散歩のコースはどこですか

79歳の老人です。2年前まで現役で仕事をしていましたが、今は、趣味の
囲碁と読書と旅行などのほか朝の散歩が楽しみです。

囲碁の歴史

2018-08-13 08:51:37 | 日記

囲碁と将棋が話題になっているが、今日は、私が常日ごろにやっている囲碁について調査したので紹介します。

囲碁に最初に中国から伝えたのは、吉備真備といわれている。しかし、奈良時代には、盛んに打たれていたようで、正倉院には、

碁盤が収められています。平安時代には、貴族のたしなみとして好まれています。室町時代には、武家や庶民にも広まり、戦国

時代に入ると、戦のシミュレーションとして好まれ、武田信玄ゃ多くの戦国武将が碁を好んだ。この時代の第一人者が本因坊

算砂である。算砂は織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、の師であり、三人とも五子を置いて打っていた。これは、現在のアマチュア

4、5段ということになる。江戸時代には、息子この算砂と井上家、安井家、林家、の四家が囲碁の家元と呼ばれ、幕府から扶持

を受けることとなった。江戸城内では、将軍御前にて碁の試合がおこなわれていた。この名人になった地位は、家元とよばれた。

本因坊道策や本因坊算悦、本因坊算知は有名である。この間では、数回にわたったがっての死をかくごで争碁が行われた。

明治時代に入り、家元制度が崩壊し、本因坊秀和は生活にも苦んだ。1879年頃に、これを救ったのは、新聞であり、囲碁欄が登場

するようになるや、一般人に広まってきた。この当時囲碁界を統一したのが本因坊秀元で二十世紀本因坊と称した。

この状況の中、関東大震災が起きたがこの苦境を乗り越えるために、1923年に日本棋院が設立された。1936年には、

本因坊の座を争う本因坊戦を開催しはじめた。1933年には呉清源と木谷実が碁界の代表でブームを起こした。 

戦後1961年には、坂田栄男がそのあとに藤沢秀行がタイトルを引き継いだ。坂田時代にまったをかけたのは、現在も現役の

林海峰である。1965年には、木谷門下の大竹英雄、石田芳夫、などが活躍した。2000年に入ってから各種のタイトルを

制覇し、現在にいたっているのが井山裕太である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


趣味の囲碁

2018-08-12 09:02:12 | 日記

私が囲碁を知ったのは、小学生の5-6年生のころ、叔父から教えてもらった時からである。

その後、中学のころ、友達の家までいって、討ったことが数回あったが、その後は、大学の頃、

寮生活で、討った時は、4級ていどであった。その後、卒業して、入った会社のクラブで真剣に

なって練習し、日本棋院から、初段の免除をもらった。会社のクラブでは、その後数年で上達

し、4段になったが、今も4段がつづいている。歳をとっても、この段を維持するのは大変だ。

現在は、インターネットで囲碁を全国の人と、ランダムに討っているが、好きな時間に討っことが

一番よいことだ。点数制で、申告した点数、例えば1350点で申請とした場合、負けると1点下がり、

勝と1点上がると言う方法であり、私は現在、1412点です。やはり、このあたりで上下していますが、

負けると下がるので、なにくそと頑張るのです。これが、ボケ防止になるだけでなく、生きる励み

になるのです。定年後、やめてから囲碁を習う人が多いなか、私は幸いに、小さい頃から

知っていたので、この歳になっても、時間を持て余すこともなく過ごすことができています。

会社を辞めて、第二の人生についても、趣味のない人がなにをすればよいかわからず、奥さんから

嫌やか゛られている人が多いと聞きます。若い人には、現役の頃でも、仕事以外に趣味を作っておく

ことが必要です。これが人生を有意義にすることに繋がるのです。

 

 


