注射するだけで老化の進行を遅らせられる? 順天堂大チームが開発した「老化細胞除去ワクチン」
デイリー新潮 より 220706 新潮社
有史以来、人類が求めた“奇跡の妙薬”が現実になる日が近づいている。順天堂大学の研究チームが開発したのは人体に注射するだけで老化の進行を遅らせるワクチンだ。世界が注目するアンチエイジングの最前線を、科学ジャーナリストの緑慎也氏がレポートする。
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10年で市場に
【】世界的な研究をリードする南野教授
初めて中国全土を統一した秦の始皇帝は、家臣に不老不死の妙薬を探させたと伝えられる。同様に、中世ヨーロッパで権勢を振るった各地の王も、錬金術師に自らの死を回避させる秘薬の調合を命じたという。
永遠の命とまではいかなくても、若さや健康の維持を求める人間の願いには、時代も洋の東西も関係ないようだ。それは医学や科学が目覚ましく進歩した現代でも変わらないが、「不死」はともかく、我々は「不老」には手が届きそうなところまで来ている。
⚫︎キーワードは「老化細胞」
ワクチン注射で老化を防ぐ――。こんなニュースが世界を巡ったのは、昨年12月10日に科学誌「ネイチャー・エイジング」オンライン版で公開された論文がきっかけだった。
「ワクチンの役割は感染症への抵抗力を人体に与えるだけではありません。私たちのワクチンを接種したマウスで糖尿病につながる糖代謝異常が改善されたり、動脈硬化の病巣が縮小したりすることを確認しています」
そう語るのは研究チームのリーダーで、順天堂大学大学院医学研究科循環器内科教授の南野徹氏だ。チームが開発中のワクチンには、老化が早く進み寿命が短い早老症マウスの寿命を延ばす効果が確認されたという。その詳しいメカニズムに迫る前に、南野氏らが開発したワクチンと、老化予防との関係を説明しておこう。
キーワードは「老化細胞」だ。正常細胞は一定期間ごとに分裂するが、老いた細胞(老化細胞)は分裂しない。といっても活動をすべて停止するわけでもなく、さまざまな炎症物質を周囲に活発にまき散らす。俗に「ゾンビ細胞」と呼ばれる。
「老化細胞の蓄積による慢性炎症が糖尿病、動脈硬化、アルツハイマー病などの加齢に伴う疾患の発症や進行を引き起こすと考えられています。われわれのワクチンはこの老化細胞を減らすのです」
⚫︎なぜワクチンが効果的?
なぜワクチン接種で老化細胞を減らせるのか。普通のワクチンは、毒性を弱めたウイルスなど病原体そのものか、病原体の特徴の一部を持つ。実際に病原体が体に入ってきたとき免疫系の飛び道具「抗体」を速やかに体内に作り出すのが主な目的だ。たとえばファイザー製やモデルナ製の新型コロナワクチンには、ウイルスの表面にある「トゲ」(スパイクタンパク質)を体内で作り出す働きがある。このトゲの形に合わせた抗体を作り、免疫系が病原体を速やかに攻撃できるようにするのだ。
老化細胞除去ワクチンにとって、このトゲに当たるのがGPNMBと呼ばれるタンパク質だ(以下GP)。
「GPを標的とするワクチンの接種により免疫系を鍛え、老化細胞の除去を早めようという発想です」
GPは老化細胞でどんな働きをしているのか。
「まだ仮説ですが、GPはリソソームと呼ばれる細胞内小器官に作用しているのではないかと考えています。リソソームは細胞内で不要になったタンパク質を分解する、いわばゴミ処理場のような機能を持っていますが、GPはその働きを維持できるようにサポートしているのではないか」
老化細胞ではリソソームが弱り気味であるため、GPがお助け隊としてたくさん駆り出されるのかもしれない。だからこそ目印として活用できるわけだ。
⚫︎当初は受け入れられず…
南野氏が研究を始めたのは約20年前のことだ。千葉大学医学部を卒業し、循環器内科の臨床医として医療現場に立つうちに、心筋梗塞や動脈硬化の治療の難しさを痛感するようになったという。
「急性心筋梗塞で病院に運びこまれてきた患者さんに対して、たとえばステント(筒状の医療機器)で血管を広げる治療をしても、一時的には効果があるのですが、しばらくすると血管の別の場所が詰まって運ばれてくる。そこを治療してもまた別の血管が詰まる」
それはさながら「もぐら叩き状態」である。
