天愛元年

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新元号『天愛』元年にスタート

異変

2020-06-30 17:52:05 | 日記

 トランプ大統領はどうしたのだろう。白人至上主義者の動画をリツイートしたり、精神的に追い詰められているのか、飾りのない反応なのか、元首として常人の手の届かないところに飛んで行ってしまったようである。各国首脳との電話会談で言い負かしたり、悪態をついたりして米国の安全保障を危険に陥れていると、首にした元ホワイトハウス高官や政府高官から批判されているというのだから穏やかでない。
 日本人から見ておぞましいというか、米国では自己防衛のため普通に見られる風景なのかもしれないけれど、セントルイス市長の辞任を求めるデモ隊が自宅前の道路を通ったのに対し、家主夫妻がライフルと拳銃を構えて威嚇する映像がツイッターに流れたのに対しても、同大統領がリツイートしたという。やっちゃえと、けし掛けているとしたら、選挙応援演説に対し「あんな人たちに負けるわけにはいかない」と声を張り上げた安倍首相が可愛く見えるくらい、質が悪い。警官かヤクザくらいしか銃を携帯していない日本人から見ると、今にも銃撃戦が起きる緊迫感を感じる。数年前に、コロラド州ライオンズ市に滞在したとき、空の青さに映える白い雲が美しく追い掛け回っていると、小山の頂に岩の遺跡のような造形美が目に入ったので、ふもとまで近づいてゆき、いざ登ろうとしたけれど、簡単な柵が巡らせてあり、中に家屋も見えたので、思い止まった。日本でなら、あまりに美しかったのでと言い訳すれば済むだろうけれど、誰でも銃が所持できる彼の地では、不法侵入者として射殺されても遺族が抗弁できないとビビってしまった。正当防衛と人種差別が重なると、法と秩序も万人が期待する中身から逸れ、権力者仕様に歪んでくるに違いないと想像できる。
 ライオンズ市にはキルトなど布地の瀟洒なお店があり、敷物や布地を手頃なお土産にした。素敵な洋服もあったけれど、荷物になるので諦めた。また、訪ねたい街である。西武ライオンズはオリックスと今夜から6連戦に入る。コロナ時代に活躍が期待できる高橋光成(こうな)が先発予定である。ロッテに6連敗のオリックスには山本由伸投手がいるので、まさかと思うけれど、山川、森、中村剛也のらの破壊力満点の打線が火を噴いたら、異常事態が止められなくなる。しかし、バッファローズには何とか、2連続6連敗の珍記録だけは阻止してもらいたい。
 月カレンダーもどうしたのだろう。毎月壁に貼って予定を見る新聞社の月替わりカレンダーの7月分が届かなくなった。コロナ自粛生活により別に予定も立たないので、無くても致命的に困るわけではないけれど、ここ何十年来の習慣が途切れる。断捨離、終活も、自分で覚悟を決めて実行するのはいいけれど、頼みもしないのに周りから強制終了させられると、不本意である。新聞経営がそんなに大変なのだろうか。月1度のカレンダーくらいなら我慢できるけれど、新聞経営を直接、間接の政府買い上げに依存して、筆を曲げ、追従記事ばかりの岡っ引き瓦版にならないよう願いたいものである。

まがごとの
をちこち続く
このころな
苦し紛れに
迷ひ給ひそ






茅の輪

2020-06-28 18:41:02 | 日記

 6月最後の日曜日。もう今年も半分過ぎた。年を取ると動きが鈍くなるのに、時の経つのは若い頃より速い気がする。昨晩、寝ようとして、死ぬ前には、体が言うことを聞かなくなって、こんな風に寝た切りになって、自由が奪われ、誰を呼んでも看取られないまま逝くのかなとの思いがわき起こり、いたたまれず起き上がって、玄関口で頭を冷ました。歩くことと、見ることと、噛むことは、死ぬまで保ちたいと思う。やることは外してもいい。挿入しながら昇天して極楽往生したいと考えていたけれど、もうどうでも良くなってきた。余計なことを考えず歩見噛の3つに絞って、養生していこうと考え直した。

