花水木の独り言

庭の大きなハナミズキの、白い蝶のような花びらや、真紅の葉に気持ちを託して・・徒然なるままにキーを打ちました。

円覚寺 塔頭めぐり

2009-08-31 | 鎌倉の四季
                             【円覚寺 山門】

円覚寺の塔頭(たっちゅう)めぐりは今回で3度目だそうですが、私は昨年に続いて2度目になります。昨年は「雲頂庵」の住職 殿谷氏の60分の法話が素晴らしかった事が思い出されます。

「塔頭」とは境内にある小寺を指します。祖師または高僧が亡くなった後、その弟子が師の徳を慕って塔の頭(ほとり)に構えた房舎を指しますが、時代が進むにつれて各門派を中心とする動きが強くなり、勢力維持のため塔頭が林立するようになって、室町時代に入り規制禁止へと向かいました。
最盛期には50ヶ所もあったそうですが現在は17ヶ所です。

今回の塔頭めぐりは 黄梅院→ 帰源院→ 寿徳庵 の三ヶ寺です。

【黄梅院】
第八代執権北条時宗の夫人覚山尼が、時宗の菩提を弔うために建立した華厳塔の場所に足利氏が創建したもので、黄梅院は足利氏の菩提寺としての性格を帯びることになりました。

 本尊  千手観音菩薩坐像
 開山  夢窓疎石(浄智寺、瑞泉寺、南禅寺、西芳寺、天龍寺の住職を歴任)

本堂には立派な御仏が何体も安置されています。又書や詞や額が多くありました。

境内の《鉈彫り千手観音像》 《五輪塔》を撮ったものです。
          
                    

【帰源院】
夏目漱石が明治27年末から翌年はじめにかけて、参禅した寺として名高いところです。

 中興開祖 円覚寺153世奇文禅才
 中興開基 北条氏康 (武田信玄 上杉謙信と対等にわたりあった武将)

明治30年の夏 材木座に滞在していた漱石は、3年振りに当院を訪れ世話になったお礼を述べると共に俳句を読みました。
昭和37年「鎌倉漱石会」は12月9日の「漱石忌」に《句碑》を建立しました。

             「佛性は 白き桔梗に こそあらめ  漱石」
       

     《帰源院》
  

【寿徳庵】
東相模一帯を治めていた三浦同寸は寿徳庵復興に尽力します。

 中興開基 三浦同寸

永正9年(1512)三浦同寸は、北条早雲の相模平定に向けての進攻に対抗しますが、岡崎城そして住吉城と攻め落とされて撤退、ついに三浦一族の居城 新井城に立て籠もります。この城は力攻めでは陥すことができないと考えた早雲は、玉綱城を築き糧道を断つ作戦に出ます。3年に及ぶ凄まじい戦の末、三浦同寸・義意(よしもと)親子は一族郎党と共に自刃し三浦氏は滅亡 相模一国は小田原北条の手中に落ちました。
    
http://blog.goo.ne.jp/higaki_yjp/m/200801

《三浦一族の墓  同寸の五輪塔 一族の宝篋印塔》
     
 
   同寸辞世の句
    「討つものもうたれるものもかわらけよ くだけてのちはもとの土くれ」

《本堂》
 

寿徳庵 斉藤住職による「鎌倉武士と禅」と題した法話を拝聴しました。
鎌倉武士には心の支えとして「禅」がありました。          

 北条時頼 蘭渓道隆に参禅37歳で遷化。

 北条時宗 蘭渓道隆に幼少から指導を受け19歳で参禅。国難に際し無学祖元に      指南を仰ぐ。 運よく嵐で助かる。日本、元の戦死者の御霊を平等に      供養して「円覚寺」を建立・・・「怨みは怨みによって静まらず、怨      み無きによって静まる」

 北条貞時 禅院制符条書(修行僧の規則) 洪鐘の建立。

 北条高時 足利尊氏 後醍醐天皇 夢想疎石に帰依 鎌倉幕府滅亡も円覚寺は守      られた。

【植物の清々しさ】
     《芙蓉》  《萩》  《ムラサキシキブ》
      
           