「ステント治療は命を救う画期的な技術ですが、長期的に血管を元に戻せるわけではありません。何か別のアプローチはないかと研究しているときに血管の細胞の老化というテーマに出会いました」
だが当初、学会などで研究内容を発表しても「血管と細胞の老化に何の関係があるのか」と取り合ってはもらえなかったという。
⚫︎糖尿病患者の内臓脂肪に老化細胞が蓄積
潮目が変わったのは2002年、ハーバード大学医学部留学から帰ってしばらく経った頃だった。ヒトの動脈硬化の病巣に老化細胞が蓄積していることを世界ではじめて証明し、医学誌「サーキュレーション」に発表したところ医学界で大きな注目を集めたのだ。
「これをきっかけに、動脈硬化と血管の老化の関係が重要であると認識する研究者が増えたと思います。その後、我々は糖尿病の患者さんの内臓脂肪に老化細胞が蓄積していることも証明した。その論文もよく引用されています」
南野氏は血管の内側を裏打ちする血管内皮細胞の老化に関する研究を進め、13年頃、遺伝子データベースを活用し、ついにGPにたどり着いた。
「それから8年かけて、老化細胞除去ワクチンの研究成果を論文にまとめることができました。研究には長い時間がかかるんですよ」
⚫︎始まった老化細胞除去薬探し
日本発の老化細胞除去ワクチン。その効果はまだマウスで確認されただけである。が、「ヒトへの応用の第一歩です」と期待を寄せるのが、公益財団法人がん研究会がん研究所「細胞老化プロジェクト」プロジェクトリーダーの高橋暁子氏だ。
「15年から、老化細胞の除去を目的とする研究が爆発的に進んできました。この年、抗がん剤として使われているダサチニブと、植物に含まれる黄色い色素で、フラボノイドの一種のケルセチンを組みあわせてマウスに投与すると、老化細胞が除去されたという論文が出たのです。これを発表したのは米メイヨークリニックの研究者らで、彼らはこれら二つの薬剤の投与により、加齢に伴うさまざまな疾患の症状が緩和したとも報告し、世界に衝撃を与えました」
こうして、新たな老化細胞除去薬探しが世界中で始まった。だが、候補薬のほとんどは既存の抗がん剤の中から見つかったものだという。
「南野先生らの、ワクチンによって老化細胞を除去するというアプローチは全く新しいものです」
⚫︎老化細胞ががんを防ぐ?
体に悪影響を及ぼす老化細胞を取り除けば、たしかに健康になりそうだ。しかし、どうして人体には老化細胞なるものが年を取るにつれてたまっていくのか。
「細胞がさまざまなストレスを受けると、中に収められた生命の設計図であるDNAに傷が入ります。少しの傷なら修復機構が働いて正常な状態を取り戻せますが、修復できないほどの傷が入る場合もある。このときアポトーシスと呼ばれるプログラムが働けば、細胞が自ら死んで事なきを得ます。ところが、アポトーシスの仕組み自体が壊れた細胞は、がん細胞か老化細胞になるのです」
延々と分裂し続け、生命に差し迫った脅威を与えるがん細胞に比べれば、分裂しないまま生きている老化細胞の害は少ないように思える。
「がんを抑制するのが老化の役割の一つです。老化の仕組みが働かないマウスを作ると、がんを発症することをわれわれも実験で確かめました。細胞は老化することでその細胞自体ががんにならないようにしているだけでなく、老化細胞が免疫系に働きかけ、周囲の異常な細胞を排除してがんを防いでいると考えられています」
⚫︎老化細胞の「二面性」
だが、その一方で老化細胞は炎症物質を出し続け、その影響で肉体は徐々に蝕まれてしまう。
「実は、がんの発症率や転移率は老化細胞の蓄積によって上昇するのです。マウスに高脂肪食を与えて太らせると、老化細胞がたくさんできるのですが、高い確率で肝がんを発症します。また、マウスにタバコの煙を吸わせると、肺に老化細胞が増えるとともに肺へのがん転移率が上がることも分かっています」
老化細胞はがんを抑制するかと思いきや、一転してがん化を促進し始める。高橋氏はこれを「老化細胞の二面性」と呼んでいる。
「細胞の老化にはがんを抑制するだけでなく、傷の治りを早くしたり、病原体に感染した時に免疫系の攻撃部隊を早く呼び込むなどの作用があります。ところが老化細胞が一定数以上に増えると、今度は悪さをするようになるわけです」
