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【日本は地熱大国になれるか?】世界が羨むポテンシャル 純国産エネルギーで「地熱革命」を起こせ 202408

2024-08-30 01:14:00 | 気になる モノ・コト

【日本は地熱大国になれるか?】世界が羨むポテンシャル 純国産エネルギーで「地熱革命」を起こせ
 Wedge より 240830  鈴木賢太郎


 JR盛岡駅から車を走らせること約80分。山道を縫うように進んだ先に、雄大な自然と調和したウグイス色の発電所棟と茶色の配管網が姿を現した。標高1130メートルに位置する安比地熱発電所(岩手県八幡平市)に到着すると、7月下旬にもかかわらず、半袖のシャツでは肌寒さが感じられた。
 東北有数のスキー場があることで知られる岩手県八幡平市の安比高原に、安比地熱発電所は建設された(APPI GEOTHERMAL ENERGY CORPORATION)

 出力1万4900キロワット(kW)を誇る同発電所は、今年3月に営業運転を開始した。しかし、地質の調査開始から運転開始に至るまでに四半世紀の年月を要した。
 安比地熱(同前)の菅野雄幸社長は「既存の地熱開発の難点は、最低10年以上というリードタイムです。地熱資源の調査や環境評価、井戸の掘削、発電所の建設など、越えるべきハードルは多い」と話す。

 また、地熱発電の特有の仕組みが開発リスクを高めている。その仕組みはこうだ。
地下1000~3000メートルまで浸透した雨水がマグマで加熱され熱水となり、岩盤の下やそのすき間に蓄えられることで「地熱貯留層」を構成する。
 ここに向けて井戸(生産井)を掘り、熱水や蒸気をくみ上げタービンを回している(次ページ図)。しかし、地熱貯留層を掘り当てることは容易ではない。
 安比地熱の兼子高志技術部長は「生産井を1本掘削するのに数億円のコストがかかります。事前に調査していても実際に掘削すると、貯留層に当たらない場合もある」と話す。

 自治体や地元住民との合意形成も一筋縄にはいかないことが多い。八幡平市は1960年代から地熱発電で得られた蒸気を地元のホテルや民宿などに供給し、産業が発展したという経緯があるため、問題は生じなかった。
 しかし、多くの場合は、自治体や地元住民から建設に難色を示されたり、温泉事業者が地下資源の枯渇や温度低下を懸念し開発が難航したりするケースが少なくない。

 安比地熱発電所の事業化を進めた三菱マテリアルには現在、国内4カ所で地熱発電所の開発計画がある。同社の山岸喜之再生可能エネルギー事業部長は「FIT(固定価格買い取り制度)やFIP(フィードインプレミアム制度)により、安定した収益が見込め、『出口』が保証されているため、事業性の絵は描きやすい。
 一方、開発リスクが大きく、投資に対するリターンが得られるまでに10年以上を要するなど、地熱開発の『入り口』には大きな課題があります。事業者のリスクを低減させるために、国主導の技術開発や地熱調査の拡充を期待したい」と話す。

 火山活動が活発な日本は世界第3位の2347万kWの地熱資源量を有する「地熱大国」だ。地熱発電は太陽光・風力発電と比較し、24時間安定的に発電ができるベースロード電源でもある。しかし、その設備容量は約60万kWで、日本の電力消費量の約0.3%にすぎない。

 2021年に閣議決定された第6次エネルギー基本計画では、30年の地熱導入量を148万kWと見込み、開発リスクの低減や技術開発のための予算確保などの支援策を実施した。しかし、発電所の新設は少なく、目標の達成に青息吐息の状況だ。

 この要因について、国際エネルギー機関(IEA)地熱部門の議長で、エネルギー・金属鉱物資源機構(JOGMEC)の安川香澄特命参与は「日本の政策支援は諸外国と比べ、決して低いというわけではありません。
 しかし、森林法や自然公園法、土地所有法など、数多くの法律が地熱開発を妨げています。そのため、たとえ地熱開発を促進する新法を制定しても既存のしがらみを取り払うことは難しそうです。
 例えば、山地の道路や橋梁などの強度が資機材の重量に耐えられず、分解して運搬するためにコストがかさむなど、新法の制定や規制緩和だけでは解決できない日本固有の課題も乗り越えていく必要があります」と指摘する。

 また、地熱発電に詳しい九州大学工学研究院の藤光康宏教授は「地熱資源の約8割がある国立・国定公園の地下の掘削に関する規制緩和はされたものの、事業者側が地表への影響を懸念し、強引な開発を避けていることも一因と考えます」と話す。

