花水木の独り言

庭の大きなハナミズキの、白い蝶のような花びらや、真紅の葉に気持ちを託して・・徒然なるままにキーを打ちました。

ベートーヴェン 『第九』

2010-12-26 | Weblog

<<横浜みなとみらいホール>>
指揮   小林研一郎 
ソプラノ 安井陽子 
アルト  栗林朋子
テノール 錦織 健
バス   青戸 知
合唱   日本フィルハーモニー協会合唱団
  
『第九』のお誘いを頂いたとき、私は先の見通しが全く立たない時だったので
どちらかはお任せします。とおかしな返事をしたのですが「それでは行くことに」と決めてもらって、Xmas直前の12月22日桜木町は快晴に恵まれました。

   開演前の散策 
     
    <<スケートリンクに写った赤煉瓦倉庫>>

     
     <<停泊中の ASUKAⅡ >>

     
     <<Xmas イベント>>

                    
          <<暮れなずむ赤煉瓦倉庫>>

     
     <<レストランからの夕景>>

ここで 開演の時間が近づいたのでホールへ向かいました。近づくに連れてそれと判る華やぎの行列があり入場すると、ほぼ満員の会場を撮っておきました。
 
徳岡めぐみ氏のパイプオルガンで チャイコフスキー:『くるみ割り人形より 花のワルツ』&  バッハ:『主よ、人の望みの喜びよ』の独奏で始まりました。

ドイツ古典主義の詩人フリードリヒ・フオン・シラーの歌「歓喜に寄す」が書かれたのはフランス革命の起こる疾風怒濤の激動の時代でした。そのような時代を過ごしたベートーヴェンは”自由・ 平等・博愛”の理想に強く捉えられこの歌にもとずく作曲を抱き始めたのでした。

構想からは30年を費やして『合唱付き交響曲』という、今まで例を見ない斬新さで新たな時代が 現れたのでした。
日本では年末に多く演奏されてきましたが、やはり会場で聞いてこその大迫力は今も身体の中でなり響いています。








第四回 富士山麓ぐるり一周

2010-12-19 | 里山 森林行

 <<冨士の真南 忠ちゃん牧場から 標高800mからの眺望。>>

 予報通りの晴天に、一電車早く出かけてしまいました。
 前回終了の地点からのスタートになります。

     御胎内清宏園 

 
 <<清宏園は樹木が多く富士山は木の間越しでした>>

 
 <<洞窟の入口。内部はヘッドライトで進むも、写真は無理でした。>> 

 富士山の噴火によって生じた洞窟で、人体の内部に似ているということで
 「御胎内」と称され、一周155mあり天然記念物に指定されています。中腰で
 歩き中程に身体一つ通り抜けるだけの狭いとこらがあって、難儀なところでした。

 
 <<冨士噴火の際、溶岩流が倒れた木を転がし 包んだ木が焼けて筒状
   になったもの。外周3m、内周60ct、長さ3m 公園になっています。>>

   旧石田家住宅 

 
 <<土間座敷(庭座敷)>>

 石田家は印野の小木原の農家で江戸時代は鉄砲鍛冶をしていました。建造
 は不明ですが天保9年(1838)に改築したという記録が残っています。
 土間の南側は御殿場地方を代表する田の字型の間取りで骨組みは当時のま 
 ま。明治以降この地方の産業だった養蚕や竹行李造りのために、ニワザシキ
  等が改築されています。

    須山浅間神社 

 
 <<石段の最上部からの鳥居>>
 
景行天皇(110年)の皇子日本武尊が、東夷征伐の時にこの地を訪れ浅間神社を創起し、欽明天皇13年(552)に蘇我稲目宿禰が再興したとあります。
山岳信仰として「富士山」をご神体とし、仰ぎ奉り度重なる噴火に浅間大神を祭り岳神の霊を慰め奉ったのが始まりと思われます。
武門の崇敬も厚く、源頼朝を始め武田信虎、勝頼、今川家代々の戦勝祈願がなされていました。

    忠ちゃん牧場 
 
 標高800mの十里木高原に広がる牧場には、めん羊と乳牛が放牧されていて
 美味しい牛乳や、ソフトクリーム 乳製品をいただくことが出来ます。
 のどかな牧場風景の前方に全身を表した富士山を目にすることが出来ました。
 富士山百様と行きたいところですが、数枚を貼ってみましょう!

