朝トイレに起きたときラジオ聞いていたら、東京の日の入りが4時28分で1年で一番早いと言っていた。夕方4時過ぎに散歩に出掛けたらすぐ暗くなり、目が悪いからか東の空高くに双子のように見える星が輝いていた。20数年親しんできた電話番号を今月末で解約した。この電話番号と付属メールアドレスを色んな登録に利用していたけれど、このところの詐欺メールばやりで、どの業者が漏洩したのか、しょっちゅう偽メールが届くようになった。アマゾンだ、クロネコだ、何たらだと煩くて仕方なかった。メールを変えると変更届を出す必要が生じるので、ずうっと我慢して一々削除していた。しかし、堪忍の緒が切れてメールアドレスを変更した。ところが、ETC関連からだけは、アドレス変更後も同じ偽メールが届いた。電話会社のサイトにその状況を説明して、内部に漏洩する者が居ないかチェックをお願いしたけれど、なしの礫だった。うっかり詐欺に遭うのも嫌なので、解約した。楽天と数年併行使用していたけれど、もう大丈夫だろうと踏ん切りをつけた。これから寒さが厳しくなっていくけれど、日の入りがだんだん遅くなってくれると散歩に助かる。
この度の上洛は惟喬親王をしのぶ旅にした。大鏡が語られる雲林院傍の亀に蛇が巻き付く玄武神社から洛北雲ヶ畑の惟喬神社をお参りした。さらに夜泣峠にも足を延ばした。藤に巻き付かれると木(紀)が枯れるように、文徳天皇の第一皇子でありながら皇位に就けなかった惟喬親王は、水無瀬の離宮での桜の宴よりも、秋の紅葉が似合う。雪を踏み分けお会いする小野の里では侘しすぎる。志明院、惟喬神社辺りの紅葉はまだで、高雄もまだ早かったが、岩戸落葉神社の大銀杏は大ぶりな姿といい、降り敷く錦の耀きといい、親王の風情とぴったりだった。
黄葉に
敷き詰めらるる
古き世の
みこが偲ばゆ
夢かとも思ひ
滋賀県琵琶湖畔の石山寺に詣でたら紫式部展をやっていてラッキーだった。参道に源氏物語各帖の紙灯籠が置かれ、淡く紅葉が始まっていた。石の山の麓には狭いくぐり岩があり、試したら注意書き通り3回頭を打った。東大寺大仏制作のための黄金を得るため、良弁僧正が聖武天皇から授かった念持仏を置いて産金の在り処が見付かるよう祈ったと言われる巌もあった。
この春、東日本を旅行した際、たまたま宮城県涌谷町の黄金山神社にも参った。そこは奈良東大寺の盧舎那仏を金メッキするための砂金が発見された日本最古の産金地という説明だった。こんな遠隔地の辺鄙なところを探し当てたとは、ホンマかいなと思いつつ、奈良時代の日本国家の統治力に感心したものだった。
そこで、京都の紅葉を見に行ってまだ大したことがないなと行き先を考えながら地下鉄に乗っていると、車内路線図を見て石山寺に簡単に行けることが分かった。こちらは産金場所から石山寺行きを思い付いた逆コースである。
紅葉と言えば、この前NHKテレビで嵯峨野・大覚寺をライブ中継していた。この機会を逃してはならじと電車を乗り継いで嵐電嵯峨まで行ってタクシーに乗ることにした。全然それらしい場所が無かったので、JR嵯峨駅まで歩いて乗り場で待ったけれど全く来ない。他の人はスマホでUberか何かで配車を頼んでいるようだったが、やり方が分からないので、タクシー会社を調べて電話すると、車が少なくて20-30分は掛かるというので諦めてホテルに帰った。ライドシェアというのを有志議員が熱心に進めているのを、新たな利権の発掘かくらいに冷ややかに見ていたけれど、確かに必要性があるなと思い直した。
簡単に諦めたのは大相撲中継を見るのもいいかということだったのだけれど、急いでテレビをつけると宝塚の記者会見がライドシェアしていて、余りの不運続きを嘆いた。私にとっては相撲放送だけがNHKの存在意義なのに、すぐ気象庁に電波ジャックされたり、国会中継を見せられたり、経営陣の自覚の無さには呆れるばかりである。
如蔵尼(にょぞうに)という教科書でも小説でも一度もお目にかかったことのない女性が破格にパワフルな人だったと知って驚いた。やはり歩いて知るということは良いものである。
平安時代に関東で覇を唱え、京都政権を狼狽させた平将門の娘である。新皇を名乗った将門は京の討伐軍に討たれたが、その後奥州に逃れていた如蔵尼がゆかりの地の下総、今の茨城県坂東市にやってきて、父を弔い偉業を顕彰するため國王神社を創建した。単なる父思いというだけでなく、類い稀な政治力のある女性だったという印象が強く残った。
それから、如蔵尼が一時匿われていた福島県・慧日寺を越え、東北、北海道を回って、山形県の羽黒山出羽神社をお参りすると、境内の国宝五重塔が、父将門が創建しようとしたが果たせず、その遺志を継いで如蔵尼が建立したものとの説明があった。その行動範囲の広さと事業力の旺盛さには脱帽せざるを得ない。
東北、北海道を回ると、平泉で自害したはずの源義経がその後も逃避行を続け、あちこちで足跡を残しているのに感心するが、後世に国宝を残したことで如蔵尼もそれに匹敵するか、それ以上だったと評価されてしかるべきである。
遺志を継ぎ
父を神にし
五重塔
誉れも高き
如蔵尼床し
思春期に大きな影響を受けた2人の偉人の像に相次いで会えた。良寛さんと河井継之助。国上山、長岡、小千谷と、越後のど真ん中の人物に偶々惹き付けられていたことになる。しかし、実際に処世していく上で縁が無くなった。こう在りたいという方向に進んでいけるほど人間は幸せでない。長らく忘却して久し振りに邂逅すると、親しみ懐かしさが湧くより、相変わらず偉人として敬慕するだけだった。
諸国の文人墨客から尼さん、子供に至るまで広く愛された包容力、勢いの付いた新政府軍相手にどうやら負け戦らしいことに気付きながら一丸となって一泡吹かせた軍事統率力が、どういう風に人間に備わっていくのか、その器量の謎を知りたいとは思う。そんな物は密に群がる蟻や伝記作家の創造力の産物であると切り捨てても良いけれど、今生で唯一人田中角栄の人並み外れたパワーに接すると、作り話だけでも無さそうである。しかし、人間の内面から生まれるものか、時の弾みが作り上げていくものなのか、生身の人間が神として崇められた数々の歴史を踏まえても、謎のまま残りそうである。
越後では
米撞き捏ねて
鏡餅
鞠つき楯突き
人も鑑みに