年末であれこれ忙しいというのに、このところ俯いたりすると吐き気がするようになり、脳に何か異変が生じているようである。
クリスマスイブか。作り置きしたような予約ケーキはサンタの蝋が載せてあるだけで3割増し高いので、ネットで評判のローソンのゴディバチョコケーキを買った。甘過ぎそうな気がする。
テレ東のモーサテは、前日に続き今日もNY支局の西野志海さんがクリスマス休暇らしく、出演無しで物足りない。市場参加者も減って、相場も半ば休み状態なので、働き方改革を率先して実践してもらうのが、インフルエンサーとして大事なことと思う。世界最大の株式市場からジングルベルの涼やかな音が聞こえてくるような時節である。ニューヨークのチャペルで新婚ほやほやのムードのあるクリスマスイブをお過ごしかと想像すると、眞子さまのご苦労も少しは報われるのではないだろうか。煩わしい家のしきたり、世間の卑しい目、イエローペーパーの偏見から逃れて、さぞすっきりされていることだと思う。と言っても、まだNY州の司法試験を突破しなければならない。クリスマス、ニューイヤーを心置きなく満喫してばかりもいられないだろうけれど、その緊張感もお二人の結束を固めるうえで避けて通れない道なので、むしろ充実感を以て乗り越えていってもらいたい。やっとつかんだ幸せをしっかり掴んでいってほしい。もう2度と悲しいお姿は拝見したくないものである。
もう2度と失敗したくないと思っていたFXなのに、トルコ・リラは何がどうなったのか。20日には対円で6円台割れ寸前まで急落していたのに、本日は10円絡み、23日には高値11円10銭まで急反騰したのはどういうわけ? 参るね、やっぱり為替は怖い。
何がどう飛び火するか、分からない世の中である。妹の佳子さまが心配である。当今の次の世代が唯一であり、その次の不確定要素を埋める為に、男系男子の養子縁組を超法規的に強行しようとするお相手に白羽の矢を立てられたら、悲劇以外の何物でもない。そんな者はよぼよぼ爺ィみたいなのしかいないのではないか。私が俯いて吐き気がするどころの話ではない。馬鹿メディアに食い物にされた眞子さまの方がよっぽどマシだったということになりかねない。そういう国家的陰謀、暴虐から佳子さまを守る先頭に立てと言われるなら、進んで引き受ける気構えである。
この度は 白無垢着せず 嫁にやる
すめら御国も まことに寒し
生まれてきたから生きる無目的な人生に特段生き甲斐のような物を持たなかったけれど、このところ前にも増して無気力になってきた。何にも見たり聞いたり読んだりする興味が湧かないし、政府にも近所にも勤め先にも腹を立てて文句を言い立てる気がしなくなった。その原因、きっかけをつらつら思い返すに、眞子さまの縁談への世の狂気に無情を感じたこともあるけれど、それよりもやはり猫の餌説教に行き当たる。やっとの思いで巡り合えた気の合うノラ猫に、散歩にいつも常備のカリカリを上げていると、近所の通行人に、無責任にエサを与えるのは近所迷惑であるが分からないのかと、こんこんと説教され、縁を絶たれた。人間生活上、潔く諦めるのも仕方のないことである。去年のコロナ蔓延緊迫時に、若い男にマスクを着けていないことを注意したお年寄りがボコボコにされ、重大な後遺症が残ったような悲劇を思えば、蛙の面に小便ほどのこともない。
そのことに拘わらなくても、せっかく固まってきたように思えたかさぶたから、また膿が噴き出してきた。猫との強制離別となると、どうしても3年半前に死別した愛猫のことが生き返ってくる。抑えて、抑えて、やっと仏様との当たり前の挨拶ができるようになってきたのに、また直後の喪失の悲しみ、苦しみが襲ってくるようになった。彼なくして、同行二人の伴侶は存在しない。一緒に旅立とうと何度も約束していたのに、不意に何の予告もなく先立たれてしまった。まだまだやり残したことが山ほどある。どんなヒューマンリレーションとも掛け替えができない。事の重大性は予測していたけれど、それ以上だった。何の為に、誰の為に、残余があるのか分からない。楽しかったね、ミャー太ちゃん。
あてもなき 旅路に連れの 先発てば
足あと見えぬ 冬の夕暮れ
かつてなら年賀状を気にしなければならない時季である。しかし、数年前に、喪中につき欠礼のお断り書きを送るべき時期に、私くしなどのために年末のご多忙時にお気を煩わせるのは申し訳ないので、今回より年賀状を廃止いたしますと宣言してから、ずいぶん楽になった。必死で書いても大概、気紛れの年賀状が数通届いて、返事に正月早々あたふたするのが物凄く嫌だった。それでも届くことがあるけれど、宣言後はもう罪悪感が無くなったので、余裕をもってしたためることができる。その後コロナが襲ってきて、年賀状どころか、生身の行き来もサボって良くなったのだから、ジャストタイミングで先見の明があったと自慢できる。これですっきりしたわけであるけれど、そうなると浮世のしがらみが断ててよくなった一方、生焼きで途切れた関係が懐かしく思い出されて、おかしなものである。押されれば引く、退かれれれば押したくなるのが人情の常なのかもしれない。
この調子で、下がったところで売る、上がったところで買うことを繰り返していたため、リーマンショックやコロナショックなど大変動の都度、株式資産が縮小する一方である。若い頃、株式が額面50円を割り込んでもタンスに仕舞って置いたら、高度成長後に100倍以上になっていたというような話を聞かされ、その気になったけれど、いろいろ試しても、持ち株が100倍どころか2倍にもなったことがなかった。しかし、失われた20年、30年と言われた日本経済下でも、10万円の元手で始めて数億円に資産を増やしたという話をいろいろ聞き、やはりスポーツでも学問でも競争社会は、運の世界でなくて才能の世界であることに、ようやく気付かされた。世の中をなめて、勘違いして生きてきたのかもしれない。
芭蕉の立石寺の句、閑さや岩にしみ入る蝉の声、ではないけれど、閑かさや耳にしみ入る虫の声、と長らく風流に解釈していた。しかし、冬になっても同じ様子なのでおかしいと気付き、単なる耳鳴りと意識したのはだいぶ経ってからだった。こういう物は意識すればするほど気になり、夜中など気が狂いそうになることがある。
子はでかく 孫寄り付かぬ 年の暮れ
すのうまんぢゅう かじる静けさ