【没後400年 特別展入場券】
【展覧会場の一廓】
「長谷川等伯展」に気付いたのが遅く出かけて80分待ちでしたが、しかしそれは来た甲斐があったと言うものでした。平成館の左右の広い会場を等伯唯一人、独り占めされていたのですから・・・
NHK「日曜美術館」では特筆すべき10点を解説されていましたし あの膨大さは尋常な数ではないでしょう。しかも31歳で一人上京(京都)し、狩野派全盛のなかで少しずつ しかし確実に力を発揮します。戦国の世であり、美の世界にも熾烈な鬩ぎ合いがありましたが、溢れる才能と非凡な才覚を見つめ続ける処となったのでした。
新潟で武士の子として生まれますが、長子でなかった為染色屋の養子となり、「能登の絵仏師・長谷川信春」と知られる存在になっておりました。
【日蓮聖人像 上京前】
真近での法衣は凹凸のある織物に見えます。
【上京 等伯像】
京都・本法寺の「日通上人」と信仰を通して上京を決意。
【山水図襖】
京都・圓徳院を訪れて住職に止められていたにも拘らず、桐絵の襖に絵を描きます。
帰宅した住職は余りの素晴らしさにこれを赦しました。降りしきる雪景色。
【大徳寺三門壁画 天井画:迦陵頻伽像(カリョウヒンカゾウ)】
応仁の乱で焼失したものを宗長が再建します。そのあと利休が2階部分を増築寄進します。「利休の木像」が置かれた事から、秀吉の逆鱗に触れ死に追いやられるのです。利休の黒い帽子と黒い衣の よく見られる肖像画は等伯の筆に依るものです。
【楓図壁貼付】
智積院は秀吉の子鶴松を弔うために建立された臨済宗のお寺ですが、この頃等伯は秀吉の後ろ盾を得ていました。弔いのため「色ずく前の緑と紅葉が混じる絵」を画いたのでした。
【仏涅槃図】
等伯は本法寺の大檀越(ダイダンオツ)となり、単なる絵師ではなく、町衆として京都に於ける有力者となっていました。
本法寺住職に「仏涅槃図」を寄進します。
縦:792.8cm 横:521.7cm (nhkの映像では十人がかりで運んでいました)
東福寺 明兆作&大徳寺 狩野松栄作&三大涅槃像といわれています。
この涅槃屏風は寄進の前に、京都御所に掲げられて話題になりました。
秀吉亡き後 このようなパフォーマンスをしておく才能の持ち主でもあったのです。
【等伯画説】
本法寺住職に依る 等伯との対話など97条の文章を記したものです。
足利義政の東山文化を理想とし、堺商人による茶の湯文化を通した中国絵画鑑賞の世界が語られています。
「墨の魔術師」の表現があります。
次第に終章に近ずくにつれて、墨絵の世界が展開されてゆきました。
可愛い猿の親子【枯木猿猴図】は一部分ですが墨絵の領域になるのでしょう。
【国宝 松林図屏風】
6曲1双を左右を拡大して見てみましょう。
【左】
【右】
「松林図の世界」
画かずに表す
深い霧の中で仄かに浮かび上がる松林
手前はハッキリ 奥に行くほど霧に遮られる
季節は晩秋か 初冬か それとも早春か
松林を包み込むこの濃密な霧を表現したかった・・・
でも 霧そのものは実際には描きこまれてはいない
「描かずにあらわす」と言う魔術のような技法が駆使された「松林図屏風」
単に等伯の代表作と言うのみならず
わが国水墨画の最高とまで評されるゆえんである。
・・・美術館に於ける解説・・・
映像はNHK日曜美術館より