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Wake Up !

一人のヒーラーさんとの出会いから、私の世界が変わっていきました。

生気の無い彼女

2012-09-14 23:21:44 | 日々のつぶやき

今日 学生時代の先輩と15年ぶりにお会いした。

最後にお会いした時、一緒に飲んでカラオケへ行き、帰りのタクシーでも歌いハイになりすぎている彼女を「私はそんなの嫌いだ。」と、失礼な事を言ってしまった。昔とても溌剌とされていたのが、とても重いものを抱えているのだろうが、その姿に目を覆いたくなり暴言を吐いてしまった。

私と違い、御兄弟は近くにいらっしゃってもご両親は既に亡くなれてしまい、心のよりどころも無いみたいだ。

男の兄弟といっても、お嫁さんはやはり他人…、

以前お会いした時も昔と比べて痩せられていたが、それにもしても随分細くなって顔色が良くない。透いているような感じがした。

昔55キロ有ったのが、今は42キロに為ったといわれた。体重も身長もそう私と変わらないのに、化粧っけが全く無いのでそう見えるのかもしれないと思ったが、生気が無い!

先日亡くなった叔父も1度目に退院した時、10キロ痩せて生気を感じられず多分この人は余り永くないのではと思ったが、その通りになってしまったが、半年ももたなかった。

仕事柄余り動くと言うことも無く、仕事場と自宅も車だった生活を10年続けた結果足が弱ったと言う事で、今はトイプードルを飼って一緒に散歩をされていると言われたが、不規則な生活と偏った食事と過度の飲酒と喫煙…こう書いて行くと体に良いものは何一つ無い。

私も家庭的ではなく無精者だ。

「埃では死なない。」と、嘯いて母に叱られるので大きな口は叩けないが、食事だけは食べたい気持ちの方が強いのでせっせと作る。毎晩大瓶のビールを2本も飲んでいたらそれだけで食事は入りそうに無い気がする。

学生の頃、彼女の下宿で夕飯を頂いた。ほとんど外食で済まされていたのが、その晩はご飯を作って下さった。が、電気釜のスイッチが切れると同時に蓋を開けろうとするので、

「え、火蒸ししないと。」と、言って止めた。炒めたウインナーには塩コショウを掛けてなく味が無く、二人で笑いながら食べた。

余談だが、うちの下宿で正月開けに一人が雑炊を作った。

雑炊は味噌味だったが、牛乳のように真っ白のスープ状でとても甘い。おだしがきいいてないのかと思ったら、作った子の部屋に味噌が切れていて、彼女の地元は赤味噌、隣の部屋の子に借りた味噌は白味噌。

味がしないと言って、入れ足、入れ足している内に味噌の性質が違う事に気づいたが、もう後の祭りである。仕方なく、みんなで鰹節を載せて食べた。

その数日後、甘酒を振舞った。みんな黙って啜っていたが、一口飲んで驚いた。塩味で飲めた代物ではない。

「あ~、塩と砂糖と間違えた。何で言わんの?」

「いあや~、さっきの味噌の事があるから、ネコちゃんの地方は甘酒が塩味なのかと思ってた~。」と言う。塩をたっぷり入れたので半端な塩辛さではなく、お鍋一杯作ったのを捨てた事があった。どっちにしても私たちは五十歩百歩で、情けない。

開口一番「あんたもとうとう結婚しなかったね。」と、言われてしまった。

「もし、したとしても今一人だから、多分おんなじよ。」と答えると、

「子供でもいたら、違うよ。いいお母さんになったんじゃない。」と言う。

そのことばで、10歳近く上の女友達のよく言っていた事を思い出した。

「結婚はせんてもええ、でも子供だけは作った方がええ。」と、子供のいない主婦である彼女は当時30余りであった私によく言った。

「でも、相手が無い。」

「そんなん、駅にでも立ったらすぐ来るわ。」と、むちゃくちゃな事言っていた。彼女の同級生や知り合いに婚外の子供が出来た人がいるが、二人とも出産までは親が怒り遠く離れた親族の元で隠れて出産したが、その後は親も本人も子供が生きがいになって充実された人生を歩まれている。

