【源氏山の頼朝像】
平治の乱(1159)に敗れた源氏は壊滅しますが、生き残った源頼朝は伊豆に流され、その20年後の治承四年(1180)八月十七日 源氏再興のため挙兵します。十月六日、安房、上総、下総、武蔵と兵を集め祖先と縁の深い鎌倉に入場。ここを拠点に平家討伐を進め、文治元年(1185)三月 壇ノ浦に平家は沈んだのです。
後白河法皇崩御の後、建久三年(1192)七月 征夷大将軍に任ぜられた頼朝は鎌倉に幕府を開きました。
今回はタイトルにある、源氏ゆかりの場所を尋ね 朝廷政治に代わる新しい武家政治を始めた頼朝の想いの一端を訪ねることになりました。
しかし源氏は頼朝、頼家、実朝三代の僅か二十数年で終焉を迎えるのです。
最後に 頼朝がこよなく愛でた琵琶を使った、坂麗水さんによる曲目「源実朝」を鑑賞して、源氏三代を偲ぶと言う企画がありました。
【元八幡】
平安時代 相模守であった源頼義が戦で勝利した際、戦勝記念に源氏の守り神である京都の石清水八幡宮を由比郷鶴岡に勧請します(1063)。由比若宮とも鶴岡若宮とも呼ばれました。(1081)頼義の子義家が修復したと伝わっています。
1180年頼朝が鎌倉入りをして現在地に八幡宮を遷座します。それ以来元八幡と称されるようになりました。
【佐助稲荷神社】
伝説では伊豆に配流中の頼朝が、病に伏したとき「隠れ里の稲荷」と名乗る神霊が夢に現れて挙兵を勧めます。このご宣託に従い旗揚げをしたことで頼朝は源氏を再興する事が出来たと言われています。
この里には半僧半俗の祈祷師、修験者、採薬者などが住んでおり彼等からの情報提供で助けられていました。佐殿と呼ばれていたので「佐助」の名がついたと言われています。
【銭洗弁財天宇賀福神社】
文治元年巳の月、巳の日頼朝の夢枕に宇賀福神が立ち、そのお告げに従いこの西北の地に泉を見つけ岩窟を掘り宇賀福神を祀りました。その水で供養を続けると世の中は平穏になったと言われます。この年こそ平家滅亡の年でありました。
絵馬舎の向こうにランダムに鳥居が並んでいます。この鳥居を潜ると本宮、奥宮へと続きます。この日は多勢の参拝者でこのような映像のみに・・・
【源氏山公園】
八幡太郎義家が永保三年(1083)陸奥守として入国し、清原氏の内紛に巻き込まれ
清原一族と戦う事になりました。出発に際し戦勝祈願にこの山に白旗を立てた事に由来して、旗立山、源氏山と言われるようになりました。
この戦の後 奥州を支配したのは、藤原氏を再興した藤原清衡であり この時から源氏と藤原氏の関係が始まりました。
上記の戦いが「後三年の役」ですが、これは義家の私戦とされ陸奥守を罷免されるのです。
今では源氏山公園の中央に頼朝像が置かれ市民の憩いの場になっています。
【壽福寺】
頼朝は鎌倉入りをして、父義朝の屋敷の有ったこの地に住むことを考えますが、狭いことと義朝を弔うお堂があったため、諦めたと言われています。
源氏山から壽福寺に向かう道は細いながらも、壽福寺のお墓がやぐらにぐるりと取り囲まれ一方が高くなっていて、そこから見下ろしながら降りてくると、有名なお墓も沢山あって墓標と対面しながら歩くのは、いいものだなぁ~といつも思ってしまいます。
壽福寺の中門は正月三ヶ日以外は決して開くことはありませんが、このように拝見できます。
鎌倉五山の三位にありますが、一、二位の北条のミツウロコ紋に比して ここでは
