【油壺湾】
鎌倉幕府の重臣、相模の名族三浦氏の城址を訪ねてきました。
桓武天皇から桓武平氏としての由緒があり、三浦半島に勢力を持った豪族です。
三浦氏は『前九年の役』で武功を揚げて 『三浦介』を称しました。
『保元・平治の乱』で三浦義明(大介)・義澄親子は 源義朝に従い敗れました。三浦一族は戦線離脱し落ち延びて帰国します。
1180年頼朝の挙兵に応じますが、『石橋山の戦い』に破れ安房に逃れます。この時和田義盛と共に功績があって、鎌倉幕府では大きな権力を持つに至りました。
しかし1213年和田氏は和田合戦で滅び、1247年宝治合戦で三浦氏も滅亡します。
その後傍流の佐原氏の三浦盛時により再興。戦国大名の相模三浦氏となりました。
時移り1516年相模平定をもくろむ北条早雲に攻められて、三浦義同(道寸)・義意親子は自刃。三浦氏は滅亡します。
この時の最後の『砦』が【新井城】でした。
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城は三方を絶海に囲まれた要害でした。北条早雲に相模の要所要所をを奪われ、最後に逃れ来た拠点こそが、三浦半島の先端に位置するこの城だったのです。
早雲はこの堅城の力攻めを諦め、鎌倉に玉縄城を築き長期包囲(兵糧攻め)の策で3年の歳月を費やしました。
この城の南に位置する油壺湾の名前の由来は、落城時の凄惨な戦いのために湾が血に染まった様を表現したものだと言われています。
現在では 東大地震研究所のある鬱蒼と繁る木立のなかに浅く【外堀】が残るのを見るくらいです。
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城址を後に下って行くと相模湾がのぞまれます。この城址を取り囲む砂浜が今は油壺ハイキングコースになっていて、手前は『荒井浜』。突端は『胴網海岸』(三浦義意の胴が落ちた浜)。この美しい2kmの海岸は又歩きたいと思ったほど気持ちのいいものでした。
【荒井浜にて】
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【胴網海岸にて】
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再度荒井城址に戻り『三浦道寸義同の墓』に参拝。
辞世の歌を聞く。
『討つものも討たるる者もかはらけよ 砕けて後は元の土くれ』
『三浦荒次郎義意の墓』に参拝。
小網代湾の崖上に供養塔がありました。
此処で解散でしたが、バスの便が良いので数名で城ヶ島へ向かいました。
烏賊の塩焼きに熱燗を頂いて寒さを吹き飛ばす事が出来ました。
強風に雲が散って小さく富士山が見えていました!
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(10倍ズーム)
鎌倉幕府の重臣、相模の名族三浦氏の城址を訪ねてきました。
桓武天皇から桓武平氏としての由緒があり、三浦半島に勢力を持った豪族です。
三浦氏は『前九年の役』で武功を揚げて 『三浦介』を称しました。
『保元・平治の乱』で三浦義明(大介)・義澄親子は 源義朝に従い敗れました。三浦一族は戦線離脱し落ち延びて帰国します。
1180年頼朝の挙兵に応じますが、『石橋山の戦い』に破れ安房に逃れます。この時和田義盛と共に功績があって、鎌倉幕府では大きな権力を持つに至りました。
しかし1213年和田氏は和田合戦で滅び、1247年宝治合戦で三浦氏も滅亡します。
その後傍流の佐原氏の三浦盛時により再興。戦国大名の相模三浦氏となりました。
時移り1516年相模平定をもくろむ北条早雲に攻められて、三浦義同(道寸)・義意親子は自刃。三浦氏は滅亡します。
この時の最後の『砦』が【新井城】でした。
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城は三方を絶海に囲まれた要害でした。北条早雲に相模の要所要所をを奪われ、最後に逃れ来た拠点こそが、三浦半島の先端に位置するこの城だったのです。
早雲はこの堅城の力攻めを諦め、鎌倉に玉縄城を築き長期包囲(兵糧攻め)の策で3年の歳月を費やしました。
この城の南に位置する油壺湾の名前の由来は、落城時の凄惨な戦いのために湾が血に染まった様を表現したものだと言われています。
現在では 東大地震研究所のある鬱蒼と繁る木立のなかに浅く【外堀】が残るのを見るくらいです。
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城址を後に下って行くと相模湾がのぞまれます。この城址を取り囲む砂浜が今は油壺ハイキングコースになっていて、手前は『荒井浜』。突端は『胴網海岸』(三浦義意の胴が落ちた浜)。この美しい2kmの海岸は又歩きたいと思ったほど気持ちのいいものでした。
【荒井浜にて】
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【胴網海岸にて】
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再度荒井城址に戻り『三浦道寸義同の墓』に参拝。
辞世の歌を聞く。
『討つものも討たるる者もかはらけよ 砕けて後は元の土くれ』
『三浦荒次郎義意の墓』に参拝。
小網代湾の崖上に供養塔がありました。
此処で解散でしたが、バスの便が良いので数名で城ヶ島へ向かいました。
烏賊の塩焼きに熱燗を頂いて寒さを吹き飛ばす事が出来ました。
強風に雲が散って小さく富士山が見えていました!
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