 今年前半を振り返ると、蔵王の樹氷を見に行った以外はコロナ一色であった。もう我慢の限界に来ていて、後半もこの調子が続くかと思うと、どこかで自爆テロを起こしそうな気がする。月末30日は夏越の祓い。おととい兄が手作りの茅の輪を送ってくれた。頭からくぐる神社様式でなく、ミニチュアなので、玄関取っ手に飾った。悪疫退散と身体丈夫に効き目がありそうな気がする。
 昨夕、近所のおばさんに松葉牡丹の苗を株分けして貰った。いつも咲いている花がなく、葉っぱだけになっていたので、もう花期は過ぎたんですかねと聞いた。答えが仰天するくらい意外だった。いや、花は一日だけ咲いて、脇から別の花芽が翌日開くんですよ、と教えてもらった。ええっ、それでは散歩道でいつもピンクの花が石垣に活き活きと全開しているのは、同じ物ではなく、毎日生え代わっていたのか。何十年と見慣れていて、自分でも植えたことがあるのに、今の今まで気付かなかった。散歩以外に別に何もすることがなく、観察にはフルに注意を払って、綿密、細密、緻密に、いわゆる3密によって目を凝らしていたのに、認識の篩いを素通りしていた。ぼうーっと世の中を過ごしてきたので、もっと大事なことを見落としていた気がする。
 ポスト『赤毛のアン』は『茶の本』にした。明治に書かれたというから、基本英単語300語くらいで出来ているのかと舐めていたら、審美性とか日本語でも咀嚼できない難解単語が次から次へと出てきて、本を読んでいるのか、辞書を読んでいるのか、分からなくなってくる。何者なのか、岡倉天心とは。髭の肖像をむかし教科書で見た印象では、田舎の村夫子だけれど、凄い学識が有ったみたいである。茶の作法を紹介しつつ、その伝統と精神を外人にも分かるようさらりと解説したものと思っていたら、いきなりばーんと国際文明を説きだしたので、たまげた。アンの数分の1の分量なのに、読み終えるのはもっと難航しそうな見通しである。
Those who cannot feel the littleness of great things in them-selves are apt to overlook the greatness of little things in others. The average Westerner, in his sleek complacency, will see in the tea ceremony but another instance of the thousand and one oddities which constitute the quaintness and childishness of the East to him. He was wont to regard Japan as barbarous while she indulged in the gentle arts of peace: he calls her civilised since she began to commit wholesale slaughter on Manchurian battlefields. Much comment has been given lately to the Code of the Samurai, --the Art of Death which makes our soldiers exult in self-sacrifice; but scarcely any attention has been drawn to Teaism, which represents so much of our Art of Life. Fain would we remain barbarians, if our claim to civilisation were to be based on the gruesome glory of war. Fain would we await the time when due respect shall be paid to our art and ideals.
 
ーーー青空文庫で見付かった村岡博訳では;
 おのれに存する偉大なるものの小を感ずることのできない人は、他人に存する小なるものの偉大を見のがしがちである。一般の西洋人は、茶の湯を見て、東洋の珍奇、稚気をなしている千百の奇癖のまたの例に過ぎないと思って、袖の下で笑っているであろう。西洋人は、日本が平和な文芸にふけっていた間は、野蛮国と見なしていたものである。しかるに満州の戦場に大々的殺戮を行ない始めてから文明国と呼んでいる。近ごろ武士道ーーわが兵士に喜び勇んで身を捨てさせる死の術ーーについて盛んに論評されてきた。しかし茶道にはほとんど注意がひかれていない。この道はわが生の術を多く説いているものであるが。もしわれわれが文明国たるためには、血なまぐさい戦争の名誉によらなければならないとするならば、むしろいつまでも野蛮国に甘んじよう。われわれはわが芸術および理想に対して、しかるべき尊敬が払われる時期が来るのを喜んで待とう。
 