鎌倉アルプスから覚園寺に至る

2009-08-24 | 鎌倉の四季
                             【のんびり小径】

緑陰の尾根道を辿り、鎌倉一のやぐら群「百八やぐら」のさわりに触れ、8月は一般拝観が出来ない覚園寺の薬師堂を特別拝観させていただきました。

【散在ガ池森林公園】
鎌倉湖とも呼ばれる「散在ガ池」と、その周辺に約2.4kmの散歩道があり程よい柵やベンチもあり、腐葉土のような足ざわりの優しい小径を回遊できるようになっています。
江戸末期に大船、岩瀬、今泉の三ケ村に馬の秣(まぐさ)を刈る入会地として無償で分与されましたが、点々と散らばっていたため「散在の山」と呼ばれました。
その頃周囲は大船千石と言われた大水田が広がっていて、しばしば水争いが起きたため戦後になって現在の池に改修されたものです。

《散在ガ池》
 

《のんびり小径》
          
               

《玉アジサイが花の少ない季節に太陽を浴びて美しい》
                    

《鎌倉アルプスを歩く》
      

【百八やぐら】
やがて天園ハイキングコースから程なく標識の覚園寺方面へ向かうと、山腹斜面に177穴の「やぐら」が集まっている鎌倉で最も規模の大きいやぐら群が現れます。数が多い事から仏教で言う百八の煩悩になぞらえて名付けられたようです。
 
壁面には五輪塔、宝篋印塔、仏像の浮き彫り、梵字の彫刻、さらに仏像や地蔵、五輪塔が安置されているものなどあり、鎌倉にあるほぼ全てのやぐらの形式が見られるそうです。
鎌倉は三方を山、一方を海に囲まれた要害都市ではありますが、その分平地が少ないため斜面を利用した墓となったのでした。今回は蜂の襲撃を恐れて入り口のみになりましたが、何時か7階層のやぐら群を一望してみたいものです。

《やぐらの形》
  
      
          

【覚園寺】
建保6年(1218)北条義時が建立した大倉薬師堂が前身といわれています。それを永仁4年(1296)9代執権北条貞時が再度の元寇来襲が発生しない事を祈り、本格的な大寺として完成し「覚園寺」と命名しました。その後火事で焼失しますが、足利尊氏によって薬師堂は再建されます。
茅葺の重厚な大屋根に入ると正面に薬師如来が座し左右に日光・月光菩薩が従って、壁際には十二神將が睨みを効かしています。そして最奥の右窓際に鞘阿弥陀が左窓際には伽藍神像が慈悲の目を投げかけています。
ここ覚園寺には、他にもお堂や寺院、古建築の移築、やぐら等広い庭園には銘木・古木・花木等々何時も楽しみにしているものがあります。

しかし薬師堂の寺域は扉で仕切られていて写真撮影は御法度です。
手前の庭の花を撮らせていただく事にいたしましょう。

《蓮》 《ヤブラン》 《アキノタムラソウ》 《オミナエシ》 《ギボウシ》

     
          
               
                    
         

あッ!ベートーヴェン。

2009-08-19 | Weblog

【 あッ!ベートーヴェン。交響曲演奏会に寄せて 】

東京交響楽団が大友直人の指揮で「あッ!ベートーヴェン。」のシリーズを神奈川県立音楽堂において開始したのは、7年前ー2002年の事だった。
年1回ずつ4年にわたり、1日のコンサートでベートーヴェンの交響曲を3曲ずつ演奏しー当然だぶって取り上げられた曲もあるわけだがー2006年7月にはその締め括りとして、3日間連続で全9曲を番号順に演奏した。
「8番」と長大な「9番」を一夜のコンサートに組み合わせる例はそれまでにもなかったわけではないが、他の7曲を一夜に3曲あるいは4曲ずついっぺんに演奏するというケースは、まず稀有なものであったろう。

この「あッ!ベートーヴェン。」のシリーズの指揮は、翌07年からは若い正指揮者、飯森範親に引き継がれた。飯森は少し前、ドイツのヴュルテンブルク・フィルハーモニー管弦楽団の音楽総監督だった時にベートーヴェンの交響曲9曲をレコーディングしたことがある(オクタビアレコード)。それは天馬空を行くがごとく颯爽とした、しかも非常にニュアンスの細かい、綿密な神経を行き届かせた快演ぞろいであった。
                
