花水木の独り言

庭の大きなハナミズキの、白い蝶のような花びらや、真紅の葉に気持ちを託して・・徒然なるままにキーを打ちました。

『源氏と鎌倉』の原点探訪

2009-10-26 | 鎌倉の四季
                            【源氏山の頼朝像】

平治の乱(1159)に敗れた源氏は壊滅しますが、生き残った源頼朝は伊豆に流され、その20年後の治承四年(1180)八月十七日 源氏再興のため挙兵します。十月六日、安房、上総、下総、武蔵と兵を集め祖先と縁の深い鎌倉に入場。ここを拠点に平家討伐を進め、文治元年(1185)三月 壇ノ浦に平家は沈んだのです。

後白河法皇崩御の後、建久三年(1192)七月 征夷大将軍に任ぜられた頼朝は鎌倉に幕府を開きました。
今回はタイトルにある、源氏ゆかりの場所を尋ね 朝廷政治に代わる新しい武家政治を始めた頼朝の想いの一端を訪ねることになりました。
しかし源氏は頼朝、頼家、実朝三代の僅か二十数年で終焉を迎えるのです。

最後に 頼朝がこよなく愛でた琵琶を使った、坂麗水さんによる曲目「源実朝」を鑑賞して、源氏三代を偲ぶと言う企画がありました。

【元八幡】
平安時代 相模守であった源頼義が戦で勝利した際、戦勝記念に源氏の守り神である京都の石清水八幡宮を由比郷鶴岡に勧請します(1063)。由比若宮とも鶴岡若宮とも呼ばれました。(1081)頼義の子義家が修復したと伝わっています。 
1180年頼朝が鎌倉入りをして現在地に八幡宮を遷座します。それ以来元八幡と称されるようになりました。
        

【佐助稲荷神社】
伝説では伊豆に配流中の頼朝が、病に伏したとき「隠れ里の稲荷」と名乗る神霊が夢に現れて挙兵を勧めます。このご宣託に従い旗揚げをしたことで頼朝は源氏を再興する事が出来たと言われています。
この里には半僧半俗の祈祷師、修験者、採薬者などが住んでおり彼等からの情報提供で助けられていました。佐殿と呼ばれていたので「佐助」の名がついたと言われています。        

        

【銭洗弁財天宇賀福神社】
文治元年巳の月、巳の日頼朝の夢枕に宇賀福神が立ち、そのお告げに従いこの西北の地に泉を見つけ岩窟を掘り宇賀福神を祀りました。その水で供養を続けると世の中は平穏になったと言われます。この年こそ平家滅亡の年でありました。

        

絵馬舎の向こうにランダムに鳥居が並んでいます。この鳥居を潜ると本宮、奥宮へと続きます。この日は多勢の参拝者でこのような映像のみに・・・

【源氏山公園】
八幡太郎義家が永保三年(1083)陸奥守として入国し、清原氏の内紛に巻き込まれ
清原一族と戦う事になりました。出発に際し戦勝祈願にこの山に白旗を立てた事に由来して、旗立山、源氏山と言われるようになりました。
この戦の後 奥州を支配したのは、藤原氏を再興した藤原清衡であり この時から源氏と藤原氏の関係が始まりました。
上記の戦いが「後三年の役」ですが、これは義家の私戦とされ陸奥守を罷免されるのです。

今では源氏山公園の中央に頼朝像が置かれ市民の憩いの場になっています。

【壽福寺】
頼朝は鎌倉入りをして、父義朝の屋敷の有ったこの地に住むことを考えますが、狭いことと義朝を弔うお堂があったため、諦めたと言われています。

源氏山から壽福寺に向かう道は細いながらも、壽福寺のお墓がやぐらにぐるりと取り囲まれ一方が高くなっていて、そこから見下ろしながら降りてくると、有名なお墓も沢山あって墓標と対面しながら歩くのは、いいものだなぁ~といつも思ってしまいます。
壽福寺の中門は正月三ヶ日以外は決して開くことはありませんが、このように拝見できます。
鎌倉五山の三位にありますが、一、二位の北条のミツウロコ紋に比して ここでは
屋根にある笹竜胆紋ですが見えたでしょうか。

