昭和21年秋頃より、父は単身、熊本へ仕事を見つけに、母は、屋台をだしての生活がはじまった。
父が熊本へ行ったのは、多分、最終の卒業が熊本高専(現在の熊本大学工学部)で、多くの先生や友人が
いたからだと思う。この熊本で、父はいろいろの仕事を見つけておこなったようである。私どもと暮らすのは
2年後であるが、それまでの生活では、苦労の連続であっただろう。
屋台での出来事は、4男の弟が3歳になっていたが、遊んでいる際中に、いなくなって騒いだことでしょうか、
見つかったのは、屋台で売っていた佐賀城のお堀にぶらさげていた鰻の籠の中だったことです。
また、この時期は、大火が多く、県庁や中学校が焼けた。昭和23年の4月になって、私は、小学校へ入学
した。戦後教育の時期であり、おぼえているのは、コップをぶら下げて学校にいったことです。これは、ユニセフ
からの、支援でダッシュ乳がくばられたからです。余りおいしいものではなかったが有り難い飲み物であった。
その後、秋ごろだと思うが、熊本へ一家で移るのである。熊本で、父が町の中心地に家を見つけたことと、
仕事が軌道にのったことがあったと、子供5人の教育のためだったと思う。この後は、熊本での生活か゛
はじまるのであるが、この辺で、戦後期の話は、終了します。この後は、兄弟5人とも、大学まで卒業し、
家庭を持ち、現在に至っているが、この終戦期の父母の苦労と比べれば、これに勝るものはない。
今年は、父が亡くなって33回忌になるが感謝を申し上げるつもりだ。