神奈川県立音楽堂は、今年「開館55周年」を迎えている。その歴史の長さには、改めて感慨を憶えざるを得ない。開館の1954(昭和29)年11月4日、「神奈川県立図書館音楽堂落成会館記念」演奏会には、エッシュバッハ指揮するN饗が出演。
ワーグナーの「ニュルンベルクのマイスタージンガー」前奏曲やベートーヴェンの「第7交響曲」で華々しく杮落としを行ったという記録がある。

上記は《東条碩夫ー音楽評論》氏に依るものです。長文を勝手ながら抜粋させていただきました。 

【財団法人 東京交響楽団 正指揮者 飯森範親】
          

このシリーズを夫は隔年で数回聴いていて、私は初めての同行でした。
大分改装されていて美しくなっていました。舞台背面 我々からは正面ですが、クリムトの絵が全面に描かれていて度肝を抜かれた気分でしたが、指揮者飯森氏のプレトークで「まさかクリムトの絵?・・・似せて音楽の場面を描いたのでは・・」と触れていただき安堵しました。又「エリーゼのために」の話では、ベートーヴェンの理想の女性のテレーゼは実在し、いくつか曲が作られました。とも。

海のエジプト展

2009-08-13 | 美術館
                        【海のエジプト展 入場券】             

エジプト・ナイル川河口の地中海に古代エジプトの遺跡発見!のニュースは、私にはそんなに古い話ではありません。2千年もの間誰も本気で発掘しようとしなかったのでしょうか?・・・私は疑問符に包まれました。その何十年も前から古代エジプトに焦がれてアブシンベルからナイル川の西方も東方も、飛行機で バスで 大河をファルーカや乗船でカイロまで遺跡を辿った事もありました。でもアレクサンドリアには行っていないのです。

【古代アレクサンドリア】
      

今回日本で海底遺跡が公開されました。謎解きのチャンスです。
古代エジプトには3000年の歴史がありますが、プトレマイオス朝に絞ることに致しましょう。
当時エジプトをペルシャの過酷な支配から開放したのが、ギリシャ系マケドニアのアレクサンドロス大王だったのです。紀元前331年の事でした。
大王の死後将軍であったプトレマイオスが王朝を開いたのです。代々王はプトレマイオス○世。女王はクレオパトラ○世です。他の名前も少しくはありましたが・・クレオパトラ7世は紀元前69年に生まれたエジプト王朝最後の女王でした。紀元前30年に自害して王朝は滅びるのです。

海底遺跡は海に近い地域が地震や地盤沈下で徐々に沈みました。アレクサンドリアは8世紀頃には水没したと考えられます。湾岸部の水深数メートルにあり空中からも見えていて、以前から遺跡の事は知られていましたが、発掘は潜水技術が駆使できるようになった’92年頃から始められて、終わるのは数百年は掛かるだろうといわれています。

【マッピング: 発掘現場を区切り発見した遺跡の位置を書き留める】
                

アレクサンドリアと共に、カノープス、ヘラクレイオンの都市も埋没したのでした。展示場はその都市別に開示されています。

『カノープス』 は聖なる癒しの都として。
地中海を繫ぐ要所でありセラピス大神殿に沢山の巡礼者が訪れていました。「王妃の像」はギリシャ神話の愛の女神アフロディテの化身とされ衣服の襞が体に張り付いた立像でとても優美でした。

【ウエディングリングを発掘】男女が手をとり合って神が祝福しているのでしょうか・・結婚指輪を左手に嵌める習慣もエジプトが起源です。
                               
 
『ヘラクレイオン』 は神々とファラオが出会う都として。
ギリシャ神話の英雄ヘラクレスを祀った巨大な神殿が建てられていました。この神殿の入り口に「豊穣神ハビの巨像」があり、耕地を豊かにするナイルの氾濫をあらわす理想化された穏やかな表情の像は5mを越す巨大さでした。

【ハビ神 王 王妃】三巨像の建ち並ぶところには、離れなければ全体像が見渡せないほど長大で迫力が感じられました。当時ではこの迫力、畏敬の念は如何ばかりだった事でしょう。絵ハガキの寄り添った映像からはどれ程に伝える事が出来たでしょうか。
          