屋根にある笹竜胆紋ですが見えたでしょうか。
【鶴岡八幡宮】
●祭神 応神天皇 神功皇后
●創建 治承四年(1180)
治承4年10月6日鎌倉入りした頼朝は、祖先源頼義が源氏の守り神として勧請した由比若宮を6日後に現在地に移し鶴岡若宮と称しました。
建久二年(1191)三月大火で焼失。十一月現在の形の本宮(上宮)若宮(下宮)を再建して、京都石清水八幡宮より正式に分霊を迎えました。
【大倉幕府跡】
館は山ノ内の首籐兼道の邸を移し建立されました。この首籐邸は安倍晴明の占いによって、一度も火災に遭っていないことで選ばれたと言はれています。
現在の清泉小学校の周辺 東西270m南北220mの広さと推定されています。
幕府は嘉緑元年(1225)までの45年間置かれた後 第3代執権北条泰時により宇津宮辻子へ移されました。
【法華堂跡と頼朝の墓】
頼朝の墓のある場所には始め頼朝の持仏堂があり、没後ここに遺骨が納められました。一周忌後法華堂と称せられました。現在の頼朝の墓は江戸時代に鶴岡荘厳院の住持が勝長壽院跡から層塔を持ち込み、薩摩藩主島津重豪が島津の祖で頼朝の庶子と言われる島津忠久の墓を作る際に整備したと言われています。
【島津忠久の墓】
頼朝の墓の東の山裾に三つ並ぶやぐらの中に、中央が大江広元、左が子で毛利の祖となる季光、右に頼朝の子と言われる島津忠久の墓。
【薩摩琵琶演奏】
薩摩琵琶の弾き語り 曲目『源実朝』
井上旦水作
金塊和歌集より
演奏 坂麗水
山はさけ海はあせなん世なりとも君にふたごころわれあらめやも
の唄を冒頭に朗々と弾き語りをされ、薩摩琵琶については撥を大きく、琵琶も大きく改良されて薩摩から江戸に出たことで全国に広がって行きました。
平治の乱(1159)に敗れた源氏は壊滅しますが、生き残った源頼朝は伊豆に流され、その20年後の治承四年(1180)八月十七日 源氏再興のため挙兵します。十月六日、安房、上総、下総、武蔵と兵を集め祖先と縁の深い鎌倉に入場。ここを拠点に平家討伐を進め、文治元年(1185)三月 壇ノ浦に平家は沈んだのです。
後白河法皇崩御の後、建久三年(1192)七月 征夷大将軍に任ぜられた頼朝は鎌倉に幕府を開きました。
今回はタイトルにある、源氏ゆかりの場所を尋ね 朝廷政治に代わる新しい武家政治を始めた頼朝の想いの一端を訪ねることになりました。
しかし源氏は頼朝、頼家、実朝三代の僅か二十数年で終焉を迎えるのです。
最後に 頼朝がこよなく愛でた琵琶を使った、坂麗水さんによる曲目「源実朝」を鑑賞して、源氏三代を偲ぶと言う企画がありました。
【元八幡】
平安時代 相模守であった源頼義が戦で勝利した際、戦勝記念に源氏の守り神である京都の石清水八幡宮を由比郷鶴岡に勧請します(1063)。由比若宮とも鶴岡若宮とも呼ばれました。(1081)頼義の子義家が修復したと伝わっています。
1180年頼朝が鎌倉入りをして現在地に八幡宮を遷座します。それ以来元八幡と称されるようになりました。
【佐助稲荷神社】
伝説では伊豆に配流中の頼朝が、病に伏したとき「隠れ里の稲荷」と名乗る神霊が夢に現れて挙兵を勧めます。このご宣託に従い旗揚げをしたことで頼朝は源氏を再興する事が出来たと言われています。
この里には半僧半俗の祈祷師、修験者、採薬者などが住んでおり彼等からの情報提供で助けられていました。佐殿と呼ばれていたので「佐助」の名がついたと言われています。
