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<<東慶寺 本堂>>
櫻花爛漫の陽春の候 北鎌倉から市街中心部にかけて『お江』ゆかりの寺社巡りと、花のない時には見過ごしているものを、通りの家々に沢山の櫻が目に付くのも心華やぐ楽しさでした。
まずはトップの東慶寺から7.5キロの道程と、かなりの高低差をお弁当を交えて6時間歩き通したのでした。
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【東慶寺】
創建:1285年 開山:覚山志道尼 開基:北條貞時
東慶寺は、北條時宗夫人が開山とし、子の貞時が建立した言われています。「縁切り寺」
「駆込み寺」として知られ 尼寺として栄え多くの女性を救ってきましたが、1903年
尼寺から臨済宗円覚寺派の寺となり男僧寺となりました。
境内の奥には歴代尼僧の墓所があり、多くの作家・文化人が眠りについています。
例えば 鈴木大拙 小林秀雄 高見順 田村俊子の墓。前田青邨筆塚 佐々木信綱歌碑。
等々。
又 豊富な花暦でも知られ四季折々の花々が境内を飾っています。
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<<尼僧の墓所>>
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<<花の枝折戸>>
「お江」は徳川2代将軍秀忠と結婚し「千姫」が生まれます。やがて豊臣秀頼と政略結婚をしますが、大阪夏の陣で秀頼は母淀君と共に自害して果てます。
千姫は徳川家康の配慮により救出され、秀頼と側室の間に生まれた女子も千姫の嘆願により尼になることを条件に東慶寺に入りました。そして幕府の保護を受け、やがて20世天秀尼となり千姫からも力添えが続いたようです。
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【建長寺】
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<<建長寺山門>>
創建:1253年 開山 開山:蘭渓道隆(大覚禅師) 開基:北条時頼
鎌倉五山第一位の名刹建長寺は、蘭渓道隆を中国から招請して開山した臨済宗の大本山です。寺の歴史と格式の高さを伝え、国宝・重要文化財が多く、かっては塔頭49院を数えるほどの寺勢を誇っていました。
<<仏殿>>
徳川2代将軍秀忠の正室・お江(崇源院)の霊廟として死後2年後の1628年(寛永5)芝の増上寺に建立されたものを、1647年に移築したものです。(霊廟は20年毎に建て替えられる様になっていたようです)。
<<半僧坊への道>>
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【古我邸】
石の門柱越しの広い庭園奥の台地に 古く大きな洋館が建っています。
かっては三菱銀行の重役の別荘であり、昭和初期には歴代の総理大臣が別荘としていました。
現在は古我氏の所有。古我信生氏(2005年に死去)は、おもに海外で活躍したレーサーで、晩年は自動車を文化としてとらえた独自の評論家でした。
この敷地は、徳川忠長の家老・朝倉宜正(妻の朝倉の局は忠長の乳母)の菩提寺であった
興禅寺跡といわれています。
宣正は、18歳で2代将軍秀忠に仕え次第に出世して、忠長の家老になって一万石を領しました。
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【薬王寺】
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<<薬王寺鐘楼>>
<<忠長の供養塔>>
忠長は父・秀忠、母・お江の二男として生まれました。幼少より兄家光と比べ容姿、健康、才覚ともに優れ両親に可愛がられて次の将軍は忠長とみられていました。
これに不満の春日局(家光の乳母)は、家康に直訴します。家康も「乱世は器量のあるものが家を束ねることが必要だが、世が安定すれば秩序を保つべきである」としました。
忠長は将軍に次ぐ大々名として駿河・遠江・甲斐・信濃など五十五万石を領して、駿河城に居し、從二位権大納言に叙任され駿河大納言と呼ばれました。やがて忠長は狂気・乱行を理由に甲府へ蟄居を命ぜられ高崎に幽閉され1633年自刃させられたのです。28歳でした。
これは家光の能力ある忠長への恐れから出た行動と言われています。後に妻の松孝院が当寺に供養塔を建立しました。(墓所は高崎の大親寺)。
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【英勝寺】
創建:1636年(寛永13) 開山:玉峰清因 開基:英勝院尼
鎌倉唯一の尼寺で、境内は四季折々の花が絶えることがありません。開基の英勝院尼は太田道灌から数えて4代の孫康資の娘。家康に仕え水戸家初代徳川頼房の、養母を努め家康の死後出家し英勝院と号しました。
家康没後も、秀忠・家光のあつい待遇を受け水戸家の援助もうけて寺院を創建しました。仏殿の本尊阿弥陀三尊像は運慶作と言われ家光の寄進です。
今春再建された山門は関東大震災後、当寺を離れていましたが2001年解体した用材が戻り10年を費やして完工しました。
<<英勝寺 山門>>
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<<枝垂れ桜>>
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<<竹庭>>
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<<石庭の仏像>>
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【鶴岡八幡宮】
現在の社殿は徳川秀忠が命じ1624年(寛永元年)に造営されたものです。桃山風を伝える華麗な建物で、特に三殿(拝殿・幣殿・神殿)が連なり朱色の柱、軒下の金具装飾、向拝の極彩色彫刻があり本殿外壁には大松が描かれています。
【三の鳥居を潜り朱塗りの太鼓橋を左手にして一歩を踏み入れました。】
【倒れた銀杏のその後、どのようになっているでしょうか・・・】
【段蔓の大鳥居】
【石造の一の鳥居】
「お江」は鶴岡八幡宮の弁天様を深く信仰し、子宝祈願した結果竹千代(家光)が生まれますます信心を深め一生の守り神としました。ある夜夢のなかで弁天様に「木造の鳥居を石造りとしなさい」とお告げがあり、家光に頼み他界しました。その後家綱の時代に建立されました。関東大震災に倒壊しますが昭和12年に再建されました。