《アレクサンドリア》 はクレオパトラが愛した都として。
プトレオマイオス朝の王都として、大図書館や古代の「世界七不思議」で有名なファロスの灯台があり、クレオパトラ7世はアンティロドス島の小宮殿にしばしば居住したと言われています。
父のプトレマイオス12世は端正な顔立ちのスフィンクス像で。ローマの将軍カエサルを父に持つカエサリオンは、鼻の潰れた頭部だけが発見されていて数奇な運命を物語っているようです。そしてクレオパトラ7世は横顔が刻まれた小さな貨幣のみですが、今後の発掘が想像を掻き立てられることでしょう。
父・娘・子 3代が一堂に会して圧巻でした。

【プトレマイオス12世のスフインクス像】
 

【カエサリオンの頭部】
           
 
【クレオパトラ7世のコイン】
           

エジプトの民をペルシャの支配から開放したアレキサンドロスも又外部からの支配者でした。
ギリシャ系のプトレマイオス朝が滅んだ後は、ローマ及びビザンツに依る支配を経験し紀元後7世紀には、エジプトの地はアラブ人の侵攻を受けてイスラム化していったのです。


     パンフレットや朝日新聞の写真を引用 

緑陰に鎌倉ゆかりの名刹を訪ねて

2009-08-01 | 鎌倉の四季
                          【神武寺境内の六地蔵】

鎌倉の東部に位置する東逗子は、古来鎌倉郡沼浜郷と呼ばれ「古東海道」が通り平安時代から「三浦一族の支配地」でありました。
源頼朝の父義朝の館がこの辺りにあったと言われ、交通・軍事上の要衝の地でもあり、奈良正倉院には8世紀に沼浜郷から朝廷に納められた「麻布墨書」が残っています。

【海宝院(曹洞宗)】
     
 
開基:長谷川長綱 徳川家康の代官頭。1590年家康の江戸入府で三浦郡全域の支配にあたり、後北条の影響一掃の為にこの地に移り住みました。
 
 《長谷川長綱一族の墓》
     
         
  《寺宝:銅鍾 戦場で陣鐘として使われました》 
     

海宝院の側面から裏面にかけて墓地が広がっています。
その一廓に「石原慎太郎氏」の墓地があり墓石に比して更地が多く残されていました。

【光照寺(真言宗)】
古文書焼失のため開山、開基とも不明。
もと逗子五霊神社の別当寺。
源義平(頼朝の長兄で 1159年平治の乱で平清盛の暗殺に失敗して処刑されました)の菩提寺と言われています。母は三浦氏の娘。
                   

【法勝寺(日蓮宗)】
聖武天皇の頃沼間辺りは大蛇が住み人々を苦しめていました。
行基に懇願の結果、十一面観音像を彫って舟に載せ経を読んで調伏の後は、大蛇は村人を守る守護神になりました。

この辺りに源義朝の館があり裏山一帯が沼間城址であったと言われています。   
    

【神武寺(天台宗)】
古くは神の嶽と呼ばれ山岳信仰の霊地でした。鎌倉時代以前の記録は不詳。
鎌倉時代 頼朝が文覚上人を住持とし平家追討の祈願を行う。
 
 1209年 実朝が参拝
 1507年 全山焼失 小田原後北条により復興
 1590年 秀吉勢により焼き討ち
 1591年 家康から五石朱印状にて復興

 《本堂(薬師堂)》
  

 《客殿(来迎院)》
  釈迦如来 阿弥陀如来三尊 十一面観音 絹本着色大威徳画像(鎌倉国宝官)
  智像 円仁 伝教大師 不動明王
   
 
 《客殿 本堂の拝殿を終えて坂道を下る時「宝珠」が大きく印象的》
        

 《鐘楼》
       

 《弥勒やぐら》
鶴岡八幡宮に弁才天を奉納した大唐高麗舞楽師「中原光氏の墓」。石仏光背銘に 「従五位上行中原朝臣光氏 正応三年(1290)」とあり、俗名の銘が残る唯一の 墳墓窟。
        

【東昌寺(真言宗)】
1333年 新田義貞の鎌倉攻めにより北条一族は鎌倉東勝寺に於いて滅亡。住職信海和尚が火中から本尊大日如来を運び出し、北条一門の霊を弔うためこの寺を建立。

1637年英勝寺領となり「東昌寺」に改名。
 《屋根飾りが美しい》
     
 
 《阿弥陀仏 像高259cm 三浦半島では稀な巨仏》