4月晦日。永井荷風の命日だそうである。NHKラジオ深夜便による誕生花は牡丹。花言葉は「風格」とか。NHK古典購読『王朝日記の世界』の「更級日記」次回第5回が待ち切れなくて、講師島内景二著『新訳 更級日記』をネット注文で買って、先回りして読み進めた。前回26日放送の富士山を通り過ぎると、上洛まで大したヤマ場もなく、京に帰り着いて「源氏物語」探求の生活が始まる。が、最初は自分の乳母や姉、姉の乳母らが次々と亡くなる不幸が襲う。そのうえ、姉と大事に飼っていた猫まで自宅の火事で死なせてしまった。誰にとっても猫との別れほど人生において悲しいものはないので、少し引き込まれたけれど、感情移入して涙が止まらないほどでなかった。父の仕官もうまくいかなかった程度で、時代を超えてはらわたに染みるほどの展開もなく、淡々と進むうちに、18歳に成人して4月晦日ごろに、いきなり京都市東山区に引っ越した話が出てくる。周りは田んぼで、山影が暗く、心細くなるような夕べに、クイナが頻りに鳴くのに、歌心が誘われて
叩くとも 誰か水鶏の 暮れぬるに 山路を深く 訪ねては来む
…クイナが木をトントン突っついて叩くように、家を構えているうちに日が暮れてしまった。こんな山深い処に誰か訪ねてくれる人は居るだろうか、と詠むのだった。
私はここで、伊勢物語の白眉、第83段の出家した惟喬親王を比叡山のふもとで雪深い八瀬の隠棲地に、在原業平が訪ねる名シーンが思い起こされた。
忘れては 夢かとぞ思ふ 思ひきや ゆきふみわけて 君を見むとは
…こうした感動的再会場面を、菅原孝標女も思い描いたのではないだろうか。
人間は生まれ落ちた時から不可逆的に進むしかない。老いも馬鹿さ加減も途中で止められない。立ち止まってしばし憩いたくても、憩った気分でいる間も待ったなしで時間が進む。時を止めてくれるかもしれない友を自分から捨ててきた。老いれば老いるほど奈落の底感と、もう引っ返せるかいというヤケクソ感のせめぎ合いとなる。雪踏み分けて、誰か山路を訪ねて来てくれたら、本望だろうなあ。
さらしなは
爺婆棄つる
山なるぞ
生霊見たくば
訪ね見に来よ