についた首藤經俊を許さずこの土地を土肥実平に預けます。後に和田の乱以降は北條義時の所領になり、鎌倉幕府が滅ぶと次第に衰退して戦国時代には小田原北条氏が再建したと伝えられています。

現在の本殿は「中宮」と言われ、江戸末期頃の春日曼荼羅彫刻が四面に飾られていて見ることが出来ます。神社の神主は常住せず時折奈良からお見えになります。

          

北条氏の興亡

2011-01-14 | 鎌倉の四季

<<妙本寺 祖師堂>>
 
<<妙本寺 本堂>>

  妙本寺 

 【山号寺号】長興山妙本寺  【宗派】日蓮宗  【開山】日蓮 
 【開基】比企大学能本(能員の末子) 【創建】文応元年(1260)

現在の妙本寺は鎌倉時代に比企一族が討滅された屋敷跡と言われています。
源頼朝が亡くなると、北条氏と比企氏の勢力争いが起こりました。建仁三年(1203)「比企の乱」と言われる事件で、北条時政の謀略により能員が殺害され、頼家は伊豆修善寺に幽閉され、後に殺されるのです。
この乱で二人の幼児が難を逃れました。頼家の娘と能員の子能本です。この娘が後に四代将軍藤原頼経夫人になったことから、京都で学者となっていた能本は許されて鎌倉に戻り日蓮聖人に帰依し、法華堂を建立して日蓮聖人に寄進するのです。そして父母の法名『長興、妙本』を寺の名前としました。
妙本寺に上記二つの本堂がある謂われです。

祖師堂に入場して講話を拝聴し、堂内を拝観しました。
     
     <<日蓮聖人のお厨子>>

敷地は鎌倉一かもしれない・・と言われるくらい奥深く広大でハイキングコースが数本通っていました。今なお紅葉が残っていましたし、紅・白梅が咲き始めていました。国木田独歩、中原中也、小林秀雄等多くの著名人の墓があるそうです。           頼家の子の墓や比企一族の墓もありますが、お骨はなく記念碑的であろうとの説明です。     
     
     <<頼家の子 一幡の袖塚>>
     
     
     <<比企一族の供養塔>>

  畠山重保の墓 

                
一の鳥居の傍らに建つ大きな宝篋印塔は、畠山重保の墓と伝えられています。
三代将軍源実朝の縁談が整ったため、輿入れのお供に若武者が京へ差し向けられました。
重保もその一人でしたが、仲間内の喧嘩から北条方に讒言され畠山親子は討たれることになるのです。ある時由比ガ浜に向った重保は訳の解らぬまま取り囲まれて討ち取られてしまうのです。又父重忠は領地から少数で鎌倉に向かう途中 北条義時の軍に攻められ討死でした。

  光明寺 

 【宗派】浄土宗  【開基】北条経時  【創建】寛元元年(1243)

祖父三代執権泰時の死去に伴い、四代執権となった経時が佐助ヶ谷に蓮華寺を建てます。
この蓮華寺を現在の地に移して光明寺と改めたのが始まりと言われ、代々の執権がこの寺を敬い建物を増築して建長寺や円覚寺に匹敵する大伽藍になりました。
関東における浄土宗発展の本拠地で江戸時代には徳川家康の定めた浄土宗学問所関東十八檀林の首座でした。
当日 開山堂の大広間で「精進料理」を頂く趣向に参加することが出来ました。
    
          

  安養院 

鎌倉幕府滅亡時の戦により政子が建立した頼朝の墓が消失したため、後に足利公方家の援助で北条政子の法名「安養院」として再建されました。しかし再び全焼したため頼朝に仕えた田代信綱が建立した田代寺を移築して、安養院に合祀されました。本堂裏手に宝篋印塔が並んでいますが鎌倉に現存する中で、年代が特定できる最古のものだと言われています。

          
           

  東勝寺跡 

1333年新田義貞の鎌倉攻めにより14代執権高時は、東勝寺に一族を集め堂に火をかけて一族郎党800余名とともに自害しました。140年余続いた鎌倉幕府は終焉を迎えたのです。今尚金網で囲まれた一郭は草地があるのみで、最奥に腹切りやぐらと書かれた浅い洞窟があり新しく書き換えられた卒塔婆が立て掛られて花が添えられていました。

  法華堂跡(二つの法華堂){

★頼朝の法華堂
 頼朝の観音像を安置した持仏堂があり没後はここに葬られ法華堂になりました。
★北條義時の法華堂
 平成17年に発掘調査が行われ、一辺が8.4mの正方形の三間堂があったと推測され、 「頼朝の東側の少し低い処に義時の墓が」・・との記録から玉砂利が敷かれています。


      

<<手前の土地が推測の場所>>
<<後方の鳥居から石段が2本登っていますが、左からは「大江広元」、毛利の祖とな   る「毛利季光」の墓に行き着き。右からは「島津忠久」の墓に着きます。>>
  島津家の祖となる「島津忠久」は頼朝の子と言われています。      

  鶴岡八幡宮 

承久元年(1218)一月二十七日の夜、三代将軍実朝が右大臣拝賀の式を終え、雪の降る中を石段を降り始めようとした時公曉(頼家の嫡男)に斬りつけられ、首を取られる事件が起きました。享年28歳。この時の儀式で太刀持ちを務めることになっていた二代執権義時は体調不良で中原仲章と交替していました。そして仲章も殺されるのです。
知っていたか、運が良かったかと今も取り沙汰されるところですが、北条はかくして様々な危機・障害にも130年の長期政権を有することができたのでしょう。
公曉が隠れたという銀杏の木が倒れヒコバエが生えていますが、根付くためにはまだ数年かかり結果は不明なのです。

     
     

     

鎌倉 材木座界隈を歩く

2010-10-14 | 鎌倉の四季

             【材木座海岸  ボードセーリング教室?】

古都鎌倉史蹟めぐりに参加しました。
大町から材木座に向かう大師道をたどり、上行寺~来迎寺~長勝寺~和賀江嶋から500余年の歴史ある十夜法要厳修中の光明寺を訪れました。

 ✿上行寺✿
  
  宗派:日蓮宗
  創建:正和2年(1313)

山門の裏側に、左甚五郎作と伝わる竜の彫り物があります。 
         
  
本堂は公開されていないのですが、右側の建物は全ての病 特に癌に効用があるとされる瘡守稲荷堂と鬼子母神を祀る薬師堂があります。火焔奉じの美しい絵がたくさん飾られていました。
         

 ✿来迎寺✿

 宗派:時宗
 創建:建久5年(1194)

来迎寺は源頼朝が旗揚げの際 犠牲となった三浦大助義明の菩提を弔うために建てられました。本尊の阿弥陀三尊像は運慶作と伝えられ、義明の五輪塔墓や三浦一族百余基の五輪塔があります。
         
          

 ✿長勝寺✿ 

 宗派:日蓮宗
 創建:弘長3年(1263)