 さらに、掘削技術者の養成機関として22年4月に開校したジオパワー学園掘削技術専門学校(北海道白糠町)の島田邦明理事は「地熱に特化した掘削技術者は日本国内に250~300人しかいません。30年目標の達成を難しくしている背景には、技術者不足の影響もあるでしょう。中長期的に地熱産業を発展させるためには、地熱に精通した掘削技術者の養成が不可欠です」と話す。

 一方、ロシア・ウクライナ戦争後のエネルギー情勢の混乱の中、各国はしたたかに資源の獲得にまい進している。火山帯がなく地熱資源が限られる英国では、約40年にわたる調査研究が実り、南西部のコーンウォールで出力3000kWの地熱発電所が今年中に稼働する予定だ。
 前出の安川氏は「日本と同じ島国である英国は、地下5キロメートルを超す井戸を掘り地熱発電所を建設するほど、エネルギーの確保に必死です。日本は英国が羨むほどの地熱資源を有しており、そのポテンシャルをもっと生かせるはずです」と話す。

⚫︎米国が本気で取り組む次世代地熱のポテンシャル
 在来型の地熱発電の普及には乗り越えるべき課題が数多くある。しかし、元経済産業審議官の片瀬裕文氏は「地熱発電は技術のイノベーションにより、飛躍的に成長する時期に差し掛かっている」と話す。

 実際、米国は地熱発電を大幅に拡大させようとしている。米国エネルギー省(DOE)は今年3月、「Pathways to Commercial Liftoff:Next-Generation Geothermal Power(次世代地熱発電:商業化への道)」というレポートを発表した。これは、現在世界各地で実証実験が行われている地熱増産システム(EGS)やクローズドループという次世代地熱発電の方式(下記図)が30年頃に商用化できることを示しており、30年には全米で10~15ギガワット(GW)、50年までに90~300GW(原発90~300基分)の発電所が建設される見通しであるとしている。現在の米国の地熱発電量が3.4GWであることを踏まえると、革新的な内容といえる。


※1 地熱増産システム(EGS):地上から高い水圧をかけ地中に割れ目を作り地熱貯留層を人工的に造成および水を圧入し、蒸気を生産する方法
※2クローズドループ:地上と地下数千メートルをつなぐ網目状のループを掘削し、その中で水を循環させ、水を介して地下の熱を取り出す方法 写真を拡大
 このレポートには二つのポイントがある。一つは、地熱の資源量が圧倒的に拡大するということだ。在来型の地熱発電は、地下に「熱」「透水性(水)」「地熱貯留層(器)」という3つの条件が揃わなければ開発は困難だ。しかし、次世代地熱発電は、人工的に器を作り出し、地上から水を注入するため、原理的には熱源さえあればどこでも発電が可能になる。DOEは米国の地熱資源量は、在来型の地熱発電を前提とした場合の40GWから、次世代地熱により5500GWに拡大するとしている。

 もう一つは、個々の開発プロジェクトに銀行が融資しやすくなるということだ。在来地熱は十分な熱水が地下にあるとされていても、長期間にわたり減衰せずに利用できることの評価が難しく、米国では銀行が地熱発電に融資しにくいという状況があった。しかし、次世代地熱は地下のリスクが極めて小さくなるので、銀行が融資しやすくなり開発スピードも速くなることを示している。

⚫︎国家の存亡をかけて地熱技術大国を目指せ
 前出の片瀬氏は「次世代地熱の採算性を確立するためには掘削コストの大幅な低減などの技術課題がありましたが、米国は、これらの技術課題はほぼ解決の見通しが立ちつつあるとし、24年から50年まで、2年ごとの発電量の具体的な導入見通しを掲げ、本気で次世代地熱を推進しようとしています。日本も覚悟次第で、『地熱革命』のリーダーになることは可能ですが、そのためには、政府が将来のビジョンを明確に示して本気で取り組まなければいけません。

 次世代地熱が実現すれば日本の地熱資源量が増加することは間違いない。第7次エネルギー基本計画で次世代地熱を前提として地熱発電の電源比率に関する野心的な目標を掲げ、官民が全力で地熱開発を進めていかなければ日本の国益を損ないます」と話し、こう強調する。

 「今、米中が開発競争を行っている汎用人工知能(AGI)のトレーニングには、AGI一つで10GWの電力が必要だといわれています。日本が先進国であり続けることはもとより、国家の安全を確保するためにも日本発のAIの開発も不可欠であり、大量の低炭素の電力を何としてでも確保しなければいけません。これは既設の原発再稼働や運転延長だけでは不十分です。新増設には15年から20年以上かかるため、その間に世界のAI開発競争から取り残されてしまいます。

