天愛元年

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新元号『天愛』元年にスタート

姥神大神宮

2023-06-18 08:41:27 | 日記

  北海道江差町の陸奥国松前一ノ宮・姥神大神宮(うばがみだいじんぐう)にお参りした。御祭神は天照大御神ら三神であるけれど、気持ち的には、折居(おりゐ)姥というこの海域にニシンの群来(くき)を導き、この地に繁栄をもたらした姥神様を崇めているようである。境内社として折居社が祀られている。
  江差といえば、近くにある江差追分会館を覗いた。ソーラン節の実演なんか演っていますかと受付の人に聞いたけれど、小学校の運動会で歌い踊ったソーラン節の快活さと違って、ビデオ上映されていた江差追分は別れの辛さをしっとり綿々と情感込めて朗々と歌い上げる哀調歌であった。去る時にバツが悪く、こっそり出た。
  後で日帰り温泉に行く横断歩道脇に突き出た縁石に両足とも躓いてダイブ転倒した。幸い右膝、右肘、右手首の打撲擦過傷で済み、立ち上がって動くことができたけれど、神罰でも当たったかと気になった。追突、正面衝突の前触れで無ければ良いと願う。

くき知らす
姥神さまに
護られて
江差は今も
人の寄せ来る


恐山菩提寺

2023-06-14 18:45:17 | 日記

 ついに恐山に入山した。イタコにお前の前世はああだ、来世はこうだと言われ、これまでの人生観が吹き飛ぶ衝撃を受けるのではないかと恐れていたけれど、そんな通過儀礼は全くなかった。

 しかし、菩提寺境内の様相は、先月噴火し、溶岩流に焼け尽くされたばかりの無間地獄のような所に連れてこられた迫力だった。ゴジラやキングコングの特撮スタッフでもこんなにリアルに無気味な舞台は作れないだろう。

 山肌の多くが草木も生えない剥き出しの砂山となり、麓には黒く焼け爛れた岩石が重層する合間の所々から熱蒸気が噴き出し、硫黄の匂いがそこら中に漂い、流れる水の成分のためか小川の底は黄色や朱色に変色していた。誰が積んだのか賽の河原を模した瓦礫の山が、いつ崩れるか分からない日常の不安感を煽っていた。

 賽の河原を通り抜けると、それまでの殺伐とした様相から、白い清浄な砂浜の舞台に変わり、その向こうには穏やかで透明なみずうみが広がっていた。まるで地獄と極楽浄土をビジュアル化したジオパークのような霊場だった。

 たっぷり巡礼した後は、境内に設けられた硫黄温泉に無料で浸からせていただいた。

恐山
賽の河原に
石を積む
焼け爛れたる
こころ崩れそ

 


白鳥渡来の雷電宮

2023-06-14 18:32:59 | 日記

 青森県平内町の雷電宮をお参りした。ご祭神は別雷命(わけいかづちのみこと)で、祈雨を司り五穀豊穣をもたらす神として崇敬されている。

 近くの建物に落雷注意の貼り紙があり、訝しかったけれど、御名通り雷難除去の神威もあるという。有名なのは向かいの陸奥湾の小湊に白鳥の大群が渡来することである。白鳥を神の使姫と同宮は敬愛している。平家物語の富士川の合戦ではないが、地元領主の窮地を白鳥の大群飛来によって救った伝説もある。

 神社裏の林に入ってあちこち探したが、通りすがりの参拝だったので生憎秋の飛来季節に合わず、1羽も見付からなかった。代わりに黒鳥の烏がガーガー騒いでいた。小湊に出て、タバコを吸ってる初老男性に不運を嘆いたら、「俺に言わせれば、なんで来るの?」と冷ややかだった。当地の事情をよく知らずに来たのだから、そんな白鳥なことを言わないで、と地元愛の無さを憎んだ。でも神は裏切らなかった。粘っていると、鴨らしき鳥が浅瀬に1、2羽、上空に1、2羽現れた。人の不幸を憐れんで召し遣わされたのだと確信した。

一羽とて
白鳥来ぬも
いかづちの
神優しくも
鴨を召しけり

 

 


日本中央の碑

2023-06-10 17:28:31 | 日記

 目の前にでっかい隕石がいきなり降ってきたら人は適切な言葉を失うだろう。青森県東北町で「日本中央」の刻印のある巌を見た時、「大きい」とか「凄い」と評するのは間が抜けているし、「へーっ」くらいしか反応できなかった。色、形態が黄土に寸胴と、これぞ古来伝えられてきた由緒ある遺跡という印象から遠かった。大きさを除けば、割と日常的、現実的な物の感じで、抗議を恐れず例えると、廻しを付ければ小錦タイプだった。

 何より書体が、著した人物の人となりを体現する味のある書風ではなかったので言葉が詰まった。空海さんのような流麗な筆遣いを期待するわけではないけれど、定規で測ってコンパスの尖った金具で彫った小学生風だったので、感銘するのに一呼吸置いてしまった。世界的に石の遺跡としては英国のストーンヘンジが有名であるけれど、こちらのはストーン変字と呼ばれないか心配してしまう。