仮に免疫系が正常に働いていれば、老化細胞は適切に除去される。しかし、加齢で免疫系の機能が衰えたり、細胞がストレスを受けて老化細胞が過度に増えたりすると、老化細胞の出す炎症物質によって慢性炎症が起こってしまう。
「とくにがんが発生した後、老化細胞はがんを抑制するのではなく、悪性化や転移の方に寄与しているのではないかと見られています。日本でも年齢が40歳を超えるとがんの罹患率が跳ね上がるのは、老化細胞の蓄積と関係があるかもしれません」
⚫︎顔の片側だけ老化
細胞は生きている間にさまざまなストレスを受ける。いまや目の敵にされている肥満、喫煙、高血糖などがその最たる要因だ。
「最近では新型コロナウイルスの感染が気道や肺の細胞を老化させるとする論文も発表されています」
老化細胞の影響を如実に示す例として有名な写真がある。男性の顔を正面から捉えた写真なのだが、顔の左半分にだけシワが深く刻まれ、たるんでいるというもの。顔の片方だけが古老のように老いているのだ。
「この写真はわれわれの業界ではよく知られています。この方は撮影時69歳でした。アメリカのトラック運転手で、28年間、運転中に左側から日差しを浴び続けたそうです。顔の左側だけ年を取ったように見えるのはそのせいだと考えられます。12年にアメリカの医学誌に掲載された論文では、紫外線ストレスによって顔の片側の老化が早まったと報告されました」
年齢が同じでも若々しい人もいれば、老けて見える人もいるのは当然だが、この写真が興味深いのは、同じ一人の人間でも、ストレスを受けた場所の違いで、老いのスピードが変わることだ。
「生年が同じなら“物理学的加齢”はみな同じ。しかし、老化細胞がどれだけたまったかで表される“生物学的加齢”は生年が同じでも個人差がある。もちろん、我々が重視しているのは生物学的加齢ですね」
⚫︎老化細胞の蓄積量は測れる?
では、いかに生物学的加齢を測定するのか。糖尿病のリスクを評価するには血糖値が、心筋梗塞や脳梗塞のリスクを評価するなら血圧というように、特定の指標が生物学的加齢にもあるのだろうか。
「まさに今、老化細胞が体内にどれくらい蓄積しているかを表す指標を巡り、世界中で研究が進められているところです。日本で17年にスタートした国立研究開発法人日本医療研究開発機構(AMED)の『老化メカニズムの解明・制御プロジェクト』や、21年にスタートしたアメリカ国立衛生研究所(NIH)の『細胞老化ネットワーク』の主たる目的の一つがこの指標の確立です」
マウスなら解剖することで、老化細胞がどれくらい蓄積しているかを調べることが可能だ。しかし、生きている人間の場合は血液や尿、唾液といった体液の成分を調べた上で、老化細胞の量を推定するしか方法はない。
⚫︎「一般化」への努力
では、もし正確な指標があれば、「あなたの生物学的加齢は70歳。物理学的加齢の50歳より年を取り過ぎているので、老化細胞を除去しましょう」との診察をもとにした治療が一般化するのだろうか。
先の南野氏は、現状では難しいと語る。
「その理由は、厚生労働省が老化を病気と捉えていないから。だから“老化を治す”という効果や効能を持つ薬が保険適用されることもないんです」
加齢に伴う疾患は決して少なくない。動脈硬化や糖尿病、アルツハイマー型認知症、肺線維症、慢性腎臓病、変形性膝関節症……。少なくともマウスを用いた実験では、老化細胞を除去することで、さまざまな症状が改善することが報告されている。にもかかわらず、広範囲に効果があることを理由に一般的医療として認められないというのであれば何とも歯痒い話だ。
「だから、まずは特定の疾患に対する老化細胞除去ワクチンの有効性を検証したいと考えています」
では、その特定の疾患とは何か。
「目下選定中ですが、まだ有効な治療薬のない疾患が最初の候補になる。マウス実験でわれわれの老化細胞除去ワクチンに動脈硬化の症状を改善する効果があると思われましたが、すでに動脈硬化には良薬がある。疾患を特定できたら効果を示して保険適用を達成し、段階的に対象疾患を増やしていきたい」
⚫︎これまで難しかったがんの治療に
一方、がん研で老化細胞とがんとの関係に注目して研究を進める高橋氏が望んでいるのは、まったく新しいタイプのがん治療薬だ。
