天愛元年

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新元号『天愛』元年にスタート

黒字の祝日

2021-12-26 09:54:28 | 日記
宇宙の真相への探究力に関して天才アインシュタインと馬鹿者私の差など大したことがないこらい複雑怪奇であることに改めて思い知らされた。きのうフィギュアスケート全日本選手権女子の部でトリプルアクセルを颯爽と決めて総合3位に食い込んだ高校2年生の河辺愛菜が所属する木下アカデミーが、卓球の張本智和が所属する木下マイスター東京、木原美悠の木下アビエル神奈川と同根の木下グループ傘下であることをやっと知った。木下工務店はいろいろやっていたんだ。
それより驚いたのが、この時季なので来年のカレンダーを見たら1月3日は黒字で書いてあって、国民の祝日でないことに気付いた。正月三が日はずうっと祝日と思い込んでいたけれど、本当は平日ながら、労働基準法上のお休みに過ぎなかったとは。世の中がこんなに複雑に出来上がっていることに、ほとんどの人が気付いていないと思われる。
きょう26日は眞子さまご結婚から丁度2カ月目。災厄の日本を離れ、さぞお寛ぎのことだろう。現地のパパラッチの動向はいざ知らず、本邦に大して流れてこないのは吉い報せの気がする。それにしても悠久の皇朝に花嫁を守る姿勢が一貫して窺えなかったのが情けなかった。訳も分からすファッションで憲法を云々する薩長の末裔どもにまで甘く見られるのも仕方ない。比叡山を焼き払った織田信長でさえ右大臣の官位を戴いたのに、こんな調子だと禁裏でさえ聖域でなくなってしまわないかと心配になる。

この年は 葉月で停まる 暦かな チャペルで着けよ ウェディングドレス





予測不能のリラ

2021-12-24 17:50:35 | 日記

 年末であれこれ忙しいというのに、このところ俯いたりすると吐き気がするようになり、脳に何か異変が生じているようである。
 クリスマスイブか。作り置きしたような予約ケーキはサンタの蝋が載せてあるだけで3割増し高いので、ネットで評判のローソンのゴディバチョコケーキを買った。甘過ぎそうな気がする。
 テレ東のモーサテは、前日に続き今日もNY支局の西野志海さんがクリスマス休暇らしく、出演無しで物足りない。市場参加者も減って、相場も半ば休み状態なので、働き方改革を率先して実践してもらうのが、インフルエンサーとして大事なことと思う。世界最大の株式市場からジングルベルの涼やかな音が聞こえてくるような時節である。ニューヨークのチャペルで新婚ほやほやのムードのあるクリスマスイブをお過ごしかと想像すると、眞子さまのご苦労も少しは報われるのではないだろうか。煩わしい家のしきたり、世間の卑しい目、イエローペーパーの偏見から逃れて、さぞすっきりされていることだと思う。と言っても、まだNY州の司法試験を突破しなければならない。クリスマス、ニューイヤーを心置きなく満喫してばかりもいられないだろうけれど、その緊張感もお二人の結束を固めるうえで避けて通れない道なので、むしろ充実感を以て乗り越えていってもらいたい。やっとつかんだ幸せをしっかり掴んでいってほしい。もう2度と悲しいお姿は拝見したくないものである。
 もう2度と失敗したくないと思っていたFXなのに、トルコ・リラは何がどうなったのか。20日には対円で6円台割れ寸前まで急落していたのに、本日は10円絡み、23日には高値11円10銭まで急反騰したのはどういうわけ? 参るね、やっぱり為替は怖い。
 何がどう飛び火するか、分からない世の中である。妹の佳子さまが心配である。当今の次の世代が唯一であり、その次の不確定要素を埋める為に、男系男子の養子縁組を超法規的に強行しようとするお相手に白羽の矢を立てられたら、悲劇以外の何物でもない。そんな者はよぼよぼ爺ィみたいなのしかいないのではないか。私が俯いて吐き気がするどころの話ではない。馬鹿メディアに食い物にされた眞子さまの方がよっぽどマシだったということになりかねない。そういう国家的陰謀、暴虐から佳子さまを守る先頭に立てと言われるなら、進んで引き受ける気構えである。