ーーー何か、グレタ・トンベリさんの「あんたら、よくもまあ」( How dare you!)という啖呵を、明治時代の小国日本から大西洋文明国に対して切っていた感じである。しかも、力で勝負するなら力で向かってやろうじゃないか、という下司の口上でなく、領土拡張のため戦争に明け暮れている列国を窘めているのだから、大した胆力である。今見ると、明治には凄い人が輩出していた。満州の戦場などと出てくるので、いつの執筆かと見たら、明治39年、1906年だった。1904-5年の日露戦争に勝ち、旅順を陥落させていた。何だ日本は、と各国を瞠目させた後なのに、「平和な文芸を野蛮と言い、殺戮を文明という貴様等は、いったい何なのだ」とアジるのは、内向けにも外向けにも大胆すぎて、沈着剛毅と言う他ない。こういう人材の遺伝子が今も続いていてほしかった。トランプ米大統領のご機嫌を取ってお先棒を担ぐばかりで国益を守ったつもりになっていてもらっては困る。日本の精華、国体の基本を見据えて国際外交にあたってほしい。
 
はらからの
茅の輪を懸けて
厄除けむ
茶を嗜みつ
ふるさと偲ぶ
 








bend

2020-06-26 16:31:32 | 日記

 ようやく『赤毛のアン』を読み終えた。難しい単語や構文がいっぱい出てきて、松本侑子訳がなければ大半分からなかったけれど、先にNHKのDVDを見たイメージも手伝って、何とか大体の筋が理解できた。終盤になると、最後が気になって結末が見たくなるけれど、ダウンロード本を下手に繰っていくと、元に戻すのに往生するので、松本訳本を覗くと、最後の行は;
 「『神は天に在り、この世はすべてよし』」アンはそっとつぶやいた。
---とあって、原文ではどう書かれているのか楽しみにしていた。「神」と「天」と「この世」をどう使い分けて表現してよいのか、皆目見当がつかず、英作文を試す気にもなれなかった。アマゾンから無料でダウンロードした『 The Anne of Green Gables Stories 』では;
"God's in his heaven, all's right with the world," whispered Anne softly.
    THE END
---と訳通り、あっさり締めくくられていた。日本語ではなかなか心強い言葉なので、最初は常に愛誦しようかとも考えていた。しかし原文は、天にまします我らが神みたいに人間界と行き来する気さくな感じでなく、神が自分の所有する天の奥の院に鎮座されているニュアンスなので、すとんと入ってこず、敬遠することにした。やはり、博打に勝てますようにとか、ええ女に巡り合えますようにとか、その時々の八百万の神に願を立てる方が気が楽である。
 ストーリーの方は、最終38章の裁きに感銘した。前章でアンを一番可愛がってくれた養父マシューと死別し、一大転機を迎えた。最後の章では、視力も失いかけて弱気になった養母マリラが永住のグリーン・ゲイブルズの我が家を手放し、昔からの女友達の家にでも間借りして余生を過ごそうとするのをアンは押し止め、奨学金をもらって大学に進学できる資格を放棄して、地元で教員をしてマリラをサポートする道を選んだ。そして、いろいろ悶着があってぎすぎすすることの多かった男子級友のギルバート・ブライスと氷解して親友となり、ロマンスの芽も育まれる。そこのシーンはこの本に珍しく挿絵が出てくる。見れば、赤毛やそばかすを気にする少女アンでなく、すらりと長いドレスをまとった16歳と5カ月のうら若き乙女に成長していた。並んで立つギルバートもびしりとスーツを着こなした青年である。恋愛が作者は得意でないのか、続編でも紆余曲折ばかりで「君の名は」状態になるけれど、とにかく波瀾含みながら希望に満ちた章として、完結後にも読者に期待を持たせてる。根強い人種差別に立ち向かう Black Lives Matter どころか、黒人の公民権運動も生まれず、女性参政権など影も形もなかった世紀に、孤児の少女が偏見、差別をものともせず、ひたむきに学び、がむしゃらに未来を切り開いていこうとする姿を描いたこの作品は、自由・平等・民主主義が表向き進んだとされる現代でも、角を矯めてはいけない勇気を与えてくれる。

  "I'm just as ambitious as ever. Only, I've changed the object of my ambitions. I'm going to be a good teacher - and I'm going to save your eyesight. Besides, I mean to study at home here and take a little college course all by myself. Oh, I've dozens of plans, Marilla. I've been thinking them out for a week. I shall give life here my best, and I believe it will give its best to me in return. When I left Queen's my future seemed to stretch out before me like a straight road. I thought I could see along it for many a milestone. Now there is a bend in it. I don't know what lies around the bend, but I'm going to believe that the best does. It has a fascination of its own, that bend, Marilla. I wonder how the road beyond it goes - what there is of green glory and soft, checkered light and shadows - what new landscapes - what new beauties - what curves and hills and valleys further on."