長勝寺は1ヶ月前にも拝観していますので、広大な仏閣は割愛しますが石段を幾重にも登り墓地を縫って最上階の広い墓地へ到達です。                              
         
反対側には車道が通り材木座の住宅が下方に向かって延びていて尚も行くと海岸に到着でした。

 ✿和賀江嶋✿

現存する日本最古の築港遺跡として国の史跡に指定されています。材木座は遠浅の海で、波風は荒く難破・破損する船が多く港湾整備の必要がありました。貞永元年(1232)時の執権北条泰時はこれを約1ヶ月で完成させます。江戸時代までは港として利用されましたが、震災や風化によって石積が崩れ今では干潮時のみ見られる状態です。
       
 
            【トップ写真の子供達 今日はここまで お疲れ様】

 ✿内籐家墓地✿

内藤家は江戸時代、陸奥国常盤平 のちに六代藩主・内籐正樹のとき日向延岡藩主に封じられた譜代大名です。
常盤平二代藩主・内籐忠興の時に 江戸霊巌寺から光明寺に歴代の墓を移し、ここを菩提寺としてきました。その際 当麻曼荼羅絵巻(現国宝)などの絵画や彫刻など多数の宝物を光明寺に寄進し、光明寺の繁栄に寄与しました。

58基もの墓碑を備え、高さ3mを越える大宝篋印塔が並ぶ壮大な内藤家墓地は、その興隆を物語ると共に、江戸期に於ける大名墓地の変遷を知る貴重なものです。


       
       【ホトトギスの花咲お墓】

 ✿光明寺✿

 宗派:浄土宗(大本山)
 創建:寛元元年(1243)

鎌倉幕府 第四代執権北条経時が然阿良忠(ねんな りょうちゅう)を迎えて開いた浄土宗の大本山です。
明応四年(1495)後土御門天皇の勅願所となり、「関東総本山」の称号を賜り「お十夜法要」を勅許されて以来、現在も盛大に念仏法要が営まれています。
江戸時代になると徳川家康が寺領を寄進し、関東十八檀林(浄土宗の学問所)の第一に定めました。各地から多くの学僧たちが集まり学問と修行の中心としても栄えました。

鎌倉最大の山門は県の重要文化財 楼上には釈迦三尊や、四天王、十六羅漢が祀られています。
【内籐家の墓地から光明寺の山門をズームで引き寄せました】

 ✿お十夜法要✿
 
この時期 応仁の乱から戦国時代にかけて天下は乱れに乱れ、飢餓・疫病が相次ぎ庶民は地獄の業火に焼かれる苦難の様相に喘いでいました。後土御門天皇はこの乱世を嘆かれ、救いを仏の教えに求めて一日も早い安穏の暮らしと、安泰を望まれて十夜法要を許可されました。(現在は10月12日~15日の4日間)

○お十夜の旗印
 
○法要a

○お稚児さん
        
○法要b
 

○散華
        
お十夜の行列に「散華/散花」といって山門の上から花形を蒔き、舞い落ちる花を拾う事で 供養になると言われています。

日蓮聖人法難の聖跡を歩く

2010-09-10 | 鎌倉の四季
    【日蓮の肖像画】
    
     

     作者:藤原親安
     出所:日蓮宗

 1250年代の日本は諸国に飢餓・災害が頻発していました。1253年(建長5)安房の国より鎌倉に入った日蓮は小町大路に立ち民衆に向かって法華経を説きました。
1260年(文応元)7月には、前執権北条時頼に「立正安国論」を提示し、翌月松葉ヵ谷の草庵が襲われますが窮地を脱しました。
しかし布教には多くの苦難が待ち受けていました。1261年(弘長元)には伊豆へ、1271年(文永8)には龍ノ口での処刑は免れますが、佐度に配流されました。1274年(文永11)救免され鎌倉に帰った後、甲斐国身延山に入りました。
今回『古都鎌倉史蹟めぐり』NPO法人 鎌倉ガイド協会に、鎌倉周辺での日蓮の布教活動の足跡をご案内していただきました。
猛暑が台風に変貌し濡れ鼠になった一日でもありました。

【猿畠山 法性寺】
       

 1260年(文応元)松葉ヶ谷の草庵を焼き討ちされた日連が、この山の洞穴に身を隠した所三匹の白猿が現れて食物を供したと言います。これを山王権現の導きと考えた日蓮は、弟子の日朗に寺の建立を命じますが、これを果たせず日朗は没しました。
日朗の弟子朗慶がその志を継ぎ堂宇を建立します。境内の左側に日蓮が難を逃れ籠居した洞穴、右側の堂内には日朗の墓があります。
寺裏の墓地と地續きには大切岸があり、素晴らしい眺望があると聞きましたが豪雨のため断念せざるを得ませんでした。何時の日か・・・

 【石井山 長勝寺】

 開山:日蓮聖人
 開基:石井長勝

1263年(弘長3)伊豆流罪を許され鎌倉に戻った日蓮に、この地の領主石井長勝が庵を建てて寄進しました。はじめ本勝寺と称しますが、四世日静が京都に移し廃寺になっていました。南北朝時代になってこの地に復興し 寺号を開基である石井長勝の名にちなんで現在の寺名になりました。
境内には、高村光雲作の日蓮聖人像が高く聳え四天王が周りを囲んだ立派な光景です。
祖師堂は室町時代初期の建築ですが、鎌倉時代特有の五間堂の様式が用いられています。





 【 妙法華経山 安国論寺】

 開山:日蓮上人
 創建:1253年(建長5)

安房国より鎌倉に入った日蓮は約20年間をこの地で過ごし、その聖域となりました。山門に入ると左側には、増上寺から移されたと言う石灯籠が並んでいます。
参道の正面には祖師堂(本堂)があります。
          

本堂の向かいには「御法窟」があり、この御岩屋で『立正安国論』が書かれました。前執権北条時頼に建白されます。そのために大難は四度、小難は数々と言われた緒法難の内、最初 松葉ヶ谷焼打の法難にあっています。今も裏山に一時避難された南面窟が残っています。
    

 【妙厳山 本覚寺】

鎌倉時代幕府の裏鬼門に当たるため、守護神として夷堂がおかれました。1274年流罪を許され佐渡から鎌倉に戻った日蓮はこの夷堂に身を置いて布教を続けましたが、やがて身延山に庵を結びます。
1436年天台宗系の夷堂は、日出により日蓮宗に改め本覚寺としました。

鎌倉史蹟めぐり 覚園寺から

2010-08-13 | 鎌倉の四季
 8月10日は覚園寺の「黒地蔵縁日」にあたり、この日に先祖供養のお参りをすると四万六千日分の御利益を授かると言われています。
覚園寺は鎌倉幕府執権北条氏ゆかりのお寺ですが、有力御家人の足利氏一族とも強い繋がりがあり、足利ゆかりの地も辿りました。
 
【覚園寺 黒地蔵盆】
  
   《山門》
  
        《脇門と七重の石塔》
        
鎌倉幕府第2代執権北条義時が日頃信仰していた薬師如来を祀る為に建立した大倉薬師堂が前身とされています。
約80年後、直系の子孫である貞時が元寇再来のないことを願い覚園寺としました。
鎌倉幕府滅亡のあと後醍醐天皇の勅願所になり、その後足利氏の祈願所ともなりました。