 『電力は国家なり』ともいうべき状況下で、日本の将来の戦略的な位置付けを決定的に左右するのは、地熱技術大国になれるか否かです。単なるエネルギー安全保障という視点だけではなく、国家の存亡をかけて、地熱発電を推進すべきです」

 純国産エネルギーである「地熱」のポテンシャルを活用しないという選択肢はあり得ない。従来の延長線上の議論や発想ばかりでなく、今こそ日本の将来を見据え、英知を結集し、〝覚悟の火〟を灯すべきだ。
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🚶…天ヶ瀬ダム  240829

2024-08-29 20:56:00 | 🚶 歩く
天候不安定で天ヶ瀬方面へ

🚶…右岸堤防道…朝霧通…観流橋…右岸郎:紅斉…山吹橋…第一志津川橋…白虹橋…左岸坂道↗︎天ヶ瀬ダム上堤☂️🌂👀🗣️🗣️↩️…左岸坂道↘︎左岸路…天ヶ瀬吊橋…右岸郎:紅斉…観流橋…朝霧通…🍞屋:🥪🍞…右岸堤防道…>
🚶12027歩14F

🌥️天ヶ瀬ダム27℃;風心地よく:涼しい散歩
 帰宅後大雨☔️

ダム監視員さん台風関係なしで大変

🍞パンポイントで🍞:緊急食+

☂️夜)🚙⇆観月橋Std👭

室温も30℃に成らず。一息だが…
 🌀異常に遅く各地てんやわんや、続く不安定天気






莵道墓前の川瀬

天ヶ瀬ダム下右岸側

天ヶ瀬ダム左岸坂道上部より



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量子コンピュータが現実のものに?6万量子ビットで実用的な計算が可能に― 202908

2024-08-29 01:33:00 | 気になる モノ・コト

量子コンピュータが現実のものに?6万量子ビットで実用的な計算が可能に―大阪大学と富士通
 日本インタビュ新聞社より 240829


■日本の技術が世界をリード!量子コンピュータ開発で画期的な進展

 大阪大学と富士通<6702>(東証プライム)は8月28日、量子コンピュータの早期実用化に向けて共同開発を進めている「STARアーキテクチャ」の性能を飛躍的に向上させる新技術を開発したと発表。
 位相回転操作時の精度向上技術と量子ビットの効率的な操作手順を自動生成する技術により、計算規模を大幅に拡大することに成功した。

 これらの新技術により、6万量子ビットを用いて、現行コンピュータで約5年かかる物質のエネルギー推定計算をわずか約10時間で実行可能になることを示した。
 この規模は、早ければ2030年頃に実現すると期待されている。
これにより、量子コンピュータが現行コンピュータよりも速く問題を解決できる量子優位性の実現方法を初めて示すことに成功した。

 今回の成果は、材料開発や創薬などの様々な分野で技術革新を加速させることが期待される。
 特に、高温超伝導体開発のためのハバードモデルのより大規模な解析が可能になるなど、電力インフラの送電ロス削減などにもつながる可能性がある。
(情報提供:日本インタビュ新聞社・株式投資情報編集部)
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🚶…仏徳山…正覚寺…太閤堤跡公園…Alp 240828

2024-08-28 21:39:00 | 📖 日記
🚶…右岸堤防道…Alp👫🛒…戰川沿…>
🚙⇆妻🚉
🚶…右岸堤防道…朝霧通…さわらびの道…又振…さわらびの道…仏徳山遊歩道↗︎同:展望台👀↗︎同:山頂↘︎仏徳山/朝日山渓谷↘︎仏徳山裏山道…さわらびの道北東端…源氏物語ミュージアム外周沿…東内…朝霧通…正覚寺🙏…朝霧通…太閤堤跡公園(茶づな🥮🎎🍦)…右岸堤防道…Alp:百均🪑↩️…右岸堤防道…>
🚶12018歩15F

⛅️:仏徳山展望台28℃:風やや強く心地よく
 久々に暑い感を意識しない散策。陽射し雲隠れ風やや強く心地よく。
 展望台にて市内に落雷のイナズマを👀、上から見下ろす感じで!凄い光景
 展望台から〜裏山道間で傘不要の雨

正覚寺:珍しくご本尊:不動明王坐像がご開帳🙏:ありがたい
茶づなへ源氏の君関連グッズ等購入に,売上協力の心。🍦抹茶美味,🥮も。


夜)🚙⇆🚉👭




正覚寺にて












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二元論を超えて ハイデガーからメルロ=ポンティ、大森荘蔵の知覚論 2024/08