        

【鶴岡八幡宮】
●祭神 応神天皇 神功皇后
●創建 治承四年(1180)
治承4年10月6日鎌倉入りした頼朝は、祖先源頼義が源氏の守り神として勧請した由比若宮を6日後に現在地に移し鶴岡若宮と称しました。 
建久二年(1191)三月大火で焼失。十一月現在の形の本宮(上宮)若宮(下宮)を再建して、京都石清水八幡宮より正式に分霊を迎えました。

           
     
【大倉幕府跡】
館は山ノ内の首籐兼道の邸を移し建立されました。この首籐邸は安倍晴明の占いによって、一度も火災に遭っていないことで選ばれたと言はれています。
現在の清泉小学校の周辺 東西270m南北220mの広さと推定されています。
幕府は嘉緑元年(1225)までの45年間置かれた後 第3代執権北条泰時により宇津宮辻子へ移されました。
       

【法華堂跡と頼朝の墓】
頼朝の墓のある場所には始め頼朝の持仏堂があり、没後ここに遺骨が納められました。一周忌後法華堂と称せられました。現在の頼朝の墓は江戸時代に鶴岡荘厳院の住持が勝長壽院跡から層塔を持ち込み、薩摩藩主島津重豪が島津の祖で頼朝の庶子と言われる島津忠久の墓を作る際に整備したと言われています。

        
 
【島津忠久の墓】
頼朝の墓の東の山裾に三つ並ぶやぐらの中に、中央が大江広元、左が子で毛利の祖となる季光、右に頼朝の子と言われる島津忠久の墓。

            

 【薩摩琵琶演奏】 
薩摩琵琶の弾き語り 曲目『源実朝』
井上旦水作 
金塊和歌集より
演奏 坂麗水 

    

山はさけ海はあせなん世なりとも君にふたごころわれあらめやも 
の唄を冒頭に朗々と弾き語りをされ、薩摩琵琶については撥を大きく、琵琶も大きく改良されて薩摩から江戸に出たことで全国に広がって行きました。           

古代カルタゴとローマ展

2009-10-18 | 美術館
                    【古代カルタゴとローマ展 入場券】

カルタゴとは紀元前 あの古代ローマ帝国と、地中海の覇権を争って3度までも戦い、第二次ポエニ戦争では名将ハンニバルが勇名をはせることになりましたが、その戦いを読み進む時もどうかローマに必勝をと念じたものです。そして第三次ポエニ戦争でカルタゴは完膚なきまでの敗北を喫するのです。それがBC146年でした。 

【ハンニバルが着用したとされる鎧 現存する唯一の遺物です】
        

その100年後にローマはユリウス・カエサルの時代となりカルタゴの再興に取り掛かるのです。やがてローマ帝国の穀倉地として発展し、周辺地域に殖民都市を次々と築いて行きました。現在各地に残る遺跡がローマ帝国往亊の隆盛を今に伝えています。

チュニジアは共和国で首都はチュニスですが、その北東12kmの地に考古遺跡としてカルタゴがあります。
チュニジアにはカルタゴも含めて8つの世界遺産があり、南北に長い国土の地中海寄りの4分の1くらいの所に分散しています。
古代ローマの遺跡に加え、フランス統治時代を経て、イスラム教の深い信仰とあいまって文化・気風が醸されていると言っても過言ではないでしょう。

【ドゥーズ サハラ砂漠の入り口】
        

【ドウッガ のローマ遺跡】
             
 
【ローマンモザイク 世界一と言われるローマが残した鮮烈な色彩の一枚】
        

入場券の薔薇に囲まれた女神の繊細なモザイクにも御留意を。

【エル・ジェム 円形競技場】


 
  東京駅 大丸美術館にて10/25まで開催
 
   写真はパンフレットより引用         
 
         








