昭和21年秋頃であったか。帰国の貨物船が博多についたのは、午後の2時頃、入国手続き、検閲、清掃、
消毒などで、遅くなっが、夜の8時ころに、私の母の実家である佐賀駅に着いた。そこから人力車数台に
乗り暗闇を通って、市内の中心地にある実家まで向かった。実家は、佐賀市でも、古い写真館を
いとなんでおり、大きな屋敷で、母の父は、このころ、病気で寝込んでいたが、兄が、迎えてくれた。
屋敷の離れの空き屋の二階に、我が一家は住むことになった。しかし、持ち物はなにもないことから、
ひつような最低限度のものを準備してもらったのには助かった。その後は、しばらく、この兄宅にお世話になっていたが、
生計を立てなければならず、数週間後には、父は、仕事を求めて、熊本へ向かった。残された母は、しばらくして、
佐賀城のお堀の近くに、屋台の店を出し、駄菓子や鰻など、いろいろの物を売り始めた。家で作った、芋に色を
つけて丸めたお菓子を、夜遅くまでかけて作っていたのを思い出す。このころが、一番金銭面で苦労したのであろう
、着物を質屋にもっていくことがあったようだ。敷地ないに植えてある柿の木に柿がなった時には、争って取り、それを
たべるのが一番おいしいおやつであった。または、食べ物がそこをついてきた時には、父が佐賀市の近く(神崎町)の
姉の家へ行き、お米を貰いいったりしていた。このような生活がつづいたが、この後は、次回にします。