2024-08-28 21:14:35 | なるほど  ふぅ〜ん

二元論を超えて ハイデガーからメルロ=ポンティ、大森荘蔵の知覚論
  NewsPicks より 240828  唐戸 信嘉


 前回、プラトン以来の「実像」と「模像」という二元論に基づく、いわば現代の世界認識のモデルについて話しました。
 こうした二元論は、主体ー客体という図式にも呼応していて、私たちの認識を常に「こちら」と「あちら」に分解する傾向があります。
 知覚という観点からみると、私の視線の先にある対象としてのリンゴがあって、それを見ている私という主体が想定されます。いわば私が「こちら」であり、リンゴが「あちら」です。この場合、あちらにリンゴそのものという実体があり、こちらにいる私が受け取るのは光によって伝えられ、眼球を通過して網膜に映ったその影像だということになります。
 いわば、リンゴは二つ存在しているわけです。実体とその影像という風に。
ほとんどの人が、この説明を常識的なものと感じると思います。
 現代科学はこうした説明をその基礎にしているからです。

 ですが、プラトンに始まり、デカルトによって強化され、近代科学が後押ししてきた「実体とその影」という二分法は、二十世紀以降の哲学によって反駁されてきました。
 依然として常識を覆すほどにまでは至っておりませんが、そうした反駁は精細を失った世界像、堂々巡りに陥っている人間と世界の関係性を再構築する、思わぬ手がかりを与えてくれます。映像というものをどう考えるべきかについても、私たちの考えを刷新する力さえ秘めています。
 ここではハイデガー、メルロ=ポンティ、大森荘蔵といった脱二元論の陣営(「表象」否定派)の主張をざっと紹介してみたいと思います。

⚫︎ハイデガーのプラトン批判
 マルティン・ハイデガーはそれまで哲学の主流であった認識論から存在論へと焦点をずらし、存在の意味を問うことで私たちの認識の過ちを指摘した人です。
 彼は『形而上学入門』(川原栄峰訳、平凡社ライブラリー)の中で、「ソフィストたちとプラトンとにおいて初めて、仮象は単なる仮象だと説明され、したがって格下げされた。これと時を同じうして、存在はideaとして超感覚的な場所へまつりあげられる」(p.175)と述べています。「仮象」というのは哲学用語で、日常的な言葉とは言い難いですが、「外見」くらいの意味です。
 つまり、プラトン以降になると、私の目に見えるリンゴとは「外見」だけで完結するものではなく、「イデア」という目には見えない実体と「外見」というその影の両面があるものとして理解されるようになる。しかしハイデガーは、外見を単なる外見にすぎないとして蔑む態度をこそ批判します。

 仮象を何かただ「想像されたもの」「主観的なもの」と考えて偽化してしまわないように注意せねばならない。むしろ、現象が存在者そのものに属しているように、存在者には仮象もまた属していると言わねばならない。
 マルティン・ハイデッガー『形而上学入門』(川原栄峰訳、平凡社ライブラリー)p.174より
 ハイデガーによれば、ギリシア哲学はプラトン以降の時代になると、存在とロゴス(言語)を分離して考えるようになる。存在は客観であり、ロゴスは主観の側にある、と。
 そしてロゴスこそが真なる実体(イデア)で、それは主体者である「私」の精神こそが認識するものであり、一方客体はイデアの影に過ぎず、劣ったものである、と。
 けれどもハイデガーは、この分離はまことしやかな誤解だと考えます。

⚫︎メルロ=ポンティによる主客図式の廃止
 ハイデガーと同じく現象学に多くを学んだメルロ=ポンティは、「私」の経験を越境することなく世界の認識モデルの再構築を目指しました。彼は、「身体を世界の中に置き、見る者を身体の中に置き入れたり、あるいは逆に、世界と身体を、まるで箱の中にでも入れるように、見る者の中に入れこんでしまうような大昔からの偏見を捨てなければならない」(『見えるものと見えないもの』(滝浦静雄.木田元訳,みすず書房)pp.191-192)と言います。
 メルロ=ポンティは、身体(肉体)に属さぬ主体や視点を想定することは現実の歪曲であるとして厳しく批判します。
 彼は、プラトン以来の、認識の主体である「私」が優越的な立場にあり、客体である世界や物は、被支配的な立場に置かれているというこの図式をひっくり返します。彼は挑発的にもこんな風に言うのです。

