花水木の独り言

庭の大きなハナミズキの、白い蝶のような花びらや、真紅の葉に気持ちを託して・・徒然なるままにキーを打ちました。

「デジカメ写真展」

2010-05-26 | 撮影を楽しむ
          【案内状】

          

2年前に入会して コンパクト写真と一眼レフ写真の違いに挫折しそうになりながら、「止める訳にはいかない」の想いから末席を汚しながらも参加して来たのでした。

年2回の写真展と、撮影会が隔月で行われ全員の投票で順位が決まりポイントもたまるのだとか、講評もいただけるので楽しみな会になっているのですが・・・わたしは俯き加減に参加している心境なのです。

【写真展】



上記のパネルは「梅花と櫻花」が纏められています。
他に自由作品がパネルの表裏に貼られたものが多くありましたが、只旦に私の好みで数枚貼らせていただきました。

【子供の情景&動物と】

《水しぶき》

     《ささやき》
     
          《通い合う心》
          
               《大草原の雄姿》
               

【縦 撮影】

         《競演》
          
                  《工場萠え》
                   
 
《夢見るチューリップ》                              

【さくら さくら】
     
     《奥多摩の美》
     
           《春影》
           
                    《春爛漫》
                    

天井の明かりと小さなコンパクトカメラでの撮影には無理を承知の貼付ですが、どうかお許し頂きますようにお願いいたします。             

                    

『文覚上人』 ゆかりの地を歩く

2010-05-20 | 鎌倉の四季
     

               【 文覚上人 】

                    

文覚(もんがく)は摂津源氏傘下の渡辺党・遠藤氏の出身で、北面の武士として鳥羽天皇の皇女統子内親王に仕えていましたが、行動力はあるが学識はなく・・・とあり乱暴者の烙印を押されていましたが、誤って袈裟御前を殺めてしまったのです。
この事件を取上げた記述が多く残されたのでした。

『平家物語では 「文覚荒行」、「勧進帳」、「文覚被流」、「福原院宣』。 『源平盛衰記では 従兄弟で同僚の渡辺渡の妻袈裟御前に横恋慕し、誤って殺してしまいます』。    『長唄 鳥羽の恋塚』。 『上方落語 袈裟御前』。 『芥川龍之介の小説 袈裟と盛遠』。 『菊池寛 袈裟の良人』。 『手塚治虫 火の鳥乱世編』。

京都高尾神護寺に出家・修行に入ります。その神護寺の再興を後白河法皇に教訴したため、渡辺党の棟梁・源頼政の知行国であった伊豆国に配流されます。そこで同じく伊豆国蛭ヶ島に配流の身だった源頼朝と知遇を得るのです。
後に頼朝が平氏や奥州藤原氏を討滅し、権力を掌握してゆく過程で、頼朝や後白河法皇の庇護を受けて、所領を回復し建物を修復しました。

                【映画 「地獄門」】
                    
                     

菊池寛原作「袈裟の良人」より。
文覚がまだ遠藤盛遠と言う北面の武士だった頃、人妻の袈裟御前に恋をします。想いを遂げようと迫る盛遠に対し袈裟御前は夫を殺害してくれたら妻になると告げ、夜自身男装して夫を殺しに来る盛遠を待ちます・・・
 
 監督:衣笠貞之助。  配役:遠藤盛遠 長谷川一夫。  袈裟御前 京マチ子。

昭和28年 大映イーストマンカラーによる色彩映画第一作 
昭和29年 カンヌ国際映画祭 グランプリ受賞
昭和30年 アカデミー 外国映画賞、色彩賞受賞

先ずこの映画を拝見して「文覚上人」ゆかりの地を歩きました。

【淨光明寺】

          

《宗派》真言宗涌寺派 《創建》建長3年(1251)
《開山》眞聖国師真阿 《開基》北条長時 《本尊》阿弥陀三尊

頼朝の願いで文覚上人がここに草庵を営んだとありますが、ハッキリとしたことは解からない。
不動堂に安置されている不動尊像は、頼朝に旗揚げする事を教唆した文覚上人が京都の八坂の塔から神護寺に移っていた不動明王像の胎内に、以仁王による平家打倒の令旨を忍ばせて伊豆まで運ばせて頼朝に示し、その後ここの不動堂に安置されたと言われています。座高94.9cm 寄木造り、玉眼、彩色、巻髪の上下に牙、右手に宝剣左手に羂索を持つ。

【文覚上人屋敷跡】

          

頼朝が鎌倉に入り根拠を定めてから、文覚も滑川のほとり・・古くは座禅川と呼ばれ、文覚が川に臨んで座禅を組んだ事に由来すると言われています。

【勝長寿院跡】

          

頼朝が、父義朝の菩提を弔うために建立した寺で、その壮大な規模から大御堂とも言われています。鶴岡八幡宮、永福寺と共に頼朝が鎌倉に創建した三大寺院の一つです。
源氏の菩提寺の性格が強く、幕府 鎌倉御所の外護に依って栄えますが、鎌倉公方5代足利成氏の亡命と共に衰えました。

文治元年(1185)義朝と蒲田正清の首が鎌倉に運ばれ、当院に埋葬されます。
『吾妻鏡』では後白河院が、京の東の獄門に置かれていた二人の首を取り出させ、文覚の弟子が遺骨を首に掛けて東海道を運んだとあります。
しかし『玉葉』『山槐記』によれば、頼朝は文覚の手を経て後白河院から貰いうけたとあります。

【補陀洛寺】

          

当寺にはかって前欠・後欠の勧進帳があって、開基は源頼朝 開山は文覚上人と読めたと言います。補陀洛とは「南海の果ての浄土(ポータラカ)の意。南向山の山号も寺名に重ねて、寺は浄土を見つめるように南に広がる相模湾に面しています。 
本尊は十一面観音で、頼朝の木造と位牌、文覚上人の位牌など多くの像が祀られています。

壇ノ浦の合戦で平家の赤旗は擦り切れ、茶色に変色していましたがガラスに治められていて、合戦の模様がTVの映像などを思い出して生々しく頭を掠めたのでした。

頼朝を説得して幕府創建にかかわった文覚上人を考える上で最も重要な寺といえるでしょう。広大な寺域を持ち、伽藍の整った寺であったと言われています。
庭には円形に広がった百日紅の大木があり花の頃に再訪したいものです。

   「文覚上人」「地獄門」の絵はweb site より 

  


『アトリエ・ポルト』 展

2010-05-10 | 美術館
    

今年も待ち望んでいた恒例の絵画展のご案内を頂き、山の仲間数名で行くことにしたのです。
人物画が実にお上手だと思っているのですが、「光源氏」を水の滴る美男に仕上げられたので、拡大して額に入れようかと思っているところです。

「アトリエ・ポルト」は熟年の男女が週一回、絵を描く絵画塾で今回も会員方の素晴らしい絵画を拝見する事が出来ました。
聞けば30号(これは彼女の場合)の絵を2面 いつも3ヶ月位で仕上げられているようです。

【源氏物語 「春雷」】

          

【源氏物語 「おぼろ月夜に」】



【画廊での展示 】

  

鑑賞後は関内をぶらりしながら早目の夕食を、中華料理と紹興酒で長くなり遠くからの方は遅くなられた事だったでしょう。