箱根で 『同窓会』

2009-10-10 | Weblog

                            【仙石原のススキ】

7月の半ばに早々と10月8~9日の予定のお尋ねがあり、近付く程に気懸りだった事がクリアー出来て、此の日を待つのみだったというのに 「何たる事」超特大の台風襲来の日に当たってしまうとは・・・此のことが解かるや情報は飛び交いましたが、「最後まで見極めて」となってTVの情報を刻々と聞き続けて、12時過ぎに東海道線が開通になり連動しているらしい私鉄が、起動することをを確かめたのが12時半。昼食を摂って家を出たのが1時5分とは上出来でしたが、忘れ物はないかという強迫観念で大変な思いをしたのでした。

大袈裟なご披露をしてしまいましたが、ウン十年前の同窓生が会うとなると幹事は大変なご苦労があるものなのす。そのようなお役をしたことのない私でもこれなのですから・・郷里から上京する人たちはキャンセルでした。いい御判断だったと思います。

結局10人の人たちが揃ったのは午後6時でした。此の中のお一人が神奈川大学の出身者でしたから、その保養所を使わせて戴くことになっていたのです。
仙石原の山麓にある広い林の中の瀟洒な建物は個々の部屋はもとより、共用の施設も広々として食事が豪華版だったのが信じられない程でした。
食後の談話室は暖炉のある一廓が仕切られて家庭的な優しさに溢れていました。
お酒やリキュールを程よく戴いて、話は尽きる事無く夜は更けてゆくのでした。

【団欒の一齣】
          
          
明るい内に近くを散策をしてみました。神社仏閣が広大な寺域の林の中に点在している印象を持ちましたし、戸建ち感覚の集合別荘はユニークでした。

【保養所を林の中から摂ったところ】をご覧頂きましょう。
      
     

朝食の後は今日一日の予定を伺いました。
①箱根湿生花園
②箱根スカイラインをドライブ
③箱根園で昼食
④ロープウエイで駒ケ岳へ

【全員の記念撮影 神大の門前で】
          

【箱根湿生花園】は秋に入場したことがなく、珍しい花が撮れました。
 
 《大島野地菊》
  
 
 《サラシナショウマ》
       

      《ミズチドリ》
            

          《山ラッキョウ》
                  

     《ススキとワレモコウを掻き分けて》
       
                       

箱根スカイラインは始めてでした。駿河湾や伊豆半島が眼下に美しく見えています。伊豆半島は太平洋に浮かぶ島だったものが 太古地殻変動で今の場所に激突して地下にもぐりこみ、これが現在言われている東海地震の震源になったものと聞くと生々しいかぎりです。

芦ノ湖も眼下に、しかもかなりの高見なので遊覧船が四隻も五隻もおもちゃのように見えています。結局芦ノ湖を一周したことになり、そのあと駒ケ岳からもう一度湖を見下ろす事になりました。駒ケ岳は気温9度で寒く、富士山も雲に覆われて 最近余り富士山との出会いがないなぁ~と思ったことでした。

【芦ノ湖に立つ霧】

 

裂き織

2009-10-03 | Weblog
          
                                【壁掛け】

「裂き織」は南部裂き織が始まりだそうですが、布のリサイクル・・つまり布を裂き糸状にしてから、機織機で作品に仕上げたものが、今では素晴らしい芸術作品になっていると聞いてはいたのですが、手元で拝見して色々な思いに捕らわれています。

母はもう亡くなって二十数年になりますが、その形見の絵羽織を従姉妹が裂き織にして私たち兄妹 姉・兄・私に送ってくれたことが、懐かしく嬉しく写真を入れて細長な壁を見つけて架けてみました。