石造美術紀行

石造美術の探訪記

奈良県 奈良市小倉町(旧山辺郡都祁村小倉)小倉墓地五輪塔・宝塔

2007-03-20 00:32:13 | 五輪塔

奈良県 奈良市小倉町(旧山辺郡都祁村小倉)小倉墓地五輪塔・宝塔

名阪国道小倉インターの南方、小倉集落の西方の丘陵上に地域の墓地がある。小倉から室生染田方面に抜ける県道をやや南下し集落のはずれにさしかかると、右手の田んぼを隔てた山裾に六地蔵が見える。ここが小倉墓地の入口である。通常の六地蔵の外に、岩盤に六地蔵を直接刻み込んでいるものが見られる。岩盤の方が古く、Photo_11Photo_12Photo_15室町時代末期から江戸時代のごく初期ごろのものと思われる。山手の道を進むと斜面をテラス状に形成した墓地が次々に現れる。木々に覆われ、陰になって道路からは分かりにくいが、丘陵の先端部分全体が墓地になっている。近現代の墓標に交じ って中世に遡る五輪塔や古い石仏が多数見られる。小型の四石五輪塔、一石五輪塔、板状五輪塔(写真上右)、半裁五輪塔(写真上中)、舟形背光五輪(写真上左)、箱仏など室町時代から江戸時代初めの石塔Photo_10のオンパレードで、中世墓に近現代の墓がオーバーラップしているようである。墓地の最高所は平坦地になっており、中央に立派な五輪塔がぽつんと立っている。板状の切石2枚を並べ敷いただけで反花台座は珍しくみられない。何らかの事情で失われたのであろうか。地輪は上部の隅付近の一端を欠損し、火輪の軒下を少し欠いているが、全体の保存状態は悪くない。空風輪の曲線に直線的なところはなく、空輪の宝珠の重心はやや下に置くが球形に近く、風輪と接合するくびれ部分はやや細い。火輪の軒は厚く、力強く隅で反り上がる。水輪は大きめで、曲線はスムーズでやや重心を上におく。地輪はやや背が高い。各部とも無地。高さ165cm、花崗岩製。空風輪の形状や火輪の軒などから14世紀半ばごろのもの推定できる。墓地の惣供養塔であろう。墓地頂部の平坦地の片隅、五輪塔から10mばかり離れた場所に、小型01_3 の宝塔がある。高さ135cm、花崗岩製。平らな自然石の上に背の高い4弁複弁反花座を置く。幅に比して背の高い基礎は4面に薄めの輪郭を巻き、かなり退化した形式の格狭間を3面に入れ、1面には輪郭内素面で、ここに銘文があったと思われるが摩滅している。塔身は首部に比べ軸部は少々寸詰まりで、重心をやや上に置き、下端はまっすぐ基礎に続くのではなく曲面にしている。塔身には匂欄、扉型などの装飾はない素面だが、一方向を大きく長方形に彫りくぼめ、中に合掌する筒袖袴姿の人物と思われる立像2体が稚拙な表現で半肉彫りされている。笠の軒厚く、隅の反りは割合に力強い。頂部には薄く露盤を削りだし、四柱には降棟を突帯で表現し、底面には薄い垂木型と隅木を彫り出している。相輪は伏鉢、複弁反花の請花、九輪の3段目まで残るが、その先は欠損している。枘の大きさが一致しないが違和感はない。宝塔は、釈迦が霊鷲山で説法した時、地中から宝塔が出現し、多宝如来が釈迦を讃えて、塔内に招き入れ半座を分かって釈迦・多宝の2仏が並座したという「法華経見宝塔品」に端を発した天02_3台系教理の所産とされ、釈迦・多宝の2仏を塔身に表すのが本格的で、扉型や鳥居型だけの場合でも塔身内の2仏を意識しているのが通常である。この塔身軸部の俗形人物は、両親の供養か自身夫婦の逆修を意図したものと思われ、宝塔本来の意義は失われているがたいへん珍しい意匠といえる。表面の風化が激しく、基礎の輪郭や格狭間の彫りもごく浅い。山添峰寺の六所神社のものに比べるといっそう垢抜けない感じで、同じような室町期の作風だが、小倉墓地の方がより時期が下がると考えるがどうだろうか。これだけ退化が進んでも笠裏に垂木型に加えわざわざ隅木を刻んでいるのは、さすがに木造建築風に細部にこだわる都祁来迎寺塔や吉野鳳閣寺塔につながる大和伝統の宝塔造形といえないだろうか。

参考 清水俊明 『奈良県史』第7巻石造美術 357~358ページ