薬師堂に程近い所に地蔵堂があります。
鎌倉時代の地蔵菩薩像が安置されていて「黒地蔵」と呼ばれています。この地蔵は、地獄に落ちて火責めの刑にあっている人々の苦しみを少しでも和らげようと自ら火を焚くので煤けており、幾ら彩色しても一夜の内に黒くなってしまうと言います。
古くから招福除災の信仰で知られており、又病気治癒や子宝・出産・育児にも霊験あらたかとされています。

「黒地蔵盆」には、初めての参拝でしたが、灯りの入った灯篭や色紙の帯、線香が焚かれ、多勢の人々が熱心に拝礼して、静まったいつもとは大いに違って華やいでいました。
拝観受付以奥からはいつも撮影はご法度ですが、本日に限って境内は全てNOでした。

塀の外側に咲いていた花2点を添えましょう。
          《ガマズミ》
          
               《藪茗荷》
               

【瑞泉寺】
開山は夢想疎石 禅院相応の勝地としてこの地を選び建立した寺。
初代鎌倉公方足利基氏は、遺命で当寺に葬られ以後鎌倉公方代々の菩提寺になりました。盛時には10を超える塔頭があり、関東十刹の一位に列せられていました。
夢想疎石は造庭の才にも優れ 禅の思想に基ずいた国指定の名勝になっています。

     《名勝 庭園》
     
               《本堂》
               
花の寺としても有名ですが、強烈な陽射しに花がなく屋根の稜線が際立っていました。

【護良親王墓 (もりながしんのうの墓)】
     
護良親王は後醍醐天皇の第三皇子です。征夷大将軍となり軍勢を率いて入洛します。その後足利尊氏との対立を深め、捕らえられ鎌倉に下されます。中先代の乱で足利直義が背走する時に親王を殺害し藪の中へ捨てます。その首を葬ったのが理智光寺の住職でした。
時移り明治天皇の勅命で理智光寺跡の谷から、急坂の石段を登ったところに石垣と菊のご紋に囲まれたお墓が出来、宮内庁が管理しています。

【浄妙寺】
足利尊氏の父・貞氏が中興開基であり元弘元年(1331)に亡くなり、浄妙寺殿と呼ばれ当寺に葬られました。
14世紀後半には七堂伽藍、100人を超す僧侶、20を超す塔頭があり鎌倉五山に列せられました。

《貞氏の墓》
               
《鎌足桜》



                      

田谷の密教洞窟

2010-07-24 | 鎌倉の四季
                                                                   《四十九院天井の鮫龍》

暑い夏に涼しい地底伽藍の秘境を探索しました。
湿っぽく冷たい壁に手を当ててみると、800年の昔に吸い込まれて行きそうなそんな洞窟がありました。
『密教』とはその名の通り秘密である事を意味しますが、田谷の洞窟は地底に秘められた仏の世界でした。
JR大船駅を西の急坂を登り北上すると山頂は畑 ここが『長尾砦跡』。しかも横浜市。鎌倉と横浜の境界は大船駅の駅長室を境にしていると言うから楽しい。
横浜市民となって25年余、知らない事が多すぎます。これから向かう田谷も横浜市。『田谷の洞窟』も知らなかった!

【長尾砦跡】
横浜市栄区長尾台町に砦跡はあります。桓武天皇を祖とする関東八平氏「上総、千葉、三浦、梶原、土肥、秩父、大庭、長尾」のうち、長尾景弘が平安末期にこの長尾台の丘陵に空堀、土塁を築いたと言う。治承4年(1180)8月 源頼朝が伊豆で旗揚げをして、石橋山で敗れるも
関東の諸豪族を従えて鎌倉に入ると、平家軍をことごとく蹴散らして長尾砦も落城して一族は散りました。しかし室町時代に至り長尾一族の活躍が見られるので、その後も一族の子孫はこの地に定着していたと思われます。越後の長尾氏から景虎(上杉謙信)が出て、関東管領となり威を揮ったのでした。

【田谷の洞窟】
洞窟は定泉寺境内にあります。古くは古墳時代の横穴住居跡だったものを、鎌倉時代に鶴岡八幡宮の僧らにより真言密教の道場として洞窟を彫り広げたもの。地震などで崩れた洞窟を整備し伽藍工事を進め、総延長が1Kメートルを超える洞窟が曲がりくねりながら續き、数々の彫刻を施して現在の地底伽藍が完成しました。
彫刻が今日まで残ったのは、地下水が豊富で湿度が高く、温度も16~17度に保たれている事に起因していると言われています。

          《境内の修行大師像》
          
          
          《洞窟入り口》
          

        《一筋の光明 洞窟内はおぼろな灯りなので各々ローソクを持ちます》
          

現在公開されている洞窟内は250メートル程ですが、この巨大なトンネルは一枚岩なので地震等での崩れが少ないのだそうです。深い闇の中で鑿を撃ち、その彫刻画は憧憬や精進、歓喜と敬愛、悲愁や後悔など様々な表情が満ち満ちていると感じられます。
又工事奉仕者の家紋、守り動物、物語伝説の絵、仏像、十二支、霊場札所なども彫られています。

     《 昇龍 》
               

          《 降龍 》
          

               《 獅子(阿形)》
               

                    《 獅子(吽形)》
                    

     《 奥の院 土佐の一つ亀 》
      
     
        《 音無川と十人羅漢 》
          

           《 音無川方向を望む 》
               

           【 御霊神社 (田谷)】
             
               立派な両部鳥居

 写真撮影は厳禁なので 吉田 孝 著 「田谷の洞窟」を参考にする                      

鶴ヶ峰に『畠山重忠』滅亡の跡を巡る

2010-07-07 | 鎌倉の四季
【帷子川】



源頼朝の信頼厚き鎌倉武将「畠山重忠」が頼朝の死後、北条時政の謀略で無念の最後を遂げた「二俣川合戦」の史蹟を巡りました。

 【二俣川合戦】

1205年6月19日 従兄弟の稲毛重成に「鎌倉に騒乱、至急鎌倉出仕」を要請され畠山重忠は側近134名を従えて武蔵国・菅谷館を出発します。
北条時政は「重忠謀反 大軍で攻め来る」と義時に出陣を命令。6月22日「万騎ケ原」に大軍で待ち伏せした義時は重忠主従を包囲します。鎌倉にいる我子重保謀殺を知る事になる重忠は時政の罠にはまったことを悟るのです。「疑いを晴らすため」清く戦う事数時間 鶴ヶ峰で遂に倒れ134騎主従は自害。
帰還した義時は謀略をなじり稲毛兄弟を誅殺。父時政を伊豆に追放して ここに北条義時は執権となりました。

畠山重忠没後 足利義純(1176~1210)が重忠旧領を付与され、重忠未亡人を妻として畠山姓を継ぎ、その子孫は足利幕府管領として歴史上に名をなして行くのです。

「重忠戦死」を聞いた内室(菊の前)は駕籠で駆けつけその場で自害します。駕籠のまま土葬されました。

 《重忠首塚  七重多層塔 重忠地蔵》

     

 《重忠の墓  薬王寺》

     
 
 《駕籠塚》

     