「確かに分子標的薬や、オプジーボなどの免疫チェックポイント阻害剤は画期的な治療薬ですが、それでも奏効しない患者さんは一定数存在します。これらの薬は特定の遺伝子の変異によって発症したがんには効きやすい一方、喫煙や肥満、加齢といった、遺伝子にランダムな変異が入った結果として発症するがんには効きにくい。老化細胞を標的とする治療薬によって、これまで難しかったがんを治療できるようになることを期待しています」
老化細胞は炎症物質を出して慢性炎症を引き起こすなど、人体に悪影響を及ぼしているとはいえ、それを取り除いたら取り除いたで、例えばがんが発症しやすくなるなど、何か不都合はないのか。
「最近の論文では、たくさんある老化細胞を除去しすぎると臓器の形を保てなくなったり、血管を再生できなかったりといった弊害が起きると報告されています。それに対して、老化細胞そのものを除去するのではなく、老化細胞が出す炎症物質をブロックするような治療法を模索すべきだという考え方も生まれているんですよ」
⚫︎抗体医薬のデメリットは
先の南野氏も、老化細胞を根絶やしにする必要はないと強調する。
「がん細胞の場合は手術や抗がん剤治療などで根こそぎ除去しないと、どこかに残った1個が分裂をくり返して再発してしまいます。しかし、老化細胞ならゼロにする必要はなく、半分にすれば効果が出ます」
先述の通り、南野氏らのワクチンは免疫系に働きかけてGPというタンパク質を目印に抗体を作らせ、老化細胞を除去できるようにするものだ。ワクチンは免疫系に抗体を作らせるが、GPを目印に老化細胞を攻撃する抗体自体を直接送りこむ方法もある。いわゆる抗体医薬だ。
「現在、人への応用に向けてワクチンとともに抗体医薬の開発も進めています。ワクチンと抗体医薬のどちらにも一長一短があり、ワクチンの場合は目印とするタンパク質(抗原)に対する抗体が複数できます。その分、効き目が高いと考えられますが、逆に言うと、どんな抗体ができるかは免疫系次第なので、こちらではコントロールできない。一方、抗体医薬では基本的に1種類の抗体を送りこみますが、何か副作用が出た時は投与を中止すればいい。ただし、抗体医薬はワクチンに比べると製造コストが格段に高い。その点が大きなデメリットです」
⚫︎副作用の心配は?
老化細胞除去ワクチンの接種には、副作用の心配はないのだろうか。
「マウス実験では副作用が少なく、効果が長く持続することを確認しています。既存の抗がん剤を元にした老化細胞除去薬では、アポトーシスを止めている遺伝子の働きをブロックするように作用するものが多いのですが、これだと元々アポトーシスを起こしにくい血球系の細胞にも作用してしまうので、貧血になったり白血球が減少したりなどの副作用を起こしやすいのです。われわれのワクチンはそれに比べると、精度よく老化細胞に絞って取り除ける治療になると考えています」
今、ヒトでの安全性を確かめる臨床試験の準備をしているところというが、今後の課題にはリアルな側面も。それは医術より算術、つまり資金集めだという。
「ワクチンや抗体医薬の開発にも、臨床研究の実施にも巨額の資金が必要です。まずはスタートアップを作って、VC(ベンチャーキャピタル)の方に出資してもらう予定。幸い、昨年末に論文を発表すると、国内外から連絡を頂きました。どこと組むかを検討しているところです」
⚫︎「ワクチンが市場に出るのは10年後くらい」
南野氏は5年以内に結果を出したいと意気込む。
「その次の段階で、特定疾患に苦しむ患者さんへの臨床試験を開始したい。早く見積もっても、ワクチンが市場に出るのは10年後くらいでしょうか」
10年と聞いて、思わずため息が出そうになった。が、南野氏も高橋氏も、表情はあくまで明るい。
「人類が科学的な方法で老化をコントロールし、健康長寿を実現する可能性が出てきたということ。研究者の世界では、10年なんてあっという間ですよ」(高橋氏)
歴史上の偉人たちが欲した夢の薬。その実現は、現代人の手が届くところにまで近づいている。
▶︎緑 慎也(みどりしんや)科学ジャーナリスト。1976年大阪府生まれ。
出版社勤務後フリーとなり、科学技術等をテーマに取材・執筆活動を続けている。著書に『消えた伝説のサル ベンツ』(ポプラ社)、近著に『太陽系の謎を解く』(新潮選書、NHK「コズミックフロント」制作班との共著)がある。
「週刊新潮」2022年6月30日号 掲載
「週刊新潮」2022年6月30日号 掲載