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<<十二所果樹園>>
鎌倉の代表的な梅林として、十二所(ジュウニソ)果樹園があります。
古道である朝比奈街道沿いの古刹を巡りながら、太刀洗川に沿って今ではハイキングコースになっている朝比奈切通しを途中右折して登ってゆくと、そこは広大な梅林が広がっていました。
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【山号寺号】 岩蔵山光触寺(がんぞうざんこうそくじ) 【宗派】時宗
【開基】一遍上人 【本尊】阿弥陀三尊(國重文)
鎌倉時代真言宗として開創されましたが、1282年一遍上人が遊行の途次、時宗に改め念仏道場として栄えました。
阿弥陀三尊は運慶、快慶、湛慶の作と伝えられ 泥棒に焼き鏝で仕置をしたが、阿弥陀三尊像の頬にその後が残ったと言う話が伝わっています。「頬焼阿弥陀」として。
こう言った伝説がもう一つ。
お地蔵様に塩を供えるといつの間にか無くなっているので「塩嘗地蔵」。
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<<梅香る本堂>>
光触寺は以前本堂を拝観したとき、金の天井飾りや、柱にも彩色が施されていて印象的だった事を思いだしていました。
昨年従兄弟から「妹が亡くなり」光触寺にお墓を作った旨を聞き、私より10歳は年下の従姉妹の事、その儚さ そして光触寺のこと・・「鎌倉史跡巡り」での巡りあわせを思い、感慨深いものがありました。
お墓が簡単に見つかるとは思わなかったのですが、新しいお墓に目をやりつつ出口に近づいた時、苗字が目に入ってきたのです。○○家之墓では確信は持てなかったのですが、
横から卒塔婆の文字が見えて生前の名前の一文字が入っていたので「あぁ 良かった!」と嬉しく思いました。3月に入れば彼と会えるので・・。
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滑川に注ぐ太刀洗川を左手に見ながら登っていると、対岸の石の祠辺りから竹の筧を伝って水が流れています。細い水流ですがこれが鎌倉五名水の一つだと言います。
ここで梶原景時は血刀を洗い、相手は上総介平広常だという伝説です。
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総面積50.350m2で梅と栗が主。横浜市から鎌倉市、三浦市に連なる三浦丘陵地帯の一角をなしています。無償のボランティアで運営、維持されています。
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鎌倉幕府の四代将軍藤原頼経が寛喜三年(1231)に発願し、場所の設定や鎌倉中の大火災などで時間を要し4年後に創建をみたお寺です。建立地は政所から見て鬼門にあたり、鬼門除けの祈願寺として五大明王(不動・降三世・軍茶利・大威徳・金剛夜叉)を祀りました。それぞれの明王に大きな堂があったことから、古くから五大堂と呼ばれて来ました。
寛永年間の火災で不動明王をを残して他の四体は消失しました。その後再建されましたが
江戸時代には再び火災により消失。その後再び再建されます。
将軍の発案によって建立された、鎌倉に現存する唯一の寺院なのです。
このお寺は一切の撮影は不可です。唯一お堂はパンフレットからの転写です。
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大化二年(646)藤原釜足が鹿島神宮に参詣する折、由比の里に泊まり夢の中で白髪の老人から受け取った鎌槍を、白狐の案内で浄妙寺の裏山に埋めお堂を建てて祈ります。
「不思議な剣が埋められた。これから鎌倉の郡は五穀が実り人々は安楽になる」と神のお告げがあり、天皇に申し上げると「以後鎌倉の郡と唱えよ」と言われ、鎌倉の名前はここから来ていると伝えられています。
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【宗派】臨済宗建長寺派 【本尊】釈迦如来 【創建】文治四年
【開基】足利義兼 【中興開基】足利貞氏
鎌倉五山の四位までが北条氏に関わるお寺で、五位のみが足利氏のお寺です。
中興開基は足利尊氏の父貞氏で、元弘元年(1331)に亡くなり、このお寺に葬られました。裏山の墓地に立派なお墓があります。
この寺が最も栄えたのは文和二年(1353)以降で、その頃鎌倉五山に列したと思われます。
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【鎌倉にゆかりの歌】
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