 物がわれわれをもつのであって、われわれが物をもつのではないということだ。(中略)言語がわれわれを所有しているのであって、われわれが言語を所有しているのではない、ということだ。存在がわれわれのうちで語るのであって、われわれが存在について語るのではない、ということなのだ。
M・メルロ=ポンティ『見えるものと見えないもの』(滝浦静雄.木田元訳,みすず書房)p.276より
 メルロ=ポンティは、主体と客体の優劣関係を廃棄し、両者は渾然一体であり、相互的にしか存在し得ないものだと言います。私は以前、このトピックスで風景論について書いたとき、同様の話をしました。風景には「私」は映っていない(描かれていない)が、その風景はよくよく考えれば「私」のまなざしがとらえた映像そのものであり、その限りにおいて「私」そのものである、と。上で語られていることも同じ理屈です。
 つまり、「私」と呼ばれているものを分解すると、物へ注がれたまなざしであり、物に対する反応としての感情であり、言語である、ということになりますが、そうすると純然たる「私」はどこにも残らないことになります。だから、「私」という主体はそれ自体で存在する確固たる実体ではないということになります。
 どこから客観的な世界で、どこから主観的な「私」がはじまるのか、明確な線引きは不可能だと判明します。

⚫︎大森荘蔵と「風情」
 私がたびたび言及している大森荘蔵も、こうした流れのもとに、一元論的な世界観への回帰を促しました。ここでは映像論に関わりそうな部分だけ引いてみます。大森の映像論への決定的な貢献は,「風情」(ふぜい,ではなく,ふうじょうと訓ずる)という概念の発明にあるでしょう。
 人の顔に表情があるように,風景にも表情があり,それを彼は風情と名づけました。風情は「私」と言う主観の側の産物と考える必要はなく,風景そのものに宿ると彼は念を押します。

 風情が普遍であることに疑いはない。それゆえ風情は何にもまして言語に親和的であり、したがって過去想起に適合している。事実、想起される過去で支配的なのは風情であって、知覚的要素は欠落している。(中略)実際例えば過去の風景を想起するとき知覚的細部が失われているのに対して、明るい生気とか果てのない広がりとかの風情が鮮やかに保たれているのを多くの人は経験しているだろう。
 つまり、人は色や形の近くよりも風情の方をよく憶えているのである。
大森荘蔵『時間と自我』(青土社)p.252より
 記憶の映像も画家が描く絵も,そこに描かれているものは,大森の言葉を使えば風情ということになります。それは知覚像とは異なる。記憶の映像も絵画も,背後では言語に支えられており,そこでは写実的リアリズムが問題なのではなく,風情という「意味」こそが生命である。
 ハイデガーが問題視した存在とロゴスの分離が、大森哲学の中では縫合され、原始的一体性を取り戻しています。したがって絵画と写真の違いは、風情の有無によって特徴づけられるでしょう。
 写真が風情を欠くのは、それを撮影するのが人間ではなく機械だからです。画家が風景を描くとき、画家は風景を切り取るわけではありません。それを描く自分と世界の関係性、しかもそのときその場所における自分と世界の関係性そのものを、絵に描くのです。描かれているのは知覚像の断片ではなく、コンテクストも描き込まれているわけです。
 しかし、写真のような機械が生成する映像にはそれがない。

 まとめましょう。二元論的モデルから一元論的モデルへの回帰は、映像を考える場合にも大きな示唆を与えてくれます。最大のものは、主体ー客体という図式の廃棄で、映像を見る主体の特権的な地位の廃止です。
 見る「私」はもはや映像の支配者ではなく、まなざしの対象はもはや被支配的な地位に甘んじていません。両者が互いに影響を与え合い、リアリティを作り上げるわけです。主体と客体という図式を手放さないにせよ、お互いがお互いの根拠である事実が強調されるでしょう。
 また、私たちの見る行為において、肉体や言語がきわめて重要な役割を演じていることも、一元論は明らかにしました。つまり,私たちが見るのと,カメラのような機械が見るのとでは,大きな違いが生じるということです。
 評論家の加藤典洋がかつて『日本風景論』(講談社,1990)で,フォト•リアリズムの絵は「痛々しさ」「不自由さ」を感じると述べたことがあります。それは,人間が見るときには言語の作用でイメージの細部が捨象され,いわば風情だけを見るのに対し,カメラが撮るような映像は鮮明すぎて,非人間的なイメージができあがる,という意味だったわけです。
 私たちは今では,機械が作成した非人間的な知覚像に慣れすぎて,こうした違和感を忘れてしまっていますが,映像が登場するまでは風情に還元されない知覚は存在しなかったことを考えると,非人間的イメージで充満している現代の生活,そしてあまり違和感を感じずに生きている私たち自身に,不気味なものを感じずにはいられません。
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