2018年10月
先日、お客さんと外で仕事の打ち合わせをしていたら
車の往来が激しい道路にて 対面を渡って来たお婆さんが
わずか3㎝の段差を
乗り越えられず 立往生していた・・・
私:「ちょ、ちょっと 失礼します」とお客さんに断って
お婆さんを手助けしたら 追いはぎだとでも思われたのだろうか
不安げな表情で私の顔を見たのだ(銀行方向から来たので
貯金を下ろした帰りだろう
銭を盗られると思ったんだろうなぁ~)
後ろから来た叔母さんが
「大変やから 手伝ってくれとるとよ。」と
ナイスフォロー。
歳を取ると 僅かな段差が苦痛になるのか・・・
3cmが障害物になるとは!
知ってはいたが 実際、そのような方を直接目にすると
強いショックを受けてしまった。
自分の親には、絶対に長生きしてほしいが
俺の最後はあっけなくコロリと往きたい
唸るほどの銭があって この先 絶対健康で、
何の悩みも苦しみもないのなら別だが、
まず そんな事はないだろう・・・
生きて行くっちゅう事(人生)は それだけで、
大変な事であり いくら辛いからと言って
途中下車は出来ないのだ。
何故、自殺がいけないかって?
そりゃあ~あの世との契約と言った方が判りやすいだろう。
自決や割腹っちゅうのは 主命や決まり事だったので
ありゃ~今でいう自殺とは世捨てという観点からみると
ちい~っと違うとおもう。
以前、障害を持たれた 詩人kさんとのやりとりの中で
痛感した事・・・
「この世は修業の場所」だという結論。
kさんは、ハンディを背負いながらも 周りの人に感謝し
人を励ますために詩を書いていた。
「また 障害をおった体でも良いから
来世も生まれてきたい」とも
言った。当に鉄人の言葉である・・・
この世は仮の世界で死んだ後の世界が本当の
世界のような気がした。
人其々、人生の課題ってぇ~物があって
他人と比べ 一喜一憂する。
だから、不幸を感じてしまうのだ。
何度も言うが 宗教如何に関わらず 「天の加護」は
万人にある。それを、自分らの物に無理やり定義付けた
ものが宗教なのだから、
可笑しな活動をしないと成仏できないとか、
銭を供養せにゃ~貧乏になるとか
お経を100万回唱えろとか 全然言う事を聞かない
インチキ議員に投票しろとか
批判(オカシイと思った事)は誹謗で罰が当たるぞとか・・・
そげな 都合の良い後付けの教義や逝かれ頭のインチキ
腐れ外道はほっといて
その教えの良い部分を生かして 他人を騙さず 泣かさず
裏切らず 殺さず 生きて行く事だけで立派な生き方なのだ。
本当の意味で「仏」という存在に近づきたかったら
困っている人達をわが身顧みず 無償で救えばよいのだよ
(例えば マザーテレサ)みたいにね・・・
嗚呼~最近、ボランティアの方も活躍されていたねぇ~
あの人も立派な存在だ。北九州の牧師さんも大したもんだ。
無私の人っちゅうのは貴重なんですな~
生きて行くって事はそれだけで尊く立派な事なのだ
自分が平凡だとか 銭が無いとか有名じゃないとか
出世出来ないとか そんな事にふりまわされず
真面目に生きて行く人生が「勝利の人生」なのぢゃ~
あの世迄、地位とか金が持って行けるのなら別だがね・・・
ps 加藤剛さんは「大岡越前」で有名な俳優さんだが
少し気分が悪い 休むと言って
そのまま亡くなられたらしい・・・
理想的な亡くなり方だなぁ~
追伸 世界平和じゃ~なんじゃかんじゃと
立派な事言うとる連中に限って
家庭不和が多いのは何故だろう・・・・
こりゃあ あれだね
自称・庶民の味方で やっておる事は強欲資本家の味方やし
恒久平和を言いつつ 極右の手先になっとる事を矛盾にも
思えん事そもそも「個人崇拝の無謬」に縛られている事
自体が術にかかっておるんだよ。
まるで 戦前回帰だな、こりゃ~ どれだけ先人達が
苦しんだと思っとるの・・・
貴賤上下は無いのだが 己がいい思いをしたいから
と言って 餓鬼の都合で 人を騙し利用する人間は
その行為が卑しいのだ・・・
騙されて手先になっとる 愚かな人も こりゃ又然り。
間違っとるね・・誰が見ても。
常に自分らの都合で動くインチキ野郎共が消えないと
皆が混乱するばかりさ・・・