---松本侑子訳によると;
 「今だって将来の夢はあるわ。ただ、その目標が変わったのよ。いい教師になること、そしてマリラの目を大切にすることよ。それに家で勉強しながら、大学のコースを独学で勉強すること。ああ、私には、やりたい計画が山ほどあるの。マリラ、この一週間というもの、ずっと考えていたのよ。私はここで生きることに最善を尽くすわ。そうすれば、いつかきっと、最大の収穫が自分に返ってくると思うの。クィーン学院を出た時は、私の未来は、まっずぐな一本道のように目の前にのびていたの。人生の節目節目となるような出来事も、道に沿って一里塚のように見わたせたわ。でも、今、その道は、曲がり角に来たのよ。曲がった向こうに、何があるか分からないけど、きっとすばらしい世界があるって信じているわ。それにマリラ、曲がり角というのも、心が惹かれるわ。曲がった先に、道はどう続いていくのかしらって思うもの。緑に輝くきれいな森をぬけて、柔らかな木漏れ日がちらちらしているかもしれない。初めて見る新しい風景が広がっているかもしれない、見たこともないような美しいものに出逢うかもしれない、そして道は曲がりながらどこまでも続き、丘や谷が続いているかもしれない」

---ダウンロード本は ~THE END~ の後も、『 Anne of Avonlea 』 Chapter 1. An Irate Neighbor と続いていく。曲がり角の先に、もっと面白い展開が待ち受けているかもしれない。しかし、英語勉強のやり直しのため読み始めたので、万一打ち上げないにしても、先に進むよりも1頁目からに戻る可能性が強いような気がする。

曲がり角
道をつけずば
破れなむ
川の流れも
アンの行く手も




散髪

2020-06-25 23:16:27 | 日記

 きょうのオンライン麻雀は実力通り有象無象を撃破し、1局なんか3人ともマイナスにし、12万点を取った。点ピンで1万2千円の勝ち。裕りができたので、近所の農家に採り立て野菜を買いに出掛けた。ビールの定番の枝豆とトウモロコシのほか、私をあなたん家に連れてってと言いたげに赤く頬を染めて食べ頃に熟したトマトを2つ。盛夏を待ちきれずフライングしたような、飲み越し豊かなビールのお供にした。

 麻雀の調子が良いといっても、悪銭身に付かずの教えもあり、締めるところは締めようと思って、自前床屋をした。丸刈りはさっぱりして気持ちが好いけれど、伸びると隠しようがなく。けっこう体裁が悪い。1000円床屋に通っていた頃は、1月+アルファの頻度で刈っていたけれど、丸刈りの裾は伸び過ぎると見苦しく、1カ月は持たない。外見だけでなく。毛はただ廃棄物のように伸びていくわけでなく、毛細に血液も浸出するのか、伸びると重く感じる。ただ頭の周りだけでなく、体全体が重く感じられ、体の切れだけでなく、思考の回転も鈍くなる気がする。体や精神をシャキッと保つためには、髪や爪は老廃物過多になる前に、刈り込むのが健康法である。
 継続は力と自戒しながら、つい面倒臭くなって放置すると、すぐに力を盛り返してしゃしゃり出てくるのが髪、爪だけでなく、黴やコロナ菌である。新型コロナウイルス肺炎は夏場に弱まっても秋以降の第2波に警戒が必要との定説に反して、ブラジル等の南半球だけでなく、アメリカでも再流行しだしているようである。自然免疫が広がる過程なのか、まだまだ死者が増えていくのか、基礎的データが揃っていないので、誰も予測のしようがない。再開しだしたスポーツ競技がカナリアみたいなもので、選手に罹患が広がったりすると、また厳戒態勢のやり直しとなる。スポーツの楽しみが、勝ち負けとファンだけの関心事でなく、広く生活に関わってきそうである。
 
