逗子は鎌倉郡沼浜郷と呼ばれていた地であり,すでに天平勝宝元年(749)の「調布墨書」に見ることが出来ます。 平安時代より開発領主として勢力を持った三浦氏の支配地でもありました。 三浦氏と密接な関係を持った源義朝の旧宅が沼間にあったことが「吾妻鏡」にあり,義朝の子義平も三浦氏の保護のもとに居住していました。
【海宝院 創建:天正18年(1590) 本尊:十一面観音】
天正18年(1590)江戸に入府した徳川家康は,長谷川長綱を代官頭とし,幕府直轄地の三浦郡を支配させ検地を実施しました 。高い石積みに銅鐘があり北条早雲が三浦氏を攻めた時,陣鐘として使用しました。墓地は広大で有名無名のお墓が林立しています。
なかんずく長谷川長綱とその一族の墓。 船奉行 向井忠勝夫人(長綱の娘)の宝塔。 又都知事石原家の墓地がかなりの広さを占めているのを目にしました。
立派な四脚門を額縁にして,本堂も庭も広大で平安時代のころから神武寺を監視するためにこの寺はあったとも言われています。
【神武寺 開山・開基 :行基 本尊 :薬師如来 】
奈良時代 神亀元年(724)聖武天皇が霊夢を見て,命を受けた行基がこの地に下向して,十一面観音,釈迦如来,薬師如来の三尊を祀ったのが始まりだと言われています。さらに平安時代 文徳天皇は天安元年(857)慈覚大師に詔して七堂伽藍ヲ整えさせ,天台宗に改宗しました。
時代は下り,源頼朝は平家追討祈願のため 文覚を住持としたと伝えられています。又鎌倉幕府の公的日記「吾妻鏡」の中に,承元3年(1209)3代将軍源実朝が参詣したとあり,記録上最も古い事例です。戦国時代 永正4年(1507)全山消失するも,小田原に入った北条氏の保護を受けて復興を遂げました。
客殿(来迎院) 大きな宝珠が印象的
鐘楼 本堂を見下ろす位置にあり
薬師堂に向かう途中 六地蔵
弥勒やぐら 弥勒石像の後背に「大唐高麗舞師本朝神楽博士従5位行左近衛将監中原朝臣光氏, 行年七十三 西応三年虎9月五日」とあり,俗名の銘が残る唯一の墳墓窟とあります。