薬王寺は重忠主従の供養寺。この寺には六つ塚と言う重忠の郎従134騎を葬った塚があります。
その隣地に駕籠塚はありました。

 【白根神社】【白根公園】

八幡太郎義家は兜の不動明王を納めて「前九年の役」に出陣して勝利します。
1063年 鎌倉権五郎景政が不動堂を創建し義家の不動明王を祀ります。1333年新田義貞の鎌倉攻めで焼失し、現社殿は大正の建築。崖下の深いところに綺麗な流れが出来ています。
「白糸の滝」や「一条の滝」でうねる様にながれて帷子川は徐々に川幅を広げて行きます。   
     
     《一条の滝》

          

          《帷子川の上流》

                

川幅は次第に広くなってやがて森の中に入ってゆきました。「帷子川親水緑道」と書かれていて別世界の中を歩いている気分です。赤い蕾があります そう「ガマズミ」でしょう。晩秋まで咲き続けて実は太く葉も赤く素敵な風情を醸しだす植物です。
     
 


木々の緑が深まる北鎌倉の古刹を訪ねる

2010-06-16 | 鎌倉の四季
【円覚寺】

 《仏殿 天井画》
  

関東大震災で壊れた後、1964年落成供養で再建されました。鉄筋コンクリート造りですが以前の図面をもとに、通し窓や扉に禅宗様式の意匠が配されています。
五山級の大寺は間口が七間堂も定型通りであり、ご本尊は木造宝冠釈迦如来像が美しい。
天井には前田青邨の監修で日本画の守屋多々志作 『雲龍図』 が画かれています。

《舎利殿》

         

正面から見ると三間重層の入母屋造りになっています。鎌倉最古の唐様建築で国宝に指定されています。入り母屋造りの杮葺きで、上部の屋根は下方で大きくそりあがっています。
北条幕府滅亡後、夢想国師が円覚寺十五世住職になった時に、後醍醐天皇の勅命として建長寺にあったものをここ円覚寺に移させた物です。

          《紫陽花》
          
                   《岩たばこ》               
                    

【東慶寺】

山号寺号 松岡山東慶総持禅寺(しょうこうざんとうけいそうじぜんじ)

宗派   臨済宗園覚寺派

創建   1285年(弘安8)

開山   覚山志道尼

開基   北条貞時

本尊   釈迦如来

時宗の菩提を弔うため夫人(覚山尼)の開基。ご夫妻は禅への信仰が厚く一緒に出家しました。尼寺として1902年(明治35)まで續きますが、以降は男の僧の寺となりました。 
代々名門出身者が住職を努め寺格が高く 5世用堂尼(後醍醐天皇の皇女) 17世旭山尼(足利義明の娘) 20世天秀尼(豊臣秀頼の娘)が住しました。

《松ヶ岡文庫》

1941年 鈴木大拙は東慶寺境内に文庫を設立しました。死後住職の井上禅定の尽力により大拙が残した膨大な書籍を管理して現在に至っています。
「松ヶ岡文庫」 それは20世紀日本が世界へ送った最大の学者・文化人・宗教家「鈴木大拙」が凝縮された形で残されています。
長年アメリカに住み、アメリカの女性と結婚して共に「禅」を研究し、英語で「禅について」演説して世界に日本を普及したのです。

遺品が生前のままに、 例えば 机・座椅子・文房具が置かれ、南北朝時代の「観音菩薩半跏像」が身近に置かれていたことを知る事が出来ます。

            
    
 《墓 文学者・文化人の多くが集まっている一廓》

              

             《柏葉紫陽花》
             
                   《岩たばこの群落》                                  

【浄智寺】

 《山門 二階に花頭窓のある唐様の鍾楼門》

           
            《托鉢僧》
            
 鎌倉を歩いていても、なかなか托鉢僧にお目に掛かる事はありませんが、この日は多勢の 方たちをお見かけしました。

  【天柱峰】
          

葛原岡ハイキングコースを登り始めると大岩の頂きに碑があります。朝比奈宗源書の天柱峰の碑です。中国僧住職の竺仙梵僊の供養塔で、英人サンソム氏が建てたものです。
(天柱とは、天が落ちないように支える柱。転じて社会を成り立たせる根本となる道義)

道すがらに咲いていた花二題。
         《紫陽花》
         

               《岩がらみ》
               




  【源氏山公園】

          

壽福寺背後の山。後三年の役で八幡太郎義家が奥羽に向かう際、戦勝祈願にこの山に白旗を立て以来の源氏ゆかりの山とされました。
昭和56年に源頼朝の銅像が安置され、木陰を求めて三々五々お弁当を頂くのに最適です。

 【薬王寺】

山号寺号 大乗山薬王寺

宗派   日蓮宗

創建   1293年(永仁1)

開山   日像上人 (中興開山・日達上人)

もとは真言宗に属していましたが、1292年日像上人が住職と宗教論議の末説伏して、日蓮宗に改宗しました。その後日達上人が江戸時代に薬王寺と改めて再興しました。
只今本堂には 『日蓮上人像』 と日像上人像が並んで安置されていますが、江戸時代に変遷があり池上本門寺より移祀されました。

 《日蓮上人像》
       

 《供養塔》1633年徳川忠長(家光の弟)が高崎で自刃。妻の松孝院が墓を建立。
  徳川家ゆかりの寺として三つ葉葵が用いられています。

【淨光明寺】

    《客殿》
     

5月中旬にもここを訪ねて、頼朝に挙兵を勧めた文覚上人の話を聞きましたが、一ヵ月後に再び訪れて季節の移ろいを感じた所です。

       《菩提樹 釈迦はこの木の下で悟りを開いたと言われています》
       
             《泰山木》
              
 
  《重要文化財》
本尊の阿弥陀三尊像は1299年の銘のある仏像で、国の重要文化財になっています。衣に施された大型の土紋や長く伸ばした爪、写実的な衣の襞、高く結い上げた髣などに宗朝美術の強い影響を受けた特徴を現しています。

   《冷泉為相 の墓》
           

背後の山を登ると宝篋印塔があります。為相は藤原定家の孫で父為家の死後、遺領存続の訴訟のために関東へ下向した母・阿仏尼を追って鎌倉に下り、鎌倉歌壇の指導者として活躍しました。
               《定家カズラ》
                

『お能「定家」』 式子内親王を愛した定家が、死後も彼女を慕って、遂に葛に生まれ変わったと言う伝説を思ってしまいます。崖に「定家カズラ」が咲いていました。 

  
「観音菩薩半跏像」はweb site より拝借 

                

『文覚上人』 ゆかりの地を歩く

2010-05-20 | 鎌倉の四季
     

               【 文覚上人 】

                    

文覚(もんがく)は摂津源氏傘下の渡辺党・遠藤氏の出身で、北面の武士として鳥羽天皇の皇女統子内親王に仕えていましたが、行動力はあるが学識はなく・・・とあり乱暴者の烙印を押されていましたが、誤って袈裟御前を殺めてしまったのです。
この事件を取上げた記述が多く残されたのでした。

『平家物語では 「文覚荒行」、「勧進帳」、「文覚被流」、「福原院宣』。 『源平盛衰記では 従兄弟で同僚の渡辺渡の妻袈裟御前に横恋慕し、誤って殺してしまいます』。    『長唄 鳥羽の恋塚』。 『上方落語 袈裟御前』。 『芥川龍之介の小説 袈裟と盛遠』。 『菊池寛 袈裟の良人』。 『手塚治虫 火の鳥乱世編』。