 しかし、奇跡的な発見である。秦の始皇帝が徐福に東海に成る不老長寿の実を探し求めさせたように、古来本国の文化人がロマンを抱いた壺の碑(つぼのいしぶみ)が実在したのである。それまでは日本を代表する多くの歌人や俳人に多賀城跡(宮城県)の御堂にある石碑の事だと信じられてきた。ところが1949年に地元で農業を営む川村種吉さんという方が土中から日本中央碑を掘り起こしたのである。だから、平安時代でなく昭和の時代にしても古い出来事なので、自分が知らなかったからと言って、今さら話題にするのは気が引ける。

 でも、未だに影響が大きい事としては、古歌に歌われた壺の碑が多賀城の石碑であったかどうかは、かの芭蕉が支持しているにしても、疑問が生じた。もっとも、細かい史実より観光資源が大事なので、何処も撤回したりはしない。ストーンサークルだって世界各地にあるから、全く問題はない。

 ただ、史実として少し問題なのは、また坂上田村麻呂なのである。日本中央の文字は田村麻呂公が弓の端の金具を使って書いたという謂れがある。東北の史跡には、TVをつければ吉本芸人のように、同公がしょっちゅう出てくる。私のメールボックスにもやれアマゾンからだとか、ETCカードがどうだとかいった類が毎日20-30本羅列して溜まる。通常の物の中にサラッと紛れ込んでいれば、開封もしようが、詐欺見え見えなので無視してすべて削除する。別に生きていくための人の営為を全否定したりしないけれど、眉唾にならないよう上手くやってもらいたい。

 あれこれ言っても日本中央の碑の発見は大事件であるし、存在感は圧倒的である。ただ、解釈が難しいのは日本中央の意味である。日本のへそは岐阜県というのは、誰も歩いて測ったわけではなくても、国土地理院か何かのデータに基づいているのだろうから、異論を唱える人はいない。しかし、青森県東北町が中心という感覚は今の日本の中にはない。日本の国号が使われたのは天武天皇あたりと言われており、その頃からでも割と端の方である。しかし、天武天皇より前に聖徳太子が日の出ずる国として日の本を用いている。これを太陽が昇る根元と解釈すると、日中間では日本になる。しかし、日本国内に目を転じると、京の都より陸奥の方に軍配が上がる。2024年元旦の日の出は京都が7時5分に対し青森県東北町は6時59分である。この6分の違いは、電気がなく、蠟燭と菜種油の時代では、真っ暗闇の中から眩しい陽が差すことは心理的に非常に大きかった思われる。すなわち日出ずる処の本、ど真ん中、中央に東北町があったのである。要するに、神武東征以来、朝廷が肇国の課題としていた東夷蝦夷征伐の到達点、目標の中心の目印として日本中央の碑が打ち建てられたわけである。

 

火の元を
探りみちのく
討ち征けば
坂の上に在り
つぼのいしぶみ

 

 


義経寺

2023-06-10 17:06:23 | 日記

 距離は人間関係を気楽にさせる。目の前に居ると生々しくて、相手の機嫌に合わせなくてはならないけれど、遠く離れれば離れるほど、つい嫌な面や粘着性が薄らぎ、懐かしさに包まれやすくなる。

 稀代のヒーロー源義経は、高館義経堂(岩手県平泉町)を訪れると、終焉の地として生々しすぎて、瞑目しながら悲運に思いを馳せるしかない。思い詰めると心が苦しくなるばかりだけれど、いやいや織田信長と一緒で、誰も遺骸を見たわけでないのだから、自害した振りをしてこっそり落ち延びたことにすれば、追っ手でなければ心が休まる。

 義経北行伝説を端折ると、平泉町衣川の戦いから脱出し、遠野市、宮古市、久慈市(以上岩手県)、八戸市、青森市、外ヶ浜町(以上青森県)、北海道へと雄飛する。岩手県内だと潜行という感じだけれど、八戸市の長者山新羅神社まで来ると、息苦しさが軽くなる。言い伝えによると、義経が居るのがバレないよう柴で囲って木を植えこんだ程度だから、ほぼ無防備に近いくらい警戒を緩めている。

 北海道に渡る前の、津軽半島突端の竜飛岬辺りになると、義経ご本人は波よ鎮まれと祈祷三昧で必死だったけれど、後世に偲んで作った義経寺は海に迫る崖の上に在って寧ろ開けっ広げである。お参りする方も瞑目なんてせずに、チンギス・ハーンに生まれ変わる夢を見たりするのにぴったりの地勢である。県道281号線(あじさいロード)を利用すると、アクセス道は急斜面を降りていくことになり、まるで鵯越の逆落としのような風情になっているのが面白い。

龍飛崎
腰越えぬ状に
波鎮め
義経渡る
後世の夢乗せ