花水木の独り言

庭の大きなハナミズキの、白い蝶のような花びらや、真紅の葉に気持ちを託して・・徒然なるままにキーを打ちました。

梅の香漂う早春、 憂愁の将軍 実朝の足跡を巡る

2010-02-27 | 鎌倉の四季
     【梅の香漂う】
     


源実朝は8歳にして父頼朝が死去しています。3年後兄頼家が征夷大将軍になりますが、「比企能員の変」により伊豆に流され暗殺されるのです。
実朝未だ12歳で征夷大将軍となり、翌年には結婚もするのです。幼い将軍を補佐する北条は狙い通り政治の実権を握ることになるのです。
豊かな感受性を持った名ばかりの将軍は、和歌にその才能を発揮して「金塊和歌集」を編み上げました。渡宋を夢見たロマンティシズムや思いやりのある性格など、人間的魅力や大いなる同情からも人気があり 現在ではゆかりの場所巡りが多く行われています。

【源実朝 年譜】
1192年 誕生  父頼朝征夷大将軍となる。
1199年 8歳   頼朝死去。
1202年 11歳  兄頼家征夷大将軍となる。 
1203年 12歳  征夷大将軍「実朝」を賜う。頼家修善寺に流される。
1204年 13歳  坊門信清の女と結婚。頼家死去。
1205年 14歳  この頃新古今和歌集を通読。北条時政失脚。義時執権に。
1208年 17歳  疱瘡を病む。藤原基俊筆の古今和歌集を献上される。
1209年 18歳  15歳からの和歌30首を合点のため藤原定家に遣はさる。
1213年 22歳  金塊和歌集を編集。
1214年 23歳  体調すぐれぬ実朝に栄西「喫茶養生記」を献上。大慈寺供養。
1216年 25歳  宋に赴くため陳和卿に命じ大船を造らせる。
1217年 26歳  大船完成するも進水に失敗。 宋に仏舎利を求める。
1218年 27歳  1月権大納言。3月左近衛大将。10月内大臣。12月右大臣。
1219年 28歳  正月27日鶴岡八幡宮で右大臣拝賀の退出時、
           公暁石階の際に窺い来たり剣を取りて丞相(実朝)を侵し奉る。

【大慈寺跡】
大慈寺は実朝が23歳の時「君恩父徳」に報いるため建立し、大倉新御堂とも呼ばれました。
明王院の東一帯が旧跡で「吾妻鏡」は、此所河有り、山有り、水木共に便を得たり。とあります。宋の能仁寺より仏舎利を請来して安置しますが1285年円覚寺に移されました。本堂・丈六堂・新阿弥陀堂・釈迦堂・三重塔がありましたが、現在丈六堂の仏塔のみが光触寺に安置されています。跡地は草地で管理されています。一段低いところに石碑が建っていました。          
         
           

【名王院(五大堂名王院) 真言宗御室派 】

実朝の死後四代将軍となった藤原頼経が将軍御願寺として建立を企画しますが、大慈寺内では中々決まらず毛利季光の所領であった現在地に1235年創建されました。当初は不動明王・降三世・大威徳・軍荼利・金剛夜叉明王を五つの大きな御堂に安置したので五大堂と呼ばれました。寛永年間の火災で不動明王だけが残り、1712年作の四尊と共に本堂に祀られています。
建物内部はもとより境内も撮影不可でした。梅が咲き親しみのある庭と藁葺きのお堂に入場出来て、照明と灯明に輝く五尊を拝し僧侶の法話をお聞きしました。 )

【勝長寿院跡】
頼朝が父義朝の菩提を弔うために建立しました。本堂は大御堂と呼ばれ、本尊は丈六阿弥陀如来、仏画は宅間為久作の25菩薩を描く荘厳なものでした。実朝の遺骸も母政子もここに葬られました。何度かの火災に遭い所在を示す背丈を越える石碑と小さな五輪塔がある狭い一廓を見るのみです。

           

【歌の橋・荏柄天神】
泉親衡が故頼家の三男を将軍に擁立する陰謀が露見した際、加担したとして捕らえられた渋川刑部六郎兼守は荏柄天神に十首の詠歌を奉じ無実を訴えました。これを知った実朝はこの歌に感銘を受け兼守を許します。赦された兼守は神徳に謝し参道に橋を架けました。今も「歌の橋」と呼ばれ使われているのです。

     

【鶴岡八幡宮】
源家繁栄の象徴ともいえる鶴岡八幡宮が実朝終焉の地となりました。承久元年(1219)正月右大臣拝賀式に於いて兄頼家の子公暁に討たれ首を取られました。この事件は多くの謎が残されました。
実朝自身事件当日 自分の運命を予告する歌を詠んでいるのも謎の一つです。

  《出でていなば 主なき宿と なりぬとも 軒端の梅よ 春をわするな 実朝 》

        
                       (鶴岡八幡宮寺式内社  本殿の西面)

境内には頼朝と実朝を祭神とする《白旗神社》があり、実朝に関する歌碑や句碑を見つける楽しみもあります。
                

【壽福寺】
母政子が頼朝の死の翌年(1200年)に創建した当寺には、実朝もよく参詣しました。開山の栄西は実朝に茶の効用を説き、その著を進呈したと言われています。墓地の”やぐら”には政子、実朝の墓とも供養塔ともいわれる五輪塔があります。

此の度 《npo法人 鎌倉ガイド協会》に特別なお計らいを頂き、仏殿の扉を開いて拝観させていただきました。
脱乾漆造の”籠釈迦”と呼ばれる宝冠釈迦如来坐像、両脇侍の他、鶴岡八幡宮の仁王門にあった仁王像も両脇に安置されて異彩を放っていました。