京都高尾神護寺に出家・修行に入ります。その神護寺の再興を後白河法皇に教訴したため、渡辺党の棟梁・源頼政の知行国であった伊豆国に配流されます。そこで同じく伊豆国蛭ヶ島に配流の身だった源頼朝と知遇を得るのです。
後に頼朝が平氏や奥州藤原氏を討滅し、権力を掌握してゆく過程で、頼朝や後白河法皇の庇護を受けて、所領を回復し建物を修復しました。

                【映画 「地獄門」】
                    
                     

菊池寛原作「袈裟の良人」より。
文覚がまだ遠藤盛遠と言う北面の武士だった頃、人妻の袈裟御前に恋をします。想いを遂げようと迫る盛遠に対し袈裟御前は夫を殺害してくれたら妻になると告げ、夜自身男装して夫を殺しに来る盛遠を待ちます・・・
 
 監督:衣笠貞之助。  配役:遠藤盛遠 長谷川一夫。  袈裟御前 京マチ子。

昭和28年 大映イーストマンカラーによる色彩映画第一作 
昭和29年 カンヌ国際映画祭 グランプリ受賞
昭和30年 アカデミー 外国映画賞、色彩賞受賞

先ずこの映画を拝見して「文覚上人」ゆかりの地を歩きました。

【淨光明寺】

          

《宗派》真言宗涌寺派 《創建》建長3年(1251)
《開山》眞聖国師真阿 《開基》北条長時 《本尊》阿弥陀三尊

頼朝の願いで文覚上人がここに草庵を営んだとありますが、ハッキリとしたことは解からない。
不動堂に安置されている不動尊像は、頼朝に旗揚げする事を教唆した文覚上人が京都の八坂の塔から神護寺に移っていた不動明王像の胎内に、以仁王による平家打倒の令旨を忍ばせて伊豆まで運ばせて頼朝に示し、その後ここの不動堂に安置されたと言われています。座高94.9cm 寄木造り、玉眼、彩色、巻髪の上下に牙、右手に宝剣左手に羂索を持つ。

【文覚上人屋敷跡】

          

頼朝が鎌倉に入り根拠を定めてから、文覚も滑川のほとり・・古くは座禅川と呼ばれ、文覚が川に臨んで座禅を組んだ事に由来すると言われています。

【勝長寿院跡】

          

頼朝が、父義朝の菩提を弔うために建立した寺で、その壮大な規模から大御堂とも言われています。鶴岡八幡宮、永福寺と共に頼朝が鎌倉に創建した三大寺院の一つです。
源氏の菩提寺の性格が強く、幕府 鎌倉御所の外護に依って栄えますが、鎌倉公方5代足利成氏の亡命と共に衰えました。

文治元年(1185)義朝と蒲田正清の首が鎌倉に運ばれ、当院に埋葬されます。
『吾妻鏡』では後白河院が、京の東の獄門に置かれていた二人の首を取り出させ、文覚の弟子が遺骨を首に掛けて東海道を運んだとあります。
しかし『玉葉』『山槐記』によれば、頼朝は文覚の手を経て後白河院から貰いうけたとあります。

【補陀洛寺】

          

当寺にはかって前欠・後欠の勧進帳があって、開基は源頼朝 開山は文覚上人と読めたと言います。補陀洛とは「南海の果ての浄土(ポータラカ)の意。南向山の山号も寺名に重ねて、寺は浄土を見つめるように南に広がる相模湾に面しています。 
本尊は十一面観音で、頼朝の木造と位牌、文覚上人の位牌など多くの像が祀られています。

壇ノ浦の合戦で平家の赤旗は擦り切れ、茶色に変色していましたがガラスに治められていて、合戦の模様がTVの映像などを思い出して生々しく頭を掠めたのでした。

頼朝を説得して幕府創建にかかわった文覚上人を考える上で最も重要な寺といえるでしょう。広大な寺域を持ち、伽藍の整った寺であったと言われています。
庭には円形に広がった百日紅の大木があり花の頃に再訪したいものです。

   「文覚上人」「地獄門」の絵はweb site より 

  


新緑の鎌倉山を行く

2010-04-17 | 鎌倉の四季
 【ハナダイコン】

   

鎌倉幕府創生の宿老である梶原景時の祖先伝来の名字の地を訪ねて、梶原氏の面影を偲び新緑の鎌倉山の散策を楽しんで参りました。

鎌倉市の西方にある鎌倉山は大船駅からモノレールで2ツ目の湘南町屋駅に降りると「洲崎古戦場跡」の碑があります。洲崎とは現在の寺分・梶原・山崎・上町屋地域の古称で元弘三年(1333年)鎌倉幕府滅亡の際、新田義貞軍と北条軍の激戦の古戦場として語り継がれている所です。

【泣塔】

洲崎合戦で戦死者を慰めるために建てられたと言う供養塔があり、あたり一帯は「陣出」と呼ばれ戦いの陣がしかれていたと言われています。
囲いのある丘には宝篋印塔と、やぐらの中に数基の五輪塔があって古くから泣塔と呼ばれています。

             

 【弥勒院等覚寺】
     

境内には五輪塔、宝篋印塔などの石塔群が並んでいますが、これも洲崎合戦に於ける供養塔と言われ、梶原景時に因んだ土地とも言われています。

 【梶原父子の墓】

             

梶原の地名は鎌倉時代の武将梶原景時・影季の先祖である鎌倉権太夫影通がこの地に住み姓を名乗ったと言われています。然し頼朝の死後鎌倉を追われ、京都に向かう途中駿河の清見関で一族は滅亡します(1200年)。ここ鎌倉に墓とは考え難い事ですが、霊を慰めるための供養塔であったろうと思われます。  
 
 【笛田山仏行寺】

本堂裏山々頂に「源太塚」と呼ばれる円墳状の塚があり、父と共に駿河で討ち死にした梶原源太影季の片腕が埋められていると言います。その死を悲しんだ妻の信夫(しのぶ)はこのあたりで自害します。その後この山からは夫を慕う悲しみの声が夜毎聞こえてくるため、村人はその霊を慰めるために仏行寺を建てたと伝わっています。

     

 【夫婦池公園】

     

江戸時代になって灌漑用水として現在の下池が造られ、その後中央堤が造られて上下一対の池が造られ夫婦池と呼ばれています。この中央堤を渡ったその奥に風致公園があって、段差がありパーゴラのある椅子でお弁当を頂きました。

大きな鯉が何匹も泳いでいて、「あっ カワセミ!」の声でカメラを構えたのですが、望遠レンズでない悲しさ・・でも初めて捕らえたカワセミ。
                     

万葉集にも出てくるほど「鎌倉山」と言う呼び名は古くから使われていますが、その頃は特定の山と言うよりも鎌倉にある山々の総称としたものだったようです・・・現在では笛田の南から腰越・津の北にかけての丘陵地帯を指しています。
そして日本で初めての丘陵式住宅地として造成され昭和3年に分譲が開始されました。
通りを覆うほどの桜の大木が見事でしたし、トップのハナダイコンがいたるところで春を告げていました。何本もの路が鎌倉山を迷うほどに縫っていますが、終着地は江ノ電の極楽寺駅でした。

