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最近の旧統一教会の話

2022年07月23日 09時21分05秒 | 日記

ほんのちょっとの違いは、笑って?黙認?

 

所謂「保守」の論客として私の中で頭角を現す(気になる)人の著作をまとめて

図書館で借りだし読んでいる。但し、次の1冊に移るまでにはタイムラグある。

これは、図書館なので順番待ちが生じるため。

 

さて、この書籍類は私のような市井の人の素朴な「なぜ?」「なに?」に答えるタイトルが付けられていて、素朴に読んでみようと手に取る事が多い。

 

タイトルに惹かれて読み始める訳だが、誰の著作でも疑問に答える場合、まず、その過去あるいは大本を知ってからと、例えば、考えられた当時の社会情勢や言い始めた人物の沿革などから始まる。

ここでは、ある時代、ある人物の著作者の評価が述べられる訳だが、ここで著作者と私の今までの考え方との間に微妙な違い、一方的な見方、あるいは、無理やりの評価があったりする。

疑問を解きたい訳だから、とりあえずは、読み進めておこう。先に早く(疑問を解決したいから)行ってから、微妙な違いが回収されるだろう。と、違いに(当座)目をつむる事がある。

しかし、疑問を解決する前提として、展開される当時の社会情勢、人物の評価が最後の結論、つまり、疑問を解決になるのだから、微妙な違いを黙認する事自体が黙認してはならないと気付きます!

チョットの違いの積み重ねが、全く違う結論に辿り着く事が多い。曲がり角を曲がり間違えていると違う場所に辿り着く。

迷子になる典型!

実際のリアルな地図の場合は、辿り着く場所が違うと「違う」と分かるが、疑問を解決しようと思う場合は、辿り着く場所が「違う」とは気づけない。知らなかった事だから信じる事になる。

 

旧統一教会の記者会見を評価する弁護士の言を聞いて、やけに小さい事もこだわるのだなと当初は感じていた。

しかし、この微妙な違いを問題にしなければ、ありていに言えば、結論でだまされる事になる。

 

それに、弁護士が問題だと指摘した事の数々や、多く政治家との「微妙」な関係こそが、大問題なのだと、気づく。

 

理系の実験では実験データの一部を改ざんする事が「最初から」大問題。

それと同じに人文系も、「微妙な違い」に注意して進まなければいけないと感じている。

 

 

コメント
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