      《1992年8月 源実朝を偲ぶ 生誕800年記念 平山郁夫書》
        
                       

          
         
 


          

寒川神社 と 梶原景時の本拠地をめぐる

2010-02-14 | 鎌倉の四季
                                【寒川神社 本殿】

祭神は寒川比古命・比女命。日本唯一「八方除・方違の神」。
相模一之宮『寒川神社』創建は727(神亀4年)。従五位下の神階叙位(律令制度の格付)。
春分の日に富士山 夏至に大山山頂 冬至に鷹取山山頂 に日没する土地。
高座郡寒川町という一郡・一町の非常に誇りある土地であることを知るに至りました。

【神門】


【本殿】


【拝殿】


三の鳥居から両側に灯篭のある鬱蒼とした長い参道を進むと神門のある広場に出ます。前方に祭神を祀る総檜造りの御本殿が厳かです。広い庭を左右に回廊が囲み独特の雰囲気の中を神前に進み御鈴を鳴らして拝礼を致しました。

頼朝  頼家誕生で馬 奉納。 政子 義時 重時 社参 奉弊。
北条氏綱 社殿 造営。
北条氏康 宝殿 再興。
徳川家康 社領 100石。

【大(応)神塚古墳】

相模川流域の支配者の墓。51mの前方後円墳。
古墳出土品(直刀3。鏡3面。勾玉。管玉。切子玉。鉄斧。槍鉋など)寒川神社に保管。
  【(応)】応神天皇を連想する為。
  【安楽寺】寒川神社別当寺 古墳に近く数体の人骨を埋葬。

【梶原景時 館跡】

桓武平氏の子孫。
1180.8 石橋山合戦で、平氏軍・大庭景親に従い頼朝軍を敗走させたが、窟に潜む頼朝を見逃して助ける。
1180.10 鎌倉に凱旋した頼朝軍に参加。
1184 木曾義仲追討。 「一の谷」で活躍。
1185 屋島戦で義経と対立。頼朝に讒訴し義経失脚。上総介広常を暗殺。
1189 修禅寺に幽閉中の範頼を攻め自害させる。
1199 頼朝の死後 文武には優れたが 有力御家人66名が頼家に景時弾劾文を提出し追放。
1199 一族郎党を率いて一宮館に引き上げる。
1200 再起を期し上洛のため館を出発、駿河清見関で北条軍の追撃をうけて一族は滅亡。
 
           

【水道記念館】
昼食の休憩所として入場する。近くの相模川には寒川取水堰があり一帯は水に拘わる施設が沢山ある処。人口が現在ほどでない時代には神奈川全土に送水されていましたが、上流に数箇所ダムが出来て 今では川崎市と横浜市には送水されていない。記念館では美味しい水を頂くことが出来て、水の博物館のようでした。
          

【神川橋】
相模川に架かる橋には寒川神社にまつわる名前が付いていました。なんという長い橋でしょう。ここから見える寒川取水堰は今は使われていないそうですが絵になる風景でした。


東京湾の渡り鳥

2010-02-04 | 撮影を楽しむ
                 【東京湾 渡り鳥飛来地】


三番瀬は習志野 船橋 市川 浦安に接する東京湾最奥の浅瀬、水深1メートル未満の面積が1200haもあるところとは一目で見渡す事は到底出来ませんでしたが、想像するだに心に逸るものがありました。東京地方に積雪のあった日 以前からの約束を果たす事が出来て半分満たされ、半分課題の残る旅になりました。

JR船橋からタクシーで降りた所が船橋海浜公園 海岸に出ると想像した鳥の姿がない(?)。海岸線は広大で葦原が延々と続き かなり先に突堤があるのでそこまで行くことにする。その先に海を隔てて工場群があり、中型の船の往来があって鳥が少~しいた!砂浜には規則正しい風紋があり貝もいるし岩壁には牡蠣がびっしり・・生牡蠣の残骸があって漸く人の気配を感じる。
 
     (アサリ)    
     
               (牡蠣)     
               
     (沖行く船)
     

【谷津干潟】
谷津バラ園の近くはどうかしら? との提案で移動をする事にして・・・ここから夢に描いた渡り鳥に 出 逢 え ま し た !!

 (ヒドリガモ)
逆光でハッキリしないのですが、赤茶色の帽子はコガモもいるし婚姻色に変わる時期なので違っているかもしれません。 かなり沢山の群れを作っていますが、頭が潜っていたり寝そべっていたりでこれだけ気持を一つにしてるとはラッキーでした。
  

颯爽と航跡を残してカッコ良い!
  
    
【孤高の鳥 アオサギ】
一羽だけ上空を大きく旋回してヒドリガモの真ん中へふわりと降り立つと一際大きく目立ちます。衆目を集めて悠然と立ち尽くすのでした。こちらのカメラの気の済むまでポーズを替えながらのパフオーマンスには只々驚き入りました。
          

【谷津干潟の夕景】


谷津干潟を半周した辺りに資料館と休憩所があり立ち寄ってみました。別の方角に入り江が広がり双眼鏡がおいてあって、お茶を飲んでいるとカワセミが姿を見せたのです。
そういえば先程 谷津バラ園でもお弁当を使いたいので入場したら、フカフカのソファーを使わせていただいてしかも冬料金でだったのです。

あぁ~いい一日だったなぁ~。 朝起きると一面の銀世界 渡り鳥にも逢えたし 千葉の事も少し解かったし 夕暮れの中飲みたかった銘柄のリキュールで乾杯して 次の約束も出来たしよかった~。