桜花爛漫の小田原で『北条氏』を偲ぶ

2010-04-02 | 鎌倉の四季
【小田原城】

     

戦国時代に難攻不落の玉縄城(鎌倉)を築いた小田原北条氏ゆかりの地を訪れました。
15世紀初め大森氏により小田原城が築かれますが、それは八幡山古郭と呼ばれる丘陵地でした。明応四年に北条早雲はこれを攻略し大森藤頼を追放します。北条氏の居城になってからは関東制覇の拠点として暫次拡張され拡大されました。
そして天正十八年豊臣秀吉の来攻の備えでは、総構えが全周9kmもの日本最大の中世城郭となっていました。

永禄四年(1561):長尾景虎(上杉謙信)来攻。 
永禄十二年(1569):武田信玄来攻。  
天正十八(1590):豊臣秀吉に敗れ、徳川家康の家臣が代々城主となる。
寛永十年(1633):大地震で被害甚大。近世城郭再興に着手。
明治三年(1870):廃城。
昭和三十五年  :天守閣復興。

【小田原城総構範囲の遺構図】

    

【小田原城址公園】

      

【早雲寺】

      

 宗派《臨済宗(大徳寺派)》 
 開山《以天宗清(大徳寺八十三世)》
 開基《北条氏綱》
 創建《大永元年(1521)、寛永四年(1627)再建》

戦国時代の武将である早雲の遺命で建立されました。小田原北条氏の菩提寺として栄え、塔頭が数多く建てられ関東屈指の禅刹へと発展しました。
天正十八年(1590)、豊臣秀吉の小田原攻めの際に本陣として利用されましたが、石垣山に本陣を移すとき、火を放たれ多くの文化財と共に伽藍は灰燼に帰しました。寛永四年(1627)に再建され現在に至っています。
本堂に上げていただき住職のお話や「竜・虎」の襖絵を拝観し、室内からの「枯山水の石庭」は見上げる仕様が一段と際立っています。
境内には北条五代の墓や連歌師の墓、一般の多くの墓もあります。
又梵鐘は秀吉が石垣山の一夜城で使われたとされるものが残されています。

【墓】

 
                    

次は小田原城に向かうべく、早雲寺の裏山を下りましたが楽しいハイキングコースでした。
眼下に「早川」の流れがあり、箱根のもう一本の川「須雲川」から『早雲』の名前はきていると知り、又税も緩やかなものであり領民に慕われていたと言います。
早雲が三浦義同(同寸)を破り鎌倉入りをした時読んだ歌。

「枯るる樹に また花の木を 植ゑそへて もとの都に なしてこそみめ」

【早川】
      

【北条氏五代】

★初代早雲 備中荏原庄(岡山県井原市)を知行していた伊勢氏の出身。伊勢新九郎盛時と名乗り幕府に出仕していました。長亨元年(1487)以降は駿河の大名今川氏に仕え、明応2年(1493)には将軍足利義政の甥を御所から追い伊豆へ進出します。伊豆一国を治める戦国大名になった早雲は15世紀末小田原へ進出し相模一国を平定します。

★二代氏綱 早雲の小田原進出後伊豆韮山城に止まった早雲に代わり、小田原城に入り早雲没後本城を小田原城に移し伊勢から北条へと改姓します。
虎朱印状の創出など、北条氏の基礎を整備した人物です。また領国を武蔵、駿河、下総にまで拡大し東国の盟主としての地位を確立しました。

★三代氏康 氏綱の死後家督を継承し、大規模な検地、税制改正を実施し 更に家臣の軍役負担を把握するなど、領国支配の体制を本格的に整えた事で知られています。
天文15年(1546)には河越合戦に勝利する事で名を挙げ、山内・扇谷の両上杉を関東から排除し、その勢力範囲は上野に拡大しました。

★四代氏政 氏康存命中の永禄3年(1560)家督を継承します。永禄4年上杉謙信、永禄12年の武田信玄による小田原攻めを退けています。氏直に家督を譲った後も、北条氏の最高権力者として君臨しますが、天正18年(1590)の豊臣秀吉による小田原攻めの敗北により
切腹しています。

★五代氏直 氏政存命中の天正8年(1580)に家督を継承しています。天正10年(1582)には武田氏が滅亡し、次いで織田信長が亡くなると、
上野、下野方面へ積極的に軍勢を派遣し、北条氏の支配領域は最大に達しました。しかし 小田原合戦の敗北後 高野山に追放され翌年亡くなっています。
こうして約90年にわたる戦国大名北条氏による関東支配は終わりを告げました。
 
【城山公園】

小田原駅からは20分近く登るのですが、北条時代の城内に当り今では桜の園になっていて、穏やかな日差しの中でお弁当を頂きました。
そして《小峰御鐘ノ台大堀切》を見学しました。 東堀、中堀、西堀の3本の空堀があり、本丸へと続く八幡山丘陵を分断しており、敵の攻撃を防御するための空堀で小田原城の西側を守る最も重要な場所であったと考えられます。

【小田原城の天守閣へ】
下って下って遂に小田原城の天守閣に入場です。現在は江戸時代の本丸・二の丸の大部分と大外郭の一部が国史跡に指定され、城址公園として公開されています。
 
三層四階の天守閣は階段で上下しますが各階にはお宝が展示されていて当時の装束や武器・刀など又眺望を楽しむ人たちも多勢で、時間が足りないほどでした。

 《格子越えの海》
                           
    
 《城内の桜》

  

 《お堀の桜》

      

  最後に小田原ガイド協会のご協力で、桜花爛漫のもと小田原城内を
  ご案内していただきました。    


   

梅の香漂う早春、 憂愁の将軍 実朝の足跡を巡る

2010-02-27 | 鎌倉の四季
     【梅の香漂う】
     


源実朝は8歳にして父頼朝が死去しています。3年後兄頼家が征夷大将軍になりますが、「比企能員の変」により伊豆に流され暗殺されるのです。
実朝未だ12歳で征夷大将軍となり、翌年には結婚もするのです。幼い将軍を補佐する北条は狙い通り政治の実権を握ることになるのです。
豊かな感受性を持った名ばかりの将軍は、和歌にその才能を発揮して「金塊和歌集」を編み上げました。渡宋を夢見たロマンティシズムや思いやりのある性格など、人間的魅力や大いなる同情からも人気があり 現在ではゆかりの場所巡りが多く行われています。