  
  
  
  <<赤富士は「冨士遊湯の里」から>>
    
      
      <<冨士の裾野もご覧頂きたく・・・>>
  
      尚 「遊湯の温泉」でホロホロ鳥が飼われていて撮ったもの。
      動きまわって焦点が定まりにくく、ニワトリ位の大きさです。
  
     

     

下関へ

2010-12-10 | 撮影を楽しむ

<<車窓から 快晴の富士山>>


  <<車窓から 広島の手前あたりで海老茶色をした輝く屋根瓦の家が一町村ぐらいの規  模であるのを、通るたびに見ていて美しいなぁと思っています。・・・>> 
   
   故郷へ 
 
昨年この時期に義兄が亡くなって、一周忌に再び下関に向かいました。
姉たちは従兄弟同志の結婚でしたので、法事の席も殆ど親戚同志で故人の話も尽きることが無く、ハンサムでお酒が好きでいつもニコニコと誰よりも一番最後まで飲んでいましたねぇ~等々と。 
夕方からの法要でしたので、それまでを兄と海岸縁を散策して船の往来や潮の流れの速さに目を止めたり、数々の歴史の舞台を目の当たりにすることが出来ました。
最近では「龍馬伝」の舞台であり、武蔵と小次郎の「巌流島」も見えています。さらに遡れば源平最後の対決「壇之浦の合戦」の大舞台が拡がっていました。

     

     <<灯台の後方に 巌流島>>


     <<海峡の街 漁業の街>>



<<海峡ゆめタワ~>>
古くは 赤間関、馬関と呼ばれ その後「下関」となりました。「関」と対岸の門司の「門」を合わせて名づけられた「関門海峡」。アジア大陸に近く太平洋に抜ける数少ない海路であり、本州と九州をつなぐ陸路結節点になります。

     赤間神宮 


下関の地に降り立った時から赤間神宮を再訪したい思いが湧いてきていました。ずっと以前
に訪れて赤と、赤と白のコントラストの美しい神宮を思い出していたのです。

『たけき者も遂には滅びぬ』源平合戦最後の対決『壇ノ浦』。 時は寿永4年(1185)3月24日 両軍約4000艇ともいわれた軍船は、関門海峡に集結したのです。
白幡靡かせるは源義經率いる源氏勢、対するは平の宗盛・知盛率いる船の舳先には、赤い旗が翻っていました。
天下分け目の大海戦は、矢合わせを合図に火蓋が切って落とされました。東に流れる潮に乗り、まず優勢に立ったのは平家の船団。しかし身方の寝返りと潮流の反転が重なり、
義経の奇策に混乱した平家軍は次第に追い詰められて、遂に二位の尼は安徳天皇を抱いて海峡に身を投じ平家一門は滅亡したのです。
「海の中にも都はある」と言う二位の尼の願いを写して竜宮造りの華やかな処に安徳天皇は祀られたのでした。

    
  <<内陣の一部>>
美しい赤間神宮はこんなだった!と 感慨を覚えその奥の石段上の本殿で思いを込めて拝礼することが出来ました。この日はお日柄も良かったのでしょう・・・ 何組かの結婚式があり幸せのおすそ分けを頂きました。

            
            <<紅葉の競演の見事さ>>

  
  <<十三重の塔も紅葉に映えて>>
  
            
            <<平家一門の墓>>
             高浜虚子の歌 『七盛の 墓包み降る 椎の露』

心ゆくまで赤間神宮を撮り尽くして、新幹線を乗り継ぎながら帰京の途につきました。  神戸、大阪と疾走する列車は早、夕暮れを迎えていました。そして京都につく頃は暗闇の中でした。           
             
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