昭和21年の夏頃ではないか、帰国の話があがり、大連の裏側にあるコロトウと言う港から出航する帰国船で
満州の各地から集まった人を米軍が提供した貨物船で輸送された。この帰国には、約100万人ほどいた満州の日本人が
帰国するのであるが、これには、アメリカの協力があったからではないかと思う。歴史的にみてもこのような、
大勢の人が、一度に帰国したことは、めずらしい。新京の駅に集まった沢山の人の中に、私たち一家も
あった。わが一家は、子供が5人で、私が3番目で兄が上が10歳で一番下が1歳であり、上の3人は各自リック
を担ぎ、父は3段重ねのリックを担ぎ、母は一番下の子を抱きながら、4番目の手を引いていたとおもわれる。
ここで、待っていた輸送の汽車は、日本が運営していた満鉄を引き継いだ中国が提供した貨物車両を20数量つないた゛
もので、雨を避けるためビニールのテントが張られ提出たものであった。この列車は、数日かかってコロトウに到着する
のであるが、どうして、こんなに日数がかかったかと言うと、中国人が運転手や運営側が賄賂として、金銭を要求してきたからである。
すなわち、各車両に来て、数回にわたり、時計や指輪や金銭を要求したことである。着いたコロトウでは、ただちに、
乗船するのではなく、満州の各地から集められた人を一時、収容するキャンプ場に、1カ月程、乗船の順番を待つために、すごした。
子供たちのためか、日本の支援団体が、相撲大会などをおこなったりしてくれたことを思い出す。このあと、博多の港まで、
2日ほどかけて、輸送船に乗って日本海をわたったが、途中では、死亡した人を船から海に流すことが、数回あったが、
そのたびに、汽笛がなるのである。博多港に着いたときには、まず、頭が白い粉をかけられたが、これは、殺虫剤で
虱などを除去するものであったらしい。この後、白い握り飯がくばられたが、このおいしさが今もおもいだされる。
この後は、次回にする。