【源実朝 年譜】
1192年 誕生  父頼朝征夷大将軍となる。
1199年 8歳   頼朝死去。
1202年 11歳  兄頼家征夷大将軍となる。 
1203年 12歳  征夷大将軍「実朝」を賜う。頼家修善寺に流される。
1204年 13歳  坊門信清の女と結婚。頼家死去。
1205年 14歳  この頃新古今和歌集を通読。北条時政失脚。義時執権に。
1208年 17歳  疱瘡を病む。藤原基俊筆の古今和歌集を献上される。
1209年 18歳  15歳からの和歌30首を合点のため藤原定家に遣はさる。
1213年 22歳  金塊和歌集を編集。
1214年 23歳  体調すぐれぬ実朝に栄西「喫茶養生記」を献上。大慈寺供養。
1216年 25歳  宋に赴くため陳和卿に命じ大船を造らせる。
1217年 26歳  大船完成するも進水に失敗。 宋に仏舎利を求める。
1218年 27歳  1月権大納言。3月左近衛大将。10月内大臣。12月右大臣。
1219年 28歳  正月27日鶴岡八幡宮で右大臣拝賀の退出時、
           公暁石階の際に窺い来たり剣を取りて丞相(実朝)を侵し奉る。

【大慈寺跡】
大慈寺は実朝が23歳の時「君恩父徳」に報いるため建立し、大倉新御堂とも呼ばれました。
明王院の東一帯が旧跡で「吾妻鏡」は、此所河有り、山有り、水木共に便を得たり。とあります。宋の能仁寺より仏舎利を請来して安置しますが1285年円覚寺に移されました。本堂・丈六堂・新阿弥陀堂・釈迦堂・三重塔がありましたが、現在丈六堂の仏塔のみが光触寺に安置されています。跡地は草地で管理されています。一段低いところに石碑が建っていました。          
         
           

【名王院(五大堂名王院) 真言宗御室派 】

実朝の死後四代将軍となった藤原頼経が将軍御願寺として建立を企画しますが、大慈寺内では中々決まらず毛利季光の所領であった現在地に1235年創建されました。当初は不動明王・降三世・大威徳・軍荼利・金剛夜叉明王を五つの大きな御堂に安置したので五大堂と呼ばれました。寛永年間の火災で不動明王だけが残り、1712年作の四尊と共に本堂に祀られています。
建物内部はもとより境内も撮影不可でした。梅が咲き親しみのある庭と藁葺きのお堂に入場出来て、照明と灯明に輝く五尊を拝し僧侶の法話をお聞きしました。 )

【勝長寿院跡】
頼朝が父義朝の菩提を弔うために建立しました。本堂は大御堂と呼ばれ、本尊は丈六阿弥陀如来、仏画は宅間為久作の25菩薩を描く荘厳なものでした。実朝の遺骸も母政子もここに葬られました。何度かの火災に遭い所在を示す背丈を越える石碑と小さな五輪塔がある狭い一廓を見るのみです。

           

【歌の橋・荏柄天神】
泉親衡が故頼家の三男を将軍に擁立する陰謀が露見した際、加担したとして捕らえられた渋川刑部六郎兼守は荏柄天神に十首の詠歌を奉じ無実を訴えました。これを知った実朝はこの歌に感銘を受け兼守を許します。赦された兼守は神徳に謝し参道に橋を架けました。今も「歌の橋」と呼ばれ使われているのです。

     

【鶴岡八幡宮】
源家繁栄の象徴ともいえる鶴岡八幡宮が実朝終焉の地となりました。承久元年(1219)正月右大臣拝賀式に於いて兄頼家の子公暁に討たれ首を取られました。この事件は多くの謎が残されました。
実朝自身事件当日 自分の運命を予告する歌を詠んでいるのも謎の一つです。

  《出でていなば 主なき宿と なりぬとも 軒端の梅よ 春をわするな 実朝 》

        
                       (鶴岡八幡宮寺式内社  本殿の西面)

境内には頼朝と実朝を祭神とする《白旗神社》があり、実朝に関する歌碑や句碑を見つける楽しみもあります。
                

【壽福寺】
母政子が頼朝の死の翌年(1200年)に創建した当寺には、実朝もよく参詣しました。開山の栄西は実朝に茶の効用を説き、その著を進呈したと言われています。墓地の”やぐら”には政子、実朝の墓とも供養塔ともいわれる五輪塔があります。

此の度 《npo法人 鎌倉ガイド協会》に特別なお計らいを頂き、仏殿の扉を開いて拝観させていただきました。
脱乾漆造の”籠釈迦”と呼ばれる宝冠釈迦如来坐像、両脇侍の他、鶴岡八幡宮の仁王門にあった仁王像も両脇に安置されて異彩を放っていました。

      《1992年8月 源実朝を偲ぶ 生誕800年記念 平山郁夫書》
        
                       

          
         
 


          

寒川神社 と 梶原景時の本拠地をめぐる

2010-02-14 | 鎌倉の四季
                                【寒川神社 本殿】

祭神は寒川比古命・比女命。日本唯一「八方除・方違の神」。
相模一之宮『寒川神社』創建は727(神亀4年)。従五位下の神階叙位(律令制度の格付)。
春分の日に富士山 夏至に大山山頂 冬至に鷹取山山頂 に日没する土地。
高座郡寒川町という一郡・一町の非常に誇りある土地であることを知るに至りました。

【神門】


【本殿】


【拝殿】


三の鳥居から両側に灯篭のある鬱蒼とした長い参道を進むと神門のある広場に出ます。前方に祭神を祀る総檜造りの御本殿が厳かです。広い庭を左右に回廊が囲み独特の雰囲気の中を神前に進み御鈴を鳴らして拝礼を致しました。

頼朝  頼家誕生で馬 奉納。 政子 義時 重時 社参 奉弊。
北条氏綱 社殿 造営。
北条氏康 宝殿 再興。
徳川家康 社領 100石。

【大(応)神塚古墳】

相模川流域の支配者の墓。51mの前方後円墳。
古墳出土品(直刀3。鏡3面。勾玉。管玉。切子玉。鉄斧。槍鉋など)寒川神社に保管。
  【(応)】応神天皇を連想する為。
  【安楽寺】寒川神社別当寺 古墳に近く数体の人骨を埋葬。

【梶原景時 館跡】

桓武平氏の子孫。
1180.8 石橋山合戦で、平氏軍・大庭景親に従い頼朝軍を敗走させたが、窟に潜む頼朝を見逃して助ける。
1180.10 鎌倉に凱旋した頼朝軍に参加。
1184 木曾義仲追討。 「一の谷」で活躍。
1185 屋島戦で義経と対立。頼朝に讒訴し義経失脚。上総介広常を暗殺。
1189 修禅寺に幽閉中の範頼を攻め自害させる。
1199 頼朝の死後 文武には優れたが 有力御家人66名が頼家に景時弾劾文を提出し追放。
1199 一族郎党を率いて一宮館に引き上げる。
1200 再起を期し上洛のため館を出発、駿河清見関で北条軍の追撃をうけて一族は滅亡。
 
           

【水道記念館】
昼食の休憩所として入場する。近くの相模川には寒川取水堰があり一帯は水に拘わる施設が沢山ある処。人口が現在ほどでない時代には神奈川全土に送水されていましたが、上流に数箇所ダムが出来て 今では川崎市と横浜市には送水されていない。記念館では美味しい水を頂くことが出来て、水の博物館のようでした。
          

【神川橋】
相模川に架かる橋には寒川神社にまつわる名前が付いていました。なんという長い橋でしょう。ここから見える寒川取水堰は今は使われていないそうですが絵になる風景でした。


