【長寿寺 もみじ越しのギボウシ】
「太平記」は中世の軍記物語 14世紀後半に小島法師が物語僧の語り物として纏めたと言う説が有力です。
文保二年の後醍醐天皇の即位、鎌倉幕府に対する挙兵、建武の新政と破綻、足利・新田の対立、足利政権内部の紛争と南北朝の争いが記され、この50年間の騒乱の中、楠木正成 足利尊氏 大塔宮護良親王 新田義貞ほか多彩な人物を活写し、後世の演劇・文芸に大きな影響を与えました。
【足利尊氏 嘉元三年(1305)~延文三年(1358)】
父は足利貞氏 本姓は源氏。義国を祖とする足利氏の嫡流。鎌倉幕府滅亡の勲功第一人者として、後醍醐天皇の偏諱を受け尊氏を名乗りますが、建武の新政が失速する中 光明天皇(北朝)を擁して京都に武家政権の室町幕府を開きます。そして鎌倉御所を開き次子基氏を関東管領としました。
【長寿寺】
足利基氏が父尊氏の菩提を弔う為に邸内に長寿寺を創建します。当時の規模は七堂伽藍を備えた、関東諸山第一の寺と古文書に記されています。
尊氏の法名は京都では等持院殿といい、関東では長寿院殿と称されています。観音堂の裏山にある尊氏の墓には「遺髪」が埋葬されていると言われ、手入れの行き届いた庭園が見事です。
《足利尊氏の五輪塔》
《観音堂 奈良忍辱山円成寺より移築》
【葛原岡神社】
葛原ヶ岡の地名はこの地を支配した梶原景時の祖から来ていますが、後醍醐天皇の腹心であった日野俊基が二度の倒幕計画で、捕らえられこの岡で斬首されました。
この元弘の乱の悲劇を偲び明治20年に神社が建立されて、毎年例祭が行われています。元弘三年の鎌倉攻めでは、新田義貞方50万余騎の大軍が仮粧坂を駆け上がるも、3万余騎の幕府軍はよく戦い3日間持ち堪えて守り抜いた激戦地でした。
《無患子(ムクロジ)が空を覆う》
【東勝寺跡・腹切やぐら】
北条一族の菩提寺であり鎌倉幕府滅亡の地です。元弘三年(1333)5月22日、後醍醐天皇に呼応して鎌倉に攻め入った新田義貞の軍勢に、北条一門は成す術もなく自ら火を放って870余人が壮絶に自刃したのでした。
今は滑川に架かる東勝寺橋を渡ると、金網に囲まれた広い草地が広がり最奥に「腹切りやぐら」と呼ばれるやぐらがあり、広大な一帯であったことが偲ばれます。
【大塔宮護良親王 (1308~1335)】
後醍醐天皇の皇子。建武元年(1334)皇位簒奪を企てたとして捕らえられ、後醍醐天皇の命を受けて足利方に預けられ鎌倉へ送られます。鎌倉将軍府の尊氏の弟 足利直義の監視下に置かれ 東光寺の土牢に幽閉された護良親王を、北条に奉じられる事を警戒した直義は渕辺義博に命じて殺害するのです。27歳の生涯でしたが首を掻かれるとき、刀の先を咥えて折り取る抵抗を示した壮絶な最後を「太平記」は記しています。
《出陣する護良親王 馬上姿》
【鎌倉宮 (別名 大塔宮)】
武家から天皇中心の社会へ復帰させることを目的とした建武中興に尽力した親王の功を讃え、明治二年(1869)2月 明治天皇は護良親王を祀る神社の造営を命じられます。7月に東光寺のあった現在地に社殿は造営されました。本殿の背後には親王が幽閉されたと言われる土牢が残っています。
2点の絵は web site より拝借
「太平記」は中世の軍記物語 14世紀後半に小島法師が物語僧の語り物として纏めたと言う説が有力です。
