Wake Up !

一人のヒーラーさんとの出会いから、私の世界が変わっていきました。

地震の備え?

2011-04-18 22:14:36 | 日々のつぶやき

この前書いてから、2ヶ月以上経った。その間 東北関東の大地震が起きて未だに収拾のつかない福島原発事故と落ち着かず、重い気持ちの日々を送っている。

その3月11日私は浅間山に登る為、空港に向かっていた。地震が起きた時間、仕事中なので全くみんな知らなかったが、近所の接骨院から帰ってきたチエさんが大変大きな地震が東北に起きたと言い、準備をしながらを掛けると画面から黒い大きな波が押し寄せてや家屋をすごい飲み込んで来る今まで目にしたことも無い恐ろしい悲惨な映像が飛び込んできた。ただ事ではないのでノワタリさんや、横浜の叔母宅にを掛けるが全く繋がらない。これまで何か事が起きても行かねばならないのであれば通してもらうと思っていたのでとりあえず、家を出た。

バスは定刻を5分ほど過ぎてやって来た。この近辺まで津波警報が出たため、海岸沿いの道は通行規制が出たのめ道路が込んだと運転手さんは言った。しかし、どの営業所に行っても乗客は無く、私一人であった。運転手さんが気を使って、anaの便が運行しているかどうか問い合わせると、夕方以降の便はすべて欠航になっている事を知らせてくれた。家からも数回に連絡が来たが、声が聞こえない。

6時半頃着いたが、空港はいつもより暗く感じ、大阪行きの団体客を除くとanaには客はいなかった。羽田空港は閉鎖中との事でJALは6時過ぎの便が手続きを中断して見合わせていた。JALにしようかと迷っていると、ノワタリさんから危ないから、上京しないようにとの連絡が入り、1時間後のバスで帰宅した。

帰路はどっと疲れて、バスを降りた途端ものすごい空腹感に襲われた。近くのコンビニでサンドイッチを買い帰宅すると、両親も津波の怖さに食事を作る気も食べる気も起こらなかったので何もなく、呆然としていた。その夜は疲れているのに眠れず、で悪夢のようなその日起きたことがずっと流されていた。

「今年の旅はありませんか?」と年初めにノワタリさんにお尋ねした時、「そんなに強くないんだけど鳴門の渦が見えるの」と言われた。その後新燃岳が噴火して、ノワタリさんは「鳴門の渦に御神鏡を入れないといけないわ。」と言われたが、その役目は四国に住んでいる私でなく、横浜に住んでいる従兄弟のマーちゃんだった。

2月の下旬、マーちゃんが鳴門の写真をノワタリさんの家に持っていくと、「渦の写真に富士山が写っているので、至急浅間山に行かねばならない。」と連絡が来たが、冬山登山の経験は無い。しかし、すぐに行かねばならず、その晩、浅間山の神社を探した。

浅間山のご祭神様は富士山のご祭神である木花咲耶姫様のお姉さんの磐長姫様だった。どうりで富士山が出ているのに浅間山に登ると言う意味が分かった。3月12日の土曜の朝、天狗温泉浅間山荘の所から、火山館の近くの祠にお参りする予定を立てた。

何度か天狗温泉に問い合わせ、ストックとアイゼンをネットで買い、他の登山用具もノワタリさん宅へ送り、準備完了。羽田を5時出発するので空港にホテルも取って貰ったが、それは流れた。12日の早朝長野の栄村で震度6の地震も起き、出発していると大変だったかもしれない。

その後月末に富士山に行くように話しが進んだが、また富士山の近くで地震が起きてそれも駄目になった。

「もう、手出しをしてはいけないのかも」と、ノワタリさんは言われた。それまで旅はいつも多少の困難があろうとも行く事が出来ていたが。

昨年、羽田で見た光景があの時話したように私には最後なのかもしれないと思った。

幸いにも水戸や仙台にいる親戚は無事であった。友人や親戚に水や食品や懐中電灯や電池を送ったが、水戸にいる従兄弟は水を送ろうかと連絡を取ると、「水道水で大丈夫よ」と元気に言ったが、東京にいる従兄弟は神経質になっており、妹も水を送った。母はすぐ市役所に募金と、マスクを3000枚持って行った。

その後、嫌がる母を説き伏せ、地震があれば家族3人押しつぶされそうだった茶の間の大きな食器棚を処分し、使わない食器も捨てたり、仕舞ったり、家の中を片付けた。始めはブツブツ行っていた母も食器棚の跡にソファーを置くと何も言わなくなった。私の部屋の食器棚もお彼岸にやって来た妹に手伝ってもらい食器棚を上下別々にして置き換え、不要な物も整理した。

あれ以来、両親は枕元にヘルメットを置き、母はベッドの横にリュックを2つ置いている。私も一応防災グッズをリュックにつめ置いている。

しかし海にも近く 近くの山は数年前市から交付されたハザードマップによると、土砂崩れ警戒地域でおまけに原発の10キロ内に住んでいるわたし達は逃げようが無い。まして80後半の両親を連れて…

先日、母を連れて近くのに行ったが、その近くにずっと閉鎖したままの簡保の宿がある。日本中にそういう施設は沢山あるのではと思うが、今回有効利用できないものだろうかと思った。

そしてあの日から当たり前のことが当たり前でなく、朝を迎えるたび感謝するしかなくなった。