一人は本妻が亡くなられ籍に入り、その娘さんも結婚された。もう一人は子供と両親と暮らされ、ご両親を看取られ、子供さんももう独立された。

ふと、そんな事を思い出したが、もうどうにもならない事である。

始めに生気が感じられないと思ったのはハズレではなく、散歩の途中で心筋梗塞を起こされた事があり、手術をされたことを言われた。それでも生活を改める気はなさそうで、叔父の姿とダブル。

「また、飲みにつれっててあげるから、泊まりにおいで。」と言う。

「でも、後何年生きるのかしら、せいぜい20年?5年かも?」

そう20年経ったら、80歳…、卒業してからの40年近くがあっという間であった事を思う。

もうそんなに時間が無いのか?と改めて気づいた。この10年近く好きな事をしてきたから良いとせねばならない。

私達の同級生の事やクラブの先輩の事などを1時間余り話してお別れしたが、とても後気になった。

お元気で過ごされたらと思う。

私も両親を送ったら、途端気落ちして投げやりになってしまうかも…と思ったが、先日通夜の席で話した大阪の義理の叔父が、

「この家の女は強い。けど、明るい。」と、言われた。ノワタリさんに伝えると、

「褒め言葉だよ。あなたはそうはならないわ。」とも言われた。強くって暗かったら連れ合いは悲惨だ。

ただ、今年になって旧友達と会ったりしたが、その後友人達の体調も良くなく、見納めみたいな感じでお別れを言ってまわっているみたいである。 そう思うと本当に寂しい。

 

 

 

 


四国病

2012-09-09 21:01:39 | 日々のつぶやき

 

むくげの花の数もだんだん減ってきて、今朝は1輪の花も咲かなくなった。替わりに真夏は元気が無かったのにデュランタの花がまた、沢山咲きだした。植物に季節の移り変わりを教えられる。

昼間は暑くとも季節はもう秋なんだなと感じる。

上の花は何と言う名前か知らない。

唯一沢山咲いている蔓紫の花は咲いても、午前中だけで散ってしまうのでいけるには適さないので 近くの道の駅に仏壇のシキビを買いに行った時に目に付いて買って来た。

先日通夜の席で隣り合わせた大阪の義理の叔父が歩き遍路?をしている話をし始めた。

後、香川一国を残すのみになっているが、暑さの厳しい間は休み涼しくなってから又、再開すると言う。

何故、?マークが付くかと言えば、叔父の足では札所間の距離が遠ければ、1日の間にたどり着けず、乗り合いバスを利用するそうである。

先日私達が行った足摺でもよくお遍路さんを見かけた事が有ったが、叔父に話すと、

「あそこは遠いねん、バスをつこうたわ。ちょっと贅沢して、のあるホテルに泊まったけど、高かったな。ほら、食事も良かったけどな。」と話し始め、

「徳島、高知、愛媛と周って来て、だんだんお遍路さんに関心も薄れてきてお接待も少なくなってくるんや。」

よく分からないが、札所番号が若い程、お遍路さんも多いからではなかろうかと思うが…

遍路道と言って県道や国道ではない昔からの道がある。その道を忠実に歩いたのかと聞けば、

「徳島から高知への道、室戸とか、足摺の山道は寂しいて気味悪るうてよう歩かん。そこで捻挫でもしてみい、何時人が来るか分からんのに。」と、当たり前のようにしゃあしゃあと言う。

「衣装ケースなどを台車に積んで歩いている人を見かけるけど。」と、聞くと、

「あの人らはな、お大師さんと一緒にその後足跡を周ってるんや。札所着いても、ただ拝むだけで、御朱印とか、納経帳とかは関係ないんや。ただ、歩くだけでそのままお迎えを待つ人もある。後ろでドサッと言う音がして振り返ると、70歳台の女の人が倒れてそのまま救急車で運ばれた事があったな。その晩遍路宿で亡くなられたらしい事を聞いたな。」

どうも国道を台車を押して歩いているお遍路さん達とはちょっと違うような気がする。

愛媛の四国山地の村で次の札所に着く事が出来ず、予約した宿は近くに行っても分からず、前で道路工事をしている人に聞くと、

「え!あんたあそこに泊まるんか?止めといたほうがええで、」と言われたが、他に宿もなく泊まったが、えらく汚かったそうでそんな宿は他には無かったと言う。

其処の出身の旦那さんを持つユキちゃんに言うと、「宿屋なんかあったかしら?」と、言うくらいである。交通の便が良くなり、田舎の旅館やホテルはなかなか客が無い。

で周る遍路さんの多くなった今、ちょっと無理しても観光地まで走って宿に泊まったり、バス会社の日帰りツアーを利用して行ったりするので札所近くのビジネスホテルなどでも少ないと聞く。