この度は 白無垢着せず 嫁にやる
すめら御国も まことに寒し



7つの疑問

2021-12-19 09:57:18 | 日記
クリスマスが近づき、昨日は息子と娘宅にシクラメン鉢とMozのボアルームシューズなどに、お年玉を添えて贈った。本来、打ち止め宣言前なら年賀状の書き入れ時でもある。新聞折り込み広告も正月用品特別バージョンが入ったりする。買ったことがないブランド品の久保田純米大吟醸酒が1570円とあるから、正月だし張り込むかと、よくよく見ると720ml瓶なので止めた。他の銘柄も、別のスーパーも含め、広告品は全て720mlしか見当たらなかった。一升瓶は既に絶滅危惧種となったのか。酒豪の称号である一升酒が飲めなくなるではないか。相撲取りが困るだろう。彼らが720ml瓶からお猪口に注いでチビチビ飲んでいたら、弱くなる一方ではないかと心配になる。国際計量法条約で一升という単位が禁止されたのだろうか。それともSAKEの海外輸出が好調なので、ワインやウイスキー瓶と同じくらいの背丈に揃えて、レストランやバーの棚に入り切らない一升瓶を自発的に廃止しようとしているのだろうか。日本文化の衰退に危惧の念を抱かざるを得ない。
夕方散歩をいろいろ工夫して道筋を変えても、出発地点と到着地点が不変だから、景色にそんなに代わり映えがしなくて、すぐ飽きる。退屈しのぎに、古い歌謡曲や童謡を口ずさむことになる。きのうは不意に聞こえたカーの声とともに『鴉』を歌って、ふと疑問が湧いた。「可愛い七つの子があるからよ」の7つを、ずうっと7羽と思い込んでいたけれど、7歳とも読めるなと考えたりした。故志村けんさんが「カラスの勝手でしょ」と続けて、ギャグにしてしまったから、その疑問を追究するインセンティブが消し飛んでしまった。しかし、考えれば考えるほど難解なテーマである。自分なりに哲学的考察を加えようと決意した。まさかこんな馬鹿馬鹿しいことを気にする奴はいないだろうと思ったけれど、念のためネットをチェックすると、踊る阿呆だけでなく、考える阿呆も居た。まず、科学的に鴉の産卵は1度に3~5個なので、同じ巣に7羽は居ないと否定された。また年齢は、鴉の寿命が7年に及ぶのは滅多になく、まして7歳の子どもというのはあり得ないそうである。どちらも不自然なら、歌詞自体に問題があるのか。ところが、作詞者の野口雨情の先祖に当たるという古代豪族の物部氏に遡り、7つには特殊な意味が含まれているとの説も出ていて、専門的すぎて消化し切れなかった。凡人以下の常識でしか考察できない者が回答を求めるとしたら、単なる歌唱上の問題ではないか、としか思えない。鴉の歌を実際に、「可愛い」1つから2つ、3つ、と歌い比べていくと、7つが一番ぴったり来るのである。これが『通りやんせ』なら、7つでなくても、1つでも2つでも5つでもいいのだけれど、鴉の曲調では7つ以外は歌いにくい。和歌を作っていても、本当はこういう事を言いたいのだけれど、語調の流れに合わないと、意より音を優先して言葉を選ぶことがある。童謡なので意味に拘ることなく、調子よく唄えれば良いのである。『かごめかごめ』の歌の意味を真剣に探っても何も得られない。同じ阿呆なら、歌わにゃそんそん。