東芝経営

2018-08-11 08:39:26 | 日記

東芝が一兆円の黒字・・・東芝メモリーの売却益だから、これからが大変だろうな。

東芝は私の家での最初の電化製品であった。洗濯機である。当時のものは、洗濯機の上部に、歯車が

ついたローラー式の絞りきが付いており、これで、手で絞っていた。その後、皇太子の結婚式を

いち早く見るために、東芝テレビを購入したが、近所から、大勢の人がみにきていたことを思い出す。

このように東芝には色々とお世話になったから頑張ってほしい。しかし、最近、主力の白もの家電や

液晶テレビが外国勢に押されて、不振になり、米国の原発に手をだしてしまい失敗し、とうとう、

半導体メモリーを売却してしまったが、その売却益でやっと黒字になったのだ。しかし、

今後、何に主力を置き、経営的に安定させていくか、はつきりしない。だが放射能の関係が騒がれるいる

原発関係もまだやっているのだ。今後は、世界の原発の数は、どんどん膨らんできている。

絶対に、廃炉にする時がくるので、これを狙って、技術を磨き、「停止維持管理、廃炉技術」

に特化した方が良いと思う。しかし、まだ、政府の意向もあるのだろうな。

小泉純一郎が「首相をやっているとき経産省にだまされていた」と言っている。

今もそうなんだろうな。


豪雨情報

2018-08-10 09:17:37 | 日記

今日は良い天気だ。昨日は肩透かしと言うと申し訳ないが、

テレビでは大雨だ、大風だと放送している。しかし、東京では

台風情報がやたらと報じられているが、それなのに風も雨も無い。

ネットで「東京アメッシュ」で確認しても雨も降っていない。

何を基準に「警報」出しているのかな。これでは「オオカミ少年」

西日本の被災者の中に避難しようと思った時には遅すぎたと言う人が

多かったそうだが、ある時のように、夜中に、想定外のゲリラ豪雨が

あったら、「福生市は一時間後に大雨になります」ぐらいの精度の

高い信じるに足る情報が出せるだろうか。私の家は、多摩川の近く

なので、心配だ。


散歩のコースはどこですか

2018-08-07 09:02:26 | 日記

午後から、久しぶりに散歩にでかけた。遠くで雷が鳴り始めていたが、雨が、いくぶんか

暑さを和らげることを期待しながら、遊歩道のコースを歩いた。いつもあるいているのだが、きずかなかった場所

があったので写真をとったが、小さな滝が暑さをやわらげてくれる。この場所は、ほたるが喜ぶだけでなく

人も安らぎを感じる場所だが、福生市が指定する、がけ崩れの危険個所になっている。しかし

ゲリラ豪雨がない限り大丈夫だろう。いつまでも、このままの自然でいてほしいものである。

今朝の新聞で、八王子と相模原でゲリラ豪雨が襲ったとの報道があったが、あの時の遠くでの雷音は

前触れであったのか。


西郷どんを見て

2018-08-06 09:30:32 | 日記

今、話題の西郷のテレビ(西郷どん)を見ているが、このテレビでは、

歴史的な背景が薄れていて、若い人には、その時代の背景が理解できないと思う。

これは、私が最近、司馬遼太郎の幕末のいろいろな本を読んでいるからかもしれないが、

テレビのそれは、女性も含めての人との繋がりと生活が物語の中心で作られており、徳川幕府

の置かれた時代的背景と諸藩との関係や尊王攘夷などを理解できないのではと思う。やはり、

本を読まなければ、その時代のことは、詳細にはわからないと思う。しかし、司馬遼太郎が小説を

書くにあたっての、調査は素晴らしい。やはり、なにごとも、十分な、準備、調査があってこそ、

成し遂げられると思う。

 

 