「それがな、88ヶ所周って帰ってからな、数ヶ月経つと、また行きとうなるんや。『四国病』と、言うやと」と、笑いながら叔父は言った。

私の住んでいる町に札所は無いが、30年位前に母が二度周った。と、言っても、マイクロバスで10人ほどで周っただけであるが、それでも、私や妹によく近くの札所まで連れて行くようせがんだ。

ある時、お寺の駐車場に軽のライトバンに畳を敷きつめ、小さなプロパンガスで料理をされているお爺さんがあった。少し話してみると、お風呂は近くの銭湯へ行くと言われた。

今ならば、道の駅も沢山出来て、食事やお風呂も多くて便利だろうと思うが、歩きながら、叔父は何を考えているのだろう、聞くのを忘れてしまった。

 


ヒケタ?

2012-09-07 02:50:03 | 霊現象

 日曜の深夜 後10分ぐらいで日付けが替わる頃、叔父は亡くなったという知らせを受けた。遠くに住んでいる叔母たちにすぐ連絡をとり、母と二人病院まで歩いた。

叔父と対面したが、口に管をくわえていたと最後の姿と大分変わり、穏やかな表情になっていた。葬儀屋さんの車で出て行くのを見送り、深夜の人気の無い道をとぼとぼと歩き帰宅すると1時半になっていた。

母は待合室にいる間従姉妹に後の事を細かく指示していた。

いくら職業と言えども、看護婦さん達は手際よく、主治医は私達と一緒に見送ってくれた。こんな時はその心使いがとても有り難い。

深夜に外を歩いたのが障り、気管支の悪い母は風邪を引いてしまい、私が通夜も葬式も父と参列するようになってしまった。

後で聞いてみれば、叔父は腎臓も透析一歩手前の状態だったと言う。

叔母達は丁度3週間で叔母に続いて叔父が亡くなった為、これで打ち止めにして欲しいと口々に言っていたが、年齢は関係なく気丈な人またはマイペースの人はピンピンしていて、没個性というか影が薄いと感じた叔父や叔母が逝ってしまったような気がする。

叔母の葬儀と違い今度は叔母達の外従兄弟等も参列して賑やかに叔父を見送った。

しかし、今回身近であったので人の人生ってあっけないものと実感したと同時に、それならば、人にどう思われようと自分の思うとおりに生きたいと思った。

慌ただしく3日間が過ぎ、予定通り高知まで出かけた事もあり、その疲れからか、昨晩は9時前から寝てしまった。

今朝、5時に目が覚めたがそのまま横になっていると、

「ヒケタ、ヒケタに行かなければならない!」と言っている。その後、「卵!」

「え?卵?」なぜか6月15日のゆで卵しか目の前に無い!これはダメだわと思っていると、

次にトーメイのパックに10個入った卵が現れた。 ああ、それがいるのね…と納得した所で目が覚めた。

う~ん、今のは何だ?ヒケタと言ったら、多分香川の引田?行った事はないが、先日白鳥町へ行った時に名前を目にしたくらいである。

卵と言えば、龍神様?海のお清めかしらと思った。以前、霧島の大浪池に行った時、何時もの3点セットの他、榊と卵のパックを持っていって供えた事を思い出した。

大きな白い巳様が牙をむき出しクワ~ッと口を開けた怖い顔がよぎった。

ラジオを掛けっ放しにしているので放送の中にそんな言葉が出たのでは?と思い、ホームページを調べたがそれは全く無関係だった。

気になってノワタリさんに伝えると、

「龍神様が御呼びですね。出来たら、私も行きたいですね。」と言われ、京都へ行く前日に足を伸ばす事となり その他神社を調べると、八幡様と恵比寿様があった。

今回、宿だけ押さえただけで、飛行機を手配する気が起きなかった訳が分かった。なぜか迷い取れなかった。妹はやきもきしていたそうだ。

其処はほぼ足摺の対角線上にあり、白鳥と隣で今は同じ東かがわ市である。7月に引き続いてまた行く事が不思議に感じる。なぜ、同じ瀬戸内海でも愛媛でないのだろう?ノワタリさんは、