やまとうた 万づ言の葉 用ふれど 賎しきこころ 詠はざりけり

うみ

2021-12-16 18:17:37 | 日記

 生まれてきたから生きる無目的な人生に特段生き甲斐のような物を持たなかったけれど、このところ前にも増して無気力になってきた。何にも見たり聞いたり読んだりする興味が湧かないし、政府にも近所にも勤め先にも腹を立てて文句を言い立てる気がしなくなった。その原因、きっかけをつらつら思い返すに、眞子さまの縁談への世の狂気に無情を感じたこともあるけれど、それよりもやはり猫の餌説教に行き当たる。やっとの思いで巡り合えた気の合うノラ猫に、散歩にいつも常備のカリカリを上げていると、近所の通行人に、無責任にエサを与えるのは近所迷惑であるが分からないのかと、こんこんと説教され、縁を絶たれた。人間生活上、潔く諦めるのも仕方のないことである。去年のコロナ蔓延緊迫時に、若い男にマスクを着けていないことを注意したお年寄りがボコボコにされ、重大な後遺症が残ったような悲劇を思えば、蛙の面に小便ほどのこともない。
 そのことに拘わらなくても、せっかく固まってきたように思えたかさぶたから、また膿が噴き出してきた。猫との強制離別となると、どうしても3年半前に死別した愛猫のことが生き返ってくる。抑えて、抑えて、やっと仏様との当たり前の挨拶ができるようになってきたのに、また直後の喪失の悲しみ、苦しみが襲ってくるようになった。彼なくして、同行二人の伴侶は存在しない。一緒に旅立とうと何度も約束していたのに、不意に何の予告もなく先立たれてしまった。まだまだやり残したことが山ほどある。どんなヒューマンリレーションとも掛け替えができない。事の重大性は予測していたけれど、それ以上だった。何の為に、誰の為に、残余があるのか分からない。楽しかったね、ミャー太ちゃん。

あてもなき 旅路に連れの 先発てば
足あと見えぬ 冬の夕暮れ 



饅頭

2021-12-13 16:06:24 | 日記

 かつてなら年賀状を気にしなければならない時季である。しかし、数年前に、喪中につき欠礼のお断り書きを送るべき時期に、私くしなどのために年末のご多忙時にお気を煩わせるのは申し訳ないので、今回より年賀状を廃止いたしますと宣言してから、ずいぶん楽になった。必死で書いても大概、気紛れの年賀状が数通届いて、返事に正月早々あたふたするのが物凄く嫌だった。それでも届くことがあるけれど、宣言後はもう罪悪感が無くなったので、余裕をもってしたためることができる。その後コロナが襲ってきて、年賀状どころか、生身の行き来もサボって良くなったのだから、ジャストタイミングで先見の明があったと自慢できる。これですっきりしたわけであるけれど、そうなると浮世のしがらみが断ててよくなった一方、生焼きで途切れた関係が懐かしく思い出されて、おかしなものである。押されれば引く、退かれれれば押したくなるのが人情の常なのかもしれない。
 この調子で、下がったところで売る、上がったところで買うことを繰り返していたため、リーマンショックやコロナショックなど大変動の都度、株式資産が縮小する一方である。若い頃、株式が額面50円を割り込んでもタンスに仕舞って置いたら、高度成長後に100倍以上になっていたというような話を聞かされ、その気になったけれど、いろいろ試しても、持ち株が100倍どころか2倍にもなったことがなかった。しかし、失われた20年、30年と言われた日本経済下でも、10万円の元手で始めて数億円に資産を増やしたという話をいろいろ聞き、やはりスポーツでも学問でも競争社会は、運の世界でなくて才能の世界であることに、ようやく気付かされた。世の中をなめて、勘違いして生きてきたのかもしれない。
 芭蕉の立石寺の句、閑さや岩にしみ入る蝉の声、ではないけれど、閑かさや耳にしみ入る虫の声、と長らく風流に解釈していた。しかし、冬になっても同じ様子なのでおかしいと気付き、単なる耳鳴りと意識したのはだいぶ経ってからだった。こういう物は意識すればするほど気になり、夜中など気が狂いそうになることがある。

子はでかく 孫寄り付かぬ 年の暮れ
すのうまんぢゅう かじる静けさ