天愛元年

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新元号『天愛』元年にスタート

如蔵尼

2023-07-29 19:54:53 | 日記

 如蔵尼(にょぞうに)という教科書でも小説でも一度もお目にかかったことのない女性が破格にパワフルな人だったと知って驚いた。やはり歩いて知るということは良いものである。
 平安時代に関東で覇を唱え、京都政権を狼狽させた平将門の娘である。新皇を名乗った将門は京の討伐軍に討たれたが、その後奥州に逃れていた如蔵尼がゆかりの地の下総、今の茨城県坂東市にやってきて、父を弔い偉業を顕彰するため國王神社を創建した。単なる父思いというだけでなく、類い稀な政治力のある女性だったという印象が強く残った。
 それから、如蔵尼が一時匿われていた福島県・慧日寺を越え、東北、北海道を回って、山形県の羽黒山出羽神社をお参りすると、境内の国宝五重塔が、父将門が創建しようとしたが果たせず、その遺志を継いで如蔵尼が建立したものとの説明があった。その行動範囲の広さと事業力の旺盛さには脱帽せざるを得ない。
 東北、北海道を回ると、平泉で自害したはずの源義経がその後も逃避行を続け、あちこちで足跡を残しているのに感心するが、後世に国宝を残したことで如蔵尼もそれに匹敵するか、それ以上だったと評価されてしかるべきである。

 

遺志を継ぎ
父を神にし
五重塔
誉れも高き
如蔵尼床し


人の鑑

2023-07-29 16:21:37 | 日記

 思春期に大きな影響を受けた2人の偉人の像に相次いで会えた。良寛さんと河井継之助。国上山、長岡、小千谷と、越後のど真ん中の人物に偶々惹き付けられていたことになる。しかし、実際に処世していく上で縁が無くなった。こう在りたいという方向に進んでいけるほど人間は幸せでない。長らく忘却して久し振りに邂逅すると、親しみ懐かしさが湧くより、相変わらず偉人として敬慕するだけだった。
 諸国の文人墨客から尼さん、子供に至るまで広く愛された包容力、勢いの付いた新政府軍相手にどうやら負け戦らしいことに気付きながら一丸となって一泡吹かせた軍事統率力が、どういう風に人間に備わっていくのか、その器量の謎を知りたいとは思う。そんな物は密に群がる蟻や伝記作家の創造力の産物であると切り捨てても良いけれど、今生で唯一人田中角栄の人並み外れたパワーに接すると、作り話だけでも無さそうである。しかし、人間の内面から生まれるものか、時の弾みが作り上げていくものなのか、生身の人間が神として崇められた数々の歴史を踏まえても、謎のまま残りそうである。

 

越後では
米撞き捏ねて
鏡餅
鞠つき楯突き
人も鑑みに


3大ビックリ

2023-07-26 20:58:09 | 日記

 名所に3大何とかがあるが、この度の東日本旅行では岩手県住田町の滝観洞(りゅうかんどう)と長野県善光寺のお戒壇めぐり、松代大本営跡が3大ビックリだった。

 善光寺お戒壇は予備知識無しで矢印の方向に進んだら、真っ暗闇の地下に放り込まれ、どういう仕組みか分からず何キロも歩いた気がして、この先に落とし穴が待っているのではないかと恐怖が起き、引き返すと後ろから来た人の冷えた手に触ってしまい悲鳴を上げた。怪談巡りではないのか。

 滝観洞も最後の見事な滝壺までは、足元がヌルヌル滑り、首筋には冷たい石灰水が落ちてきてヒヤリとしたが、霊気はこちらの方が上回った。松代大本営跡は壕道が四通八達、蜘蛛手になって5.8キロを超える大規模のものとは想像しなかった。

 どこも岩石の塊で、沖縄の軍司令部ガマのような危なっかしさは感じなかった。真夏でも涼しく、壕内気温は14度とか。大元帥執務室、天皇ご居室を尋ねると、壕からちょっと離れた山の手(舞鶴山)にあり、畳6畳間2室と意外に簡素で小ぢんまりしていた。

壕の道
蜘蛛手に分かる
松代は
思ひの外に
御座所倹しく


笹川流れ牡蠣

2023-07-23 09:55:09 | 日記

若い頃、広島に勤務した経験から、牡蠣は冬が旬という固定観念があった。だから、村上市の日本海夕日ラインを走っていて、「岩ガキ」ののぼり旗が目に付いた時には、食わせものだろうと高を括ったが、ちょうど昼時だったので、一応試してみようと急停車した。カキ氷でなく本当にカキがあるのですかと聞くと、そうだと言うので中型2個セットを注文した。想像を絶して美味かった。炎暑の中を走って大汗を掻いていたこともあって、潮がよく効いていたのと、レモン汁が合わさって、ミルキーなカキ果汁と見事なハーモニーを醸して、干乾びそうな体中を駆け巡った。冷えたビール缶が目に入ったが、貝のように固く我慢した。何のアピタイザーの助けがなくても、笹川流れの岩牡蠣の豊潤な味、感触だけで幸福だった。

岩牡蠣は
笹川流れ
と太鼓押す
亭主の会話
実が弾けけり


平取町義経神社

2023-07-11 16:11:11 | 日記

 北海道沙流郡平取町に義経神社を詣でた。自害したはずの源義経は、平泉での裏切り襲撃から逃れ、竜飛岬から津軽海峡を渡って松前に着き、あとは北前船ではないが、基本的に弁慶岬など日本海添いに進み、日高国の平取町まで来ると、江戸幕府を開いたご神君徳川家康でも力が及ばないのに、前時代の源頼朝将軍の追及を気にする必要はなかった。完全に義経讃歌の世界に入っていた。

 まだまだ青森県八戸市の長者山新羅神社辺りでは、義経を匿うため柴を回したり木を植えて探索に見つからないよう、細心の注意を払っていたのとは様変わりで、開けっ広げである。義経を匿うどころか、大将として仰いだと言い伝えられるようになった。むしろ義経との縁の深さを競うような気風が感じられる。

 人間がどうしても逃れられない現実の厳しさから一時的にも逃れるため、夢に希望を託す心情と似ていると思えてならない。生身の現実と向き合って平然としていられる人間ばかりではない。夢は紡がれ大きく育つ。モンゴルまで届こうが非現実的でなく、歴史は何も間違っていない。

 

義経は

この手で護る

この世では

叶はぬ夢を

涙に託し