先帝後醍醐は警固の尊王義士、佐々木富士名(ふじな)判官や船乗りの機知にって隠岐の島脱出に成功。これを聞きつけた各地の討幕派が挙兵した。神戸の摩耶山を拠点とする赤松入道円心と貞範、則祐親子ら討幕軍はいよいよ六波羅幕府方が支配する京の都に攻め上った。洛西の桂川で両軍対峙し大合戦となった。数に勝る幕府方は河野九郎左衛門尉、陶山次郎らの奮戦によって討幕勢をいったん撃退した。
しかし、戦争には手柄を挙げたいけれど危ない橋は渡りたくない、せこい人間が居るのは昔も今も同じ。軍奉行の大役を任せられた隅田、高橋両名は大した戦闘もしなかったのに、掃討し終わった京中を駆け回り、道端や溝に落ちていた戦死者や瀕死者の首を狩って手柄にした。それだけでは大した報奨にありつけないと思ったのか、そこいらに居た町人や百姓の首まで取って、適当に首級名を付けて戦勝報告した、というから下種も極まっていた。
この結果、敵大将の赤松円心の首が5つも検死場に運び込まれたという。前線に出て標的を正確に狙うのを厭い、後陣から砲、ミサイルをめくら撃ちし、民家、アパート、スーパーなど民間施設を破壊し尽くすウクライナ侵略のロシア兵と同じような戦犯行為は昔からあった。太平記でなく狂乱記として永遠に歴史に残り、語り継がれるであろう。
なお、口さがない京童は、討たれもしない赤松入道を討った討ったと虚偽報告するとは、「武家の滅ぶべき相なり」と嘲った。