戦後期の私その5

2018-08-05 09:00:45 | 日記

昭和21年秋頃より、父は単身、熊本へ仕事を見つけに、母は、屋台をだしての生活がはじまった。

父が熊本へ行ったのは、多分、最終の卒業が熊本高専(現在の熊本大学工学部)で、多くの先生や友人が

いたからだと思う。この熊本で、父はいろいろの仕事を見つけておこなったようである。私どもと暮らすのは

2年後であるが、それまでの生活では、苦労の連続であっただろう。

屋台での出来事は、4男の弟が3歳になっていたが、遊んでいる際中に、いなくなって騒いだことでしょうか、

見つかったのは、屋台で売っていた佐賀城のお堀にぶらさげていた鰻の籠の中だったことです。

また、この時期は、大火が多く、県庁や中学校が焼けた。昭和23年の4月になって、私は、小学校へ入学

した。戦後教育の時期であり、おぼえているのは、コップをぶら下げて学校にいったことです。これは、ユニセフ

からの、支援でダッシュ乳がくばられたからです。余りおいしいものではなかったが有り難い飲み物であった。

その後、秋ごろだと思うが、熊本へ一家で移るのである。熊本で、父が町の中心地に家を見つけたことと、

仕事が軌道にのったことがあったと、子供5人の教育のためだったと思う。この後は、熊本での生活か゛

はじまるのであるが、この辺で、戦後期の話は、終了します。この後は、兄弟5人とも、大学まで卒業し、

家庭を持ち、現在に至っているが、この終戦期の父母の苦労と比べれば、これに勝るものはない。

今年は、父が亡くなって33回忌になるが感謝を申し上げるつもりだ。


戦後期の私その4

2018-08-04 08:54:59 | 日記

昭和21年秋頃であったか。帰国の貨物船が博多についたのは、午後の2時頃、入国手続き、検閲、清掃、

消毒などで、遅くなっが、夜の8時ころに、私の母の実家である佐賀駅に着いた。そこから人力車数台に

乗り暗闇を通って、市内の中心地にある実家まで向かった。実家は、佐賀市でも、古い写真館を

いとなんでおり、大きな屋敷で、母の父は、このころ、病気で寝込んでいたが、兄が、迎えてくれた。

屋敷の離れの空き屋の二階に、我が一家は住むことになった。しかし、持ち物はなにもないことから、

ひつような最低限度のものを準備してもらったのには助かった。その後は、しばらく、この兄宅にお世話になっていたが、

生計を立てなければならず、数週間後には、父は、仕事を求めて、熊本へ向かった。残された母は、しばらくして、

佐賀城のお堀の近くに、屋台の店を出し、駄菓子や鰻など、いろいろの物を売り始めた。家で作った、芋に色を

つけて丸めたお菓子を、夜遅くまでかけて作っていたのを思い出す。このころが、一番金銭面で苦労したのであろう

、着物を質屋にもっていくことがあったようだ。敷地ないに植えてある柿の木に柿がなった時には、争って取り、それを

たべるのが一番おいしいおやつであった。または、食べ物がそこをついてきた時には、父が佐賀市の近く(神崎町)の

姉の家へ行き、お米を貰いいったりしていた。このような生活がつづいたが、この後は、次回にします。


戦後期の私その3

2018-08-03 08:51:34 | 日記

昭和21年の夏頃ではないか、帰国の話があがり、大連の裏側にあるコロトウと言う港から出航する帰国船で

満州の各地から集まった人を米軍が提供した貨物船で輸送された。この帰国には、約100万人ほどいた満州の日本人が

帰国するのであるが、これには、アメリカの協力があったからではないかと思う。歴史的にみてもこのような、

大勢の人が、一度に帰国したことは、めずらしい。新京の駅に集まった沢山の人の中に、私たち一家も

あった。わが一家は、子供が5人で、私が3番目で兄が上が10歳で一番下が1歳であり、上の3人は各自リック

を担ぎ、父は3段重ねのリックを担ぎ、母は一番下の子を抱きながら、4番目の手を引いていたとおもわれる。

ここで、待っていた輸送の汽車は、日本が運営していた満鉄を引き継いだ中国が提供した貨物車両を20数量つないた゛

もので、雨を避けるためビニールのテントが張られ提出たものであった。この列車は、数日かかってコロトウに到着する

のであるが、どうして、こんなに日数がかかったかと言うと、中国人が運転手や運営側が賄賂として、金銭を要求してきたからである。

すなわち、各車両に来て、数回にわたり、時計や指輪や金銭を要求したことである。着いたコロトウでは、ただちに、

乗船するのではなく、満州の各地から集められた人を一時、収容するキャンプ場に、1カ月程、乗船の順番を待つために、すごした。

子供たちのためか、日本の支援団体が、相撲大会などをおこなったりしてくれたことを思い出す。このあと、博多の港まで、

2日ほどかけて、輸送船に乗って日本海をわたったが、途中では、死亡した人を船から海に流すことが、数回あったが、

そのたびに、汽笛がなるのである。博多港に着いたときには、まず、頭が白い粉をかけられたが、これは、殺虫剤で

虱などを除去するものであったらしい。この後、白い握り飯がくばられたが、このおいしさが今もおもいだされる。

この後は、次回にする。


戦後期の私その2

2018-08-02 08:55:44 | 日記

昭和20年10月ごろには、ソ連軍は撤退し、そのあとには、蒋介石の軍が新京には、入ってきた。私の家の前の道路には、

塹壕がつくられ、その前のレンガ造りの長いビルには、兵隊の姿が見られた。しばらくして、夕方に、遠くの方に、

ラッカサンの降下するのがみえたが、その夜に、激しい戦闘があった。これは、中国の内戦で、八路軍(共産党)が

押し寄せて来たのである。社宅群を真ん中にして、ビル側の蒋介石軍と背後に迫った八路軍との射撃戦が、数日続いた

ようだが、その後、いつのまにか、静かになった。蒋介石軍が一夜のうちに、いなくなったのだ。残ったのは、社宅

に残された、銃弾の跡であった。その後は、中国の共産党の政府が、多分、この満州を統治するように、行動を開始

したと思う。このため、日本人は、中国の支配にはいり、会社も今まで雇っていた中国人(志那人)を担ぐ必要が

あったのではないか。このため、金銭的にも、困窮し、父からの進めで、母が道路でポップコーンみたいなものを販売しはじめた。

このような、生活が、翌年の春まで続いたようだが、その後、帰国の話がもちあがり、一家全員が帰国することになるが、

この話は、次回とします。