テレビで江戸時代に数回にわたって江戸の町を火災がおこったが、すぐに復興し、その当時
では、世界でも数少ない100万人都市になっていたと報じていた。この復興には、徳川幕府
が、常に、火災を想定して、長屋をつくり、簡単に建てられる構造にしていたことと、復興
に必要なん木材を木場にと、米を数か月分備蓄しており、火災の後は、江戸の町に張り巡らせた
水路を使って運び、ただちに元の町もどしたとのこと。この多摩川も、このような折には、五日市
や青梅などの木材商人が秋川や多摩川を使って木材やまたコメも同様に運んだのではないかと
思う。このなごりが、この写真で多摩川からの水を田畑に取り入れた水門の近くに、さびしく
水神さまとして崇める碑が祭られていた。水鳥公園が戦後に設けられたことから、現在は
廃墟となっているが。