というわけで、通りすがりのぽんこつさんへの私信みたいなものですが、指原さん(と、取り敢えず呼んでみる)特別扱いについての言い訳をば。
まずはその特異才能に驚嘆というか、私の理解するところの指原さんの凄さを、素直に賞賛したい。これは多くの人が認めるだろう、コミニュケーション能力の高さ、巧みな話術と瞬発力を有することに加えて、こんなこと言ってるのは私だけかもしれないけど、ヒトとモノとコトの間に、しかも虚実を超えて関係性を構築する、物語を構成できる能力というのは、少なくともアイドルという枠組みでは、他に類を見ないと思う。
もちろんのこと、能力という点では、匹敵する人がいるかも知れないし、そもそも秋元氏という師匠が正にそうなんだけど、その秋元氏の世評が示す通り、多分に外見故か?決して正当に評価されることはない。それでも秋元氏は自ら発信してる方になるだろうけど、例えば構成作家と呼ばれる人なんかの場合、自分自身で発信できない。発信したとしても、指原さんほどの説得力を持ち得ない。表現者にはそれにふさわしいビジュアルが不可欠だし、注目を集め続けるためには、それ相応の歴史という名の物語を纏った立ち位置が必要。
指原さんのビジュアルには、しばしば疑問符が投げかけられるけど、アイドルとしてそれなりに十分に成り立つ容姿だと考えるし、その「立ち位置」については、あまりに見事すぎて、すべては秋元氏のシナリオであるかのよう。でもそうじゃないと私が捉えてるのは、既述の通り。それなりの場に立った時から、指原さんの周囲には、虚実にまみれた様々な物語が生成されて来た。こんなオモシロい人、見たことない。
そんな存在様式により指原さんは、近所のちょっとキレイな女の子とテレビの向こうのアイドルという、かつては間違いなく別物であったであろうものを、同一人物のなかに両立してしまった。リアルバーチャル連続体を実現してしまった。それは正に「会いに行けるアイドル」そのものであり、指原さんこそがAKBムーブメントの体現者、申し子と言うことになる。
そんな指原物語の中に、必然的にHKTも取り込まれていくわけで、けれどもHKTには、他のAKBGにはなかった「上品さ」があった。あの博多の地でなぜ、というのは置いとこう。指原さんの持つ物語生成力とは、枠組みを超える力ということでもあり、つまるところ何でもありなんであり、清濁併せ飲む、職業に貴賎なし的な比喩にもなるわけで、つまりは「下品さ」を内在せざるを得ない。そうじゃなくても、ドキュメンタリー映画「to be continued」を見ても分かるように、指原さん自身にも、隠れようもない田舎の女子中高生的な「下品さ」があった。ところがこの両者が合わさった時、HKTの「上品さ」を残したまま、そこにオモシロさが加わるという、あり得ないことが起こった。
上品と面白さ、言葉の範囲を狭めるなら、品のある言動、立ち居振る舞いと、分かり易い面白さとの相性の悪さは、特に説明とか必要ないと思うけど、それが今、HKTで実現してるように見える。これがいつまで持続できるのか分からないけど、当分は続きそうな感触がある。こんなオモシロい刹那を見逃す手はない。そしてそれは、指原さんあってのもの。
と言うわけで、指原さん(とHKT)へのバイアスは避けがたいことに。言い訳と言うよりは、現状の私の立ち位置表明かな。
まずはその特異才能に驚嘆というか、私の理解するところの指原さんの凄さを、素直に賞賛したい。これは多くの人が認めるだろう、コミニュケーション能力の高さ、巧みな話術と瞬発力を有することに加えて、こんなこと言ってるのは私だけかもしれないけど、ヒトとモノとコトの間に、しかも虚実を超えて関係性を構築する、物語を構成できる能力というのは、少なくともアイドルという枠組みでは、他に類を見ないと思う。
もちろんのこと、能力という点では、匹敵する人がいるかも知れないし、そもそも秋元氏という師匠が正にそうなんだけど、その秋元氏の世評が示す通り、多分に外見故か?決して正当に評価されることはない。それでも秋元氏は自ら発信してる方になるだろうけど、例えば構成作家と呼ばれる人なんかの場合、自分自身で発信できない。発信したとしても、指原さんほどの説得力を持ち得ない。表現者にはそれにふさわしいビジュアルが不可欠だし、注目を集め続けるためには、それ相応の歴史という名の物語を纏った立ち位置が必要。
指原さんのビジュアルには、しばしば疑問符が投げかけられるけど、アイドルとしてそれなりに十分に成り立つ容姿だと考えるし、その「立ち位置」については、あまりに見事すぎて、すべては秋元氏のシナリオであるかのよう。でもそうじゃないと私が捉えてるのは、既述の通り。それなりの場に立った時から、指原さんの周囲には、虚実にまみれた様々な物語が生成されて来た。こんなオモシロい人、見たことない。
そんな存在様式により指原さんは、近所のちょっとキレイな女の子とテレビの向こうのアイドルという、かつては間違いなく別物であったであろうものを、同一人物のなかに両立してしまった。リアルバーチャル連続体を実現してしまった。それは正に「会いに行けるアイドル」そのものであり、指原さんこそがAKBムーブメントの体現者、申し子と言うことになる。
そんな指原物語の中に、必然的にHKTも取り込まれていくわけで、けれどもHKTには、他のAKBGにはなかった「上品さ」があった。あの博多の地でなぜ、というのは置いとこう。指原さんの持つ物語生成力とは、枠組みを超える力ということでもあり、つまるところ何でもありなんであり、清濁併せ飲む、職業に貴賎なし的な比喩にもなるわけで、つまりは「下品さ」を内在せざるを得ない。そうじゃなくても、ドキュメンタリー映画「to be continued」を見ても分かるように、指原さん自身にも、隠れようもない田舎の女子中高生的な「下品さ」があった。ところがこの両者が合わさった時、HKTの「上品さ」を残したまま、そこにオモシロさが加わるという、あり得ないことが起こった。
上品と面白さ、言葉の範囲を狭めるなら、品のある言動、立ち居振る舞いと、分かり易い面白さとの相性の悪さは、特に説明とか必要ないと思うけど、それが今、HKTで実現してるように見える。これがいつまで持続できるのか分からないけど、当分は続きそうな感触がある。こんなオモシロい刹那を見逃す手はない。そしてそれは、指原さんあってのもの。
と言うわけで、指原さん(とHKT)へのバイアスは避けがたいことに。言い訳と言うよりは、現状の私の立ち位置表明かな。