建長寺 半増坊と塔頭巡り

2010-01-31 | 鎌倉の四季
     【半僧坊から見た建長寺】          
                                                                  

【建長寺】
鎌倉五山第一位(五山制は南宋に倣って臨済宗での格付)。鎌倉幕府五代執権北条時頼は蘭溪道隆を開山に迎え、日本最初の純粋禅寺「建長寺」を建立しました。純粋禅寺とは禅宗だけを研鑽する淨刹。つまり中国杭州の径山万寿禅寺で修行することと同じだと言っています。
かって 京都で布教しようとして比叡山に反対され、鎌倉壽福寺で修禅をかさねていた日本臨済宗の開祖、栄西が他界してからほぼ四十年の歳月が流れていました。栄西が鎌倉の地に蒔いた"禅”と言う種子は、建長寺が創建された事で実を結び開花したと言えましょう。

蘭溪道隆(大覚禅師)は厳格な禅風をそのまま建長寺に持ち込み、千人を超えた修行僧を指導しました。その指導書は「法語規則」(国宝)として寺に残っています。

【建長寺 半僧坊】
建長寺境内の最も奥の山腹にある鎮守です。祀られている半僧坊権現は、明治中期の建長寺住職 霄(おおぞら)貫道禅師が、ある夜お坊さんのような はたまた俗人とも見える白髪の老人と山中で出会い、その翁が「私を関東のいずれか清浄なところに招いてくださるなら、その処いよいよ栄え、ありがたいことが絶える事がないでしょう」と告げて、フッと姿を消してしまった霊夢を見られました。

このお姿こそ半僧坊の真姿で建長寺の鎮守に相応しいと、自ら奥山の方廣寺に出向いて御分身を願われ、明治23年5月堂宇を創建して現在の半僧坊本殿の礎を築かれました。

「半僧坊」とは 半分僧 半分俗人で、仏様でも神様でもなく「半僧坊大権現」として、沢山のカラス天狗に守られています。

     

《奥山の方廣寺は浜松市の臨済宗方廣寺派の大本山。 明治14年山林大火で類焼に遭うも、 開山の御墓所と半僧坊仮殿が焼け残った事から、鎮守の神である半僧坊の信仰が全国に広まりました》 

祈祷所で新春の「大祈祷」を受けることが出来て清々しい時を頂きました。
高台には富士見台もあり(この日は雲に捲かれていましたが)
建物の2階からは建長寺の背面からの広大さを見ることも出来ました。

今回2ヵ所の塔頭をご案内いただきました。
塔頭(たっちゅう)とは、境内にある小寺をさしています。
禅宗において祖師または高僧が亡くなった後、その弟子が師の徳を慕って塔の頭(ほとり)に構えた房舎を指します。時代が進むにつれ各門派を中心とする動きが強くなり、勢力維持のための塔頭が乱立するようになって、室町時代に入り規制禁止へと向かいました。

【回春院】
蘭溪道隆の語録に「深山幽谷の面々は春に廻る」があります。建長寺の伽藍全体の構想に中国の禅寺造りが取り入れられています。回春院の本堂前の大覚池は谷戸から流れる湧き水を溜める第一の溜池として土木的な意義を持っています。第二の溜池が方丈池になります。

ご本尊は文殊菩薩。 住職のお話があり軽妙でとてもよかったです。写真もどうぞお撮りくださいと寛大でした。

               

【正統院】
本尊は回春院と同じく文殊菩薩。建長寺十四世高峰顕日の塔所です。後嵯峨天皇の第二皇子で天皇家の血筋を引くことから宮内庁が管理しています。
正統院の中興の開山が徳川三代将軍家光の乳母「春日局」であり、立派な位牌が祀られています。

          

山門に向かって左手断崖下の墓地に、太平洋戦争末期祖国のため、一身の犠牲を省みず、敢然として死地に赴いた「桜花特別攻撃隊神雷戦士たちの碑」が大きく建つていました。

日差しの中【梅蕾】がほころび始めていました。

  

新春の富士  『浄明寺緑地から光明寺へ』 

2010-01-18 | 鎌倉の四季

                【浄明寺緑地(関東の富士見百景)にて 10倍ズーム】

「新春の招福を願い、寺社を参拝。鎌倉屈指のビューポイントから霊峰富士を仰ぎ新春を寿ぎます」と。
NPO法人鎌倉ガイド協会から『古都鎌倉史跡めぐり』で昨年 上記のお誘いを頂いていたので申し込んでいました。 

 《4年半位前から参加していて、1ヶ月に3コース紹介され、1コースに4日を当てて都合の配慮もされています。 12ヶ月×3×4.5=160回のうち申込んだ後 不都合が起きる事もありその半分くらいに参加して来たかと・・。鎌倉幕府やお寺に拘わる話をこれだけ聞くことで、理解できたことも多々あり又鎌倉の山や谷、路地の奥まで四季折々の表情も見ることが出来ました》

この日の朝の天気予報では、「非常に穏やかな晴天で富士山もスッキリ見えるでしょう」と、いつもは聞かないアナウンスまであり、私の想像は膨らみましたが、雲間から小さく然しクッキリとトップの写真が撮れたので良しとすることにいたしましょう。

【名越切通】
「切通」とは山や丘を切り開いて通した道をいいます。名越は鎌倉から三浦や房総へ抜ける重要な道であり、敵の侵入を防ぐ役目も持っていました。(国史跡に指定)

          

【海前寺】
切通を途中から海側に下りますと、風光明媚な高台に海前寺が小坪漁民の念仏道場として建立され、『時宗』の踊念仏として栄えました。
本堂裏に首塚があり室町時代の「住吉城」攻防合戦で戦死した武将を埋葬した墓だと考えられています。

          

【住吉神社 住吉城】
飯島の鎮守であると同時に住吉城の鎮守でもありました。神社は城の一部であったと考えられています。この城は鎌倉幕府により鎌倉と三浦半島との防衛拠点として築かれ、三浦義同(道寸)は本拠の岡崎城を北条早雲に落とされた後、住吉城に籠りますがここも落とされて更に新井城へと逃れるのです。くさ原に小さな祠があり本地仏聖観音が安置されています。 『討つものも打たれるものもかわらけよ 砕けてのちはもとの土くれ』と 辞世の句にした同寸に万感の思いを寄せてしまいます。

          
【光明寺】
鎌倉幕府第4代執権 北条経時が然阿良忠を迎えて開いた浄土宗の大本山です。江戸時代には徳川家康の定めた浄土宗学問所関東十八壇林の首座でした。
今回 山門を拝観させていただきました。
間口16m、奥行き7m、高さ20mで鎌倉の門では最大の格式を備えています。両端に階段があり急坂で注意を要します。二階には釈迦三尊・四天王・十六羅漢が祀られています。短時間の写真撮影を許されて四天王の内の二天王には迫力があり去り難いものでした。
          
               

二階は廻り廊下で海側には由比ヶ浜・江ノ島・富士山が眺められて彼岸の中日には、西方極楽浄土を見る思いに駆られるそうです。
本堂も廻り廊下をぐるり廻ると大賀蓮池の上方に、800年忌で建造された真新らしい大聖閣が金閣寺と見紛うばかりに立派です。