文保二年の後醍醐天皇の即位、鎌倉幕府に対する挙兵、建武の新政と破綻、足利・新田の対立、足利政権内部の紛争と南北朝の争いが記され、この50年間の騒乱の中、楠木正成 足利尊氏 大塔宮護良親王 新田義貞ほか多彩な人物を活写し、後世の演劇・文芸に大きな影響を与えました。
【足利尊氏 嘉元三年(1305)~延文三年(1358)】
父は足利貞氏 本姓は源氏。義国を祖とする足利氏の嫡流。鎌倉幕府滅亡の勲功第一人者として、後醍醐天皇の偏諱を受け尊氏を名乗りますが、建武の新政が失速する中 光明天皇(北朝)を擁して京都に武家政権の室町幕府を開きます。そして鎌倉御所を開き次子基氏を関東管領としました。
【長寿寺】
足利基氏が父尊氏の菩提を弔う為に邸内に長寿寺を創建します。当時の規模は七堂伽藍を備えた、関東諸山第一の寺と古文書に記されています。
尊氏の法名は京都では等持院殿といい、関東では長寿院殿と称されています。観音堂の裏山にある尊氏の墓には「遺髪」が埋葬されていると言われ、手入れの行き届いた庭園が見事です。
《足利尊氏の五輪塔》
《観音堂 奈良忍辱山円成寺より移築》
【葛原岡神社】
葛原ヶ岡の地名はこの地を支配した梶原景時の祖から来ていますが、後醍醐天皇の腹心であった日野俊基が二度の倒幕計画で、捕らえられこの岡で斬首されました。
この元弘の乱の悲劇を偲び明治20年に神社が建立されて、毎年例祭が行われています。元弘三年の鎌倉攻めでは、新田義貞方50万余騎の大軍が仮粧坂を駆け上がるも、3万余騎の幕府軍はよく戦い3日間持ち堪えて守り抜いた激戦地でした。
《無患子(ムクロジ)が空を覆う》
【東勝寺跡・腹切やぐら】
北条一族の菩提寺であり鎌倉幕府滅亡の地です。元弘三年(1333)5月22日、後醍醐天皇に呼応して鎌倉に攻め入った新田義貞の軍勢に、北条一門は成す術もなく自ら火を放って870余人が壮絶に自刃したのでした。
今は滑川に架かる東勝寺橋を渡ると、金網に囲まれた広い草地が広がり最奥に「腹切りやぐら」と呼ばれるやぐらがあり、広大な一帯であったことが偲ばれます。
【大塔宮護良親王 (1308~1335)】
後醍醐天皇の皇子。建武元年(1334)皇位簒奪を企てたとして捕らえられ、後醍醐天皇の命を受けて足利方に預けられ鎌倉へ送られます。鎌倉将軍府の尊氏の弟 足利直義の監視下に置かれ 東光寺の土牢に幽閉された護良親王を、北条に奉じられる事を警戒した直義は渕辺義博に命じて殺害するのです。27歳の生涯でしたが首を掻かれるとき、刀の先を咥えて折り取る抵抗を示した壮絶な最後を「太平記」は記しています。
《出陣する護良親王 馬上姿》
【鎌倉宮 (別名 大塔宮)】
武家から天皇中心の社会へ復帰させることを目的とした建武中興に尽力した親王の功を讃え、明治二年(1869)2月 明治天皇は護良親王を祀る神社の造営を命じられます。7月に東光寺のあった現在地に社殿は造営されました。本殿の背後には親王が幽閉されたと言われる土牢が残っています。
2点の絵は web site より拝借
訂正出来てホット致しました。今後ともよろしくお願いいたします。
過去ログに情報を頂き有難うございます。
遡っての訂正の方法が解からなくて難儀しています。研究をしてみます。
長寿寺から頂いた縁起には「忍辱山園城寺」とありましたが間違いです。今回の刷りから「忍辱山円成寺」に訂正されるそうです。