【銭洗弁財天宇賀福神社】
文治元年巳の月、巳の日頼朝の夢枕に宇賀福神が立ち、そのお告げに従いこの西北の地に泉を見つけ岩窟を掘り宇賀福神を祀りました。その水で供養を続けると世の中は平穏になったと言われます。この年こそ平家滅亡の年でありました。
絵馬舎の向こうにランダムに鳥居が並んでいます。この鳥居を潜ると本宮、奥宮へと続きます。この日は多勢の参拝者でこのような映像のみに・・・
【源氏山公園】
八幡太郎義家が永保三年(1083)陸奥守として入国し、清原氏の内紛に巻き込まれ
清原一族と戦う事になりました。出発に際し戦勝祈願にこの山に白旗を立てた事に由来して、旗立山、源氏山と言われるようになりました。
この戦の後 奥州を支配したのは、藤原氏を再興した藤原清衡であり この時から源氏と藤原氏の関係が始まりました。
上記の戦いが「後三年の役」ですが、これは義家の私戦とされ陸奥守を罷免されるのです。
今では源氏山公園の中央に頼朝像が置かれ市民の憩いの場になっています。
【壽福寺】
頼朝は鎌倉入りをして、父義朝の屋敷の有ったこの地に住むことを考えますが、狭いことと義朝を弔うお堂があったため、諦めたと言われています。
源氏山から壽福寺に向かう道は細いながらも、壽福寺のお墓がやぐらにぐるりと取り囲まれ一方が高くなっていて、そこから見下ろしながら降りてくると、有名なお墓も沢山あって墓標と対面しながら歩くのは、いいものだなぁ~といつも思ってしまいます。
壽福寺の中門は正月三ヶ日以外は決して開くことはありませんが、このように拝見できます。
鎌倉五山の三位にありますが、一、二位の北条のミツウロコ紋に比して ここでは
屋根にある笹竜胆紋ですが見えたでしょうか。
【鶴岡八幡宮】
●祭神 応神天皇 神功皇后
●創建 治承四年(1180)
治承4年10月6日鎌倉入りした頼朝は、祖先源頼義が源氏の守り神として勧請した由比若宮を6日後に現在地に移し鶴岡若宮と称しました。
建久二年(1191)三月大火で焼失。十一月現在の形の本宮(上宮)若宮(下宮)を再建して、京都石清水八幡宮より正式に分霊を迎えました。
【大倉幕府跡】
館は山ノ内の首籐兼道の邸を移し建立されました。この首籐邸は安倍晴明の占いによって、一度も火災に遭っていないことで選ばれたと言はれています。
現在の清泉小学校の周辺 東西270m南北220mの広さと推定されています。
幕府は嘉緑元年(1225)までの45年間置かれた後 第3代執権北条泰時により宇津宮辻子へ移されました。
【法華堂跡と頼朝の墓】
頼朝の墓のある場所には始め頼朝の持仏堂があり、没後ここに遺骨が納められました。一周忌後法華堂と称せられました。現在の頼朝の墓は江戸時代に鶴岡荘厳院の住持が勝長壽院跡から層塔を持ち込み、薩摩藩主島津重豪が島津の祖で頼朝の庶子と言われる島津忠久の墓を作る際に整備したと言われています。
【島津忠久の墓】
頼朝の墓の東の山裾に三つ並ぶやぐらの中に、中央が大江広元、左が子で毛利の祖となる季光、右に頼朝の子と言われる島津忠久の墓。
【薩摩琵琶演奏】
薩摩琵琶の弾き語り 曲目『源実朝』
井上旦水作
金塊和歌集より
演奏 坂麗水
山はさけ海はあせなん世なりとも君にふたごころわれあらめやも
の唄を冒頭に朗々と弾き語りをされ、薩摩琵琶については撥を大きく、琵琶も大きく改良されて薩摩から江戸に出たことで全国に広がって行きました。