夏とまと
なんば枝豆
ちから付け
暑さもとより
ころな凌がむ
 



立志

2020-06-24 18:10:19 | 日記

 『ハケンの品格』の第2話がきょう放送というので、慌てて第1話の録画を再生した。飛んでいて破壊力があって面白かった。堅物キャラクターの大前春子なのに、「桜を見る会、まだそんなことをやっているバカが居るんですね」と、さらりと噴き出させるセリフもあって、今回も楽しみである。
 検事長と記者の麻雀が話題となっのを機会にフリー・ソフトをダウンロードした。久しぶりにゲームながら麻雀を打つと没頭してしまった。一人打ちでテキパキやっていると、昔の勘が戻ってきて、ついネット対局を試したけれど、本当に繋がっているのか、相手の考える時間がまだるっこしくて、興を削がれる。そのくせ、難しい自摸牌がきて、うーんと迷っていると、取って置きたい牌なのに自動的に自模った牌が捨てられて癇癪が起きることがある。引きこもり症的だけれど、一人打ちの方がサクサクしていて楽しい。日に何時間も熱中して、猿のセンズリ状態となっている。男の誰しものロマンは、古の歌枕を訪ね旅した西行であり、それに倣った芭蕉である。私の場合は、それに加味して木枯し紋次郎であるけれど、とにかく漂泊の旅に出て、即身成仏を目指し、運尽きれば曠野に骨を晒すことになっても仕方がないと思う。ただ、餓死は辛くて嫌だし、支度金は乏しいので、旅次路銀を稼ぐ必要がある。やっと光明が差してきた。ゲームで絶対に麻雀に負けない自信がついた。しかも、検察庁から点ピンなら合法という公式判断が示された。足の向くまま気の向くまま旅して、宿場宿場の雀荘で一稼ぎすれば、芭蕉のように土地土地の名士に気を遣って句会などしなくても、全国を訪ね歩くことができそうな気がしてきた。コロナの猖獗が鎮静化すれば来春にでも出発しようと思う。温泉巡りもできそうである。大勝ちすれば、芸者を揚げたり、ステイホームしながら夢が膨らんでいる。
 『赤毛のアン』がいよいよ終章に近付いてきた。グリーンゲイブルズの養育家を離れ、教員養成のクイーン学院に入学する第34章は、アンが思春期後半に入り、未来の扉を開く、立志編である。この中で一つ気になったのは、意地悪の旧友ジョージー・パイがアンに、フランス語の先生について;
 Our French professor is simply a duck. His moustache would give you kerwollowps of the heart.
---と印象を語るところである。 kerwollowps という語が手持ちの英和辞書に見当たらない。近い語では日本にお馴染みの Kewpie というマヨネーズ会社があるのみである。強引にこれを援用して、彼の髭は心を射止める愛のキューピッドのように素敵、と訳せばいいのか。それだと、直前の文の、私たちのフランス語の先生は全く変わった人なのよ、と繋がりが悪いので誤訳だろうけれど、大して気にすることもない。同章の最後にアンが全開する部分がいい;
 "Oh, it's delightful to have ambitions. I'm so glad I have such a lot. And there never seems to be any end to them - that's the best of it. Just as soon as you attain to one ambition you see another one glittering higher up still. It does make life so interesting."
---松本侑子訳によると、「ああ、野心を持つって、わくわくするわ。私には、目指す野心がたくさんあって嬉しいわ。野心には終わりがないもの。それがいちばんいいことだわ。一つの野心を達成すると、すぐまた別の野心が、もっと高いところで輝いている。これだから人生は面白いわ」。
 野心の連打こそ、アンの真骨頂である。
   老いぼれて 夢は枯野を かけめぐる

木枯しの
骨吹き鳴らす
旅まくら
立直を凌ぎ
振り込まずゆく