THE 羅針盤・・・キックボクシング

(旧キックボクシングの羅針盤)
豊富な経験と知識から【経営】【アポ無し行動学】を伝えていきます。

エレベーターメーカーの営業にびっくり!

2007-07-20 03:52:19 | Weblog
最近まで、あるエレベーターメーカーの営業をやっていた。
その業務内容は、エレベーター内もしくはその物件に設置してある監視カメラの
リース更新営業だった。
まず座学で、エレベーターの勉強。長い。
その合間に監視カメラのリース契約書をアウトプットする作業。
リースのカメラの台数がなど記載。
しかし、驚いたのは、顧客情報のリストがないと言うのが、途中で気づいた。
テレマーケティングの仕事をしていたので、入電の際は必ず顧客情報を入力し履歴に残す。
しかし、このエレベーターメーカーはそれがない。だから、建物もしくはエレベーター内のどこに
設置があり、どこスペックのカメラが設置してあるか把握してない。
だから、営業マンはメンテナンスの人間に「この物件どこにどのカメラが設置してあるの?」
と確認しなければ、分からない。だから、出来る営業マンとそうでない営業マンの差が出てくる。
派遣社員は大変。この仕事は、初めの1ヶ月で契約を解除した。この業界は本当に危ない。
顧客情報リストがない時点で終わってる。エレベーター事故が起きるのも分かる。
まず、顧客情報リストを作成すれば無駄な営業はなくなる。
そうすれば、派遣社員も必要ない。
効率を上げた方が良い。

営業職プロジェクト その2

2007-07-20 03:32:17 | Weblog
2つ目のプロジェクトは、医療機関(クリニック)の法人営業だった。
このプロジェクト、本来6ヶ月だった。3名体制で行っていたが、
途中でプロジェクトマネジャーが抜けた。その後新しいプロジェクトマネジャー
が急遽招集された。

その後に俺が加わる事に、東京駅の丸の内側のビルの一角に出来た。
その周辺の企業様にご利用頂く為にこのプロジェクトは発足した。
そのボス(クリニック側)は大手財閥系の元幹部だった。
ゴルフ焼けしていた。

まずリスト(ヤフーの電話帳)を片っ端から電話でアポを取る。
しかし、俺が入る前はクリニック周辺の企業にご案内出来たが
俺が入る頃は八重洲側(JR山の手線を挟んで逆側)
中々取れない。しかし、激しい営業で何とかプロジェクトは終了した。

東京都内は、今駐車禁止の取り締まりが厳しい。しかし、その条例が出来る1年前
中央区だけが実験的に駐車禁止を厳しくしたらしい。
それもあり、バス検診が出来なくなった。その企業を狙い営業をかけた。
正にベストタイミングだった。
ここまで、マーケティングがしっかりしてるプロジェクトだと営業マンもやり易い。

営業職でのアウトソーシングの実情

2007-07-20 03:09:39 | Weblog
俺は、リクルートスタッフィンが請け負った営業職のプロジェクトを
3つ経験してる。
まず、1つ目はラーメン屋さんに置いてある、券売機の飛び込み営業。
元々、その会社(G社)は病院に待ち受けの発券機を販売していた。
その会社は、お金を読み込むもの全般を取り扱っていた。
銀行のATM、自動販売機、券売機、両替機。
俺が担当したのは、券売機だった。

本来、販売代理店に口約束で年末辺り、工場の作業員に券売機の
パンフレットを販売代理店支援も踏まえ配りますよと約束したらしい。しかし、
その年はお札が新しいものに切り替わりそれどころでは
なかった。
メーカーとしても、口約束でも約束は約束なので絶対に人間は出すとの意向だった。
その時、タイミング良くリクルートスタッフィングの営業マンが入り込んだらしい。
そして、このプロジェクトはスタートする事に。計10人のプロジェクトだったと思う。
メーカーに2人、販売代理店(東京4名、九州2名)プロジェクトマネジャー2名。
九州は車での営業。東京は電車で駅周辺のラーメン屋さんなどを飛び込み営業。
その情報をアクセスに入力したと思う。
東京の販売代理店に派遣された4名にはミッションがあった。
その代理店、以前は他社(K社)の券売機を扱っていた。そこのメーカーの
出身者が社長を勤めていた。しかしそのK社が券売機の製造を中止すると発表した。
だから、販売代理店の社長はあせった。そこで、俺たちの派遣されたG社に
商品の取り扱い代理店として認めてもらえないだろうかと打診した。
そう言った経緯があった。

しかし、製造中止を発表した(K社)が再度製造すると発言を撤回してしまった。
と言う経緯があり、2つのメーカーの商品を扱う事に。
しかし、K社出身の代理店だからK社の商品に愛着がある。
すると代理店契約したGの商品は売れない。代理店契約をしたからその値段で卸してるにも
関わらず。
そこで、俺たちがそのG社の人間に言われたのは、とにかく商談を取って来い。
そこで、代理店がG社の商品を売るかどうかで販売代理店契約の継続か打ち切りか決めると
の事だった。
引き合いは、やはり多い。改札の時期も重ったのもある。さすがに代理店もG 社の商品を売っていた。
無事プロジェクトも終わった。

つづく・・・・・

多摩大学の思い出

2007-07-20 02:41:08 | Weblog
私は実は多摩大学に在籍していた時期がある。残念ながら、中退した。

入学が1977年だった。印象的な出来事は、入学して1週間経過した頃

授業の教科書を新入生が購入すると言う知らせがあった。

1階で現金を支払い、購入すると言うものだった。しかし、入学生も結構な人数がいる。

全ての学生が購入が終わるまで1,2時間かかったと思う。

後日その授業の時、一人の男子学生がその授業の担当の教授にその事をかなり強く

講義中に指摘した。

するとその教授は、学生に紙を配り

「皆さん何時間も待たれて退屈だったと思う。では、あなたならどうします?」

教授は一言も学生に謝罪もなく黙々を講義を続けた。

その次の講義で解答として面白い意見をその教授が発表した。

俺の名前もあった。その内容は、「入学の際に料金を先払いで支払い、講義中に配布すれば

あの様に待つ必要はなかった」と言う簡単なものだった。

この答えが確か、5人位いた。

今思えば、この授業が社会人になって、凄く約に立ってる。


プロのキックボクサーになった時も常に問題意識を持って練習に取り組んでいた。

俺の個人的な意見ですが、急速なスピードで上達した。

多摩大学で訓練された、問題意識を持つ習慣。

この意識は30歳になった今でも持ち続けてる。

あの大学は偏差値は低いのにいい授業をする。

おれが在籍していた時は、野田学長だったが、

その後グレゴリー・クラーク氏(日本初の外国人学長)

続いて中谷 巌。

俺がいた時から10年経って今の状況は分からない。しかし、あのアプローチを

10年前にしてる大学はなかったと思う。

今の営業職のアプローチに繋がって来る。