「行けば、分かりますよ。」と、やんわり言われた。

今回は坂出まで車で行き、ノワタリさんと合流して引田でお清めをしてまた、坂出からJRで京都に向かい、解散後また坂出から車で帰ることになり、やっと計画が本決まりになった。

妹に伝えると、

「私が動けるようにうちの両親が元気なのよ。」と、言う。

有り難い事である。仕事を持っている私には時間、費用、人、どれが欠けても出来ない事である、感謝しなければならないと改めて思った。


重い一日

2012-09-02 23:35:47 | 日々のつぶやき

今日はルンルンで過ごした先週の日曜と打って変わり、とても重い日だった。

今朝防災訓練があった。参加しようと思っていたのに、直前に行く気が起こらず出かけなかった。

こんなに南海トラフの事を言う2年前に、参加したが、避難場所は家よりも海岸に近く、おまけに其処へ逃げる途中で古家の倒壊に巻き込まれそうなので家にいるほうが安全ではと思った。

今回、津波が起きれば、山の方に逃げないといけないが、ヨチヨチ歩きになっている父が危ない。台車に載せて麓まで押していかないといけないだろうと母と意見が一致した。

しかし、母は父に「あんたと一緒に心中するのは嫌よ。四股でも踏んで足腰を鍛えて。」と、叱咤している。

そんな事を話していて チエさんが、「山は無理だから、屋上に上がったらいいんじゃないの」と言う。

でも、津波が高ければ…とまた、ユキちゃんと話していて、

「ライフジャケットを用意したら。」との意見をもらい、そして半ば笑いながら「ゴムボートも用意したら万全よ。」と言うので準備する物は増えていく。

しかし、家にいる時に起きるとは限らない。そんな事を家でこの所話していた。

数年前、とてもリアルな地震が起きた時の夢を見た事があった。

何時も行くスーパーの前は1mくらいの大きな地割れが起き、建物は大きく傾いていた。其処から歩いていると友人のKに会い、なぜかその近くの鉄筋のむき出しになり荒れた建物の中に入りビールを飲んで別れた。(こんな時にそんな事をするのがやっぱり夢)その後、傾いたり、壊れて道に倒れているのを見ながら家に向かって歩いて行った。すると隣家の家は立っている物の屋根や窓が壊れてカーテンがヒラヒラと揺れていた。うちはどうなっているのだろうと思いながら曲がり角を曲がった途端、見ずに目が覚めた。

すると朝8時過ぎ、従姉妹から半泣きで叔父の容態が急変したとの連絡。

急いで父を連れて病院に駆けつけたが、肺炎を起こしていた。20日前に父からすれば、妹をそして今度は末弟をと言うことになる。

父は独り言のように「自分の撒いた種だ。不摂生だったからだ。」と、自分に言い聞かすように呟いていた。

もう叔父は薬で脳と内臓にのみ血液が流れるようにしているので、足はパンパンにむくみ冷たかったが、うつろに宙を見ている目からは涙がずっと流れているので意識があるのだろうかと、その状態では不思議だった。出かけに電話の対応をしていて遅れてきた母がやって来た。

叔父の血圧と脈はナースステーションに送られていて、その時は医者の処置のお陰で、持ち直した。

1時間余りいて朝食を取っていなかったので、先に帰宅した。

昼前に昼食を届け 父を連れ帰ったが、今まで子供も居らず、両親も年齢の割りにしっかりして自立おり 定年とかに関係ない環境なので余り自分の年齢と言うものを自覚する事が無かった。

が、しかし今年は友人の親や縁者の葬儀が続き、それまで避けてきた事を直面するようになってしまった。

夕方、また病院から帰宅した母が、涙を流しているのを不思議に思っていたので年配の看護婦に尋ねると、その人は叔父の腕をギュッとつまんで反応が無いのを確認して、

「意識はありませんね。」と言われたという、生理現象だったのだろうか?

叔父は尿が出にくいらしく、出れば持ち直すとも言われたと言う。

30年前に飼っていたネコのクロちゃんもたった半日のわずらいで同じような状態になり尿毒症を起こして亡くなった事を思い出す。

こんな事ばかりで親族と顔を合わすのも寂しい。