石造美術紀行

石造美術の探訪記

滋賀県 蒲生郡竜王町鏡 西光寺跡石燈籠及び鏡神社宝篋印塔(その3)

2009-09-02 00:24:21 | 宝篋印塔

滋賀県 蒲生郡竜王町鏡 西光寺跡石燈籠及び鏡神社宝篋印塔(その3)

基壇の配石構成あるいは基礎の素面の東側が裏面と考えられたことから、本来の正面が西側であったと推定され、解体修理に際しては塔身四方仏を本来の方角に合わせるため時計回りに90度、笠は東面していた隅飾「バン」の面を180度ずらせて西向きになるよう、それぞれ積み直されている。02造立時期について、能勢丑三氏は鎌倉時代とだけ述べられ、服部勝吉、藤原義一両氏は鎌倉時代中期、解体修理報告に記された重要文化財指定説明では鎌倉時代中期(鎌倉時代を前後2期に区分すれば後半)、川勝博士は鎌倉後期ないし末期とされている。03田岡香逸氏は鎌倉時代後期前半と述べられている。解体修理では多量の人骨片に交じって平安末期、鎌倉、室町初期の3種の灯明皿、鎌倉時代の古瀬戸の瓶子と四耳壺の小破片などが検出されているが報告書では塔の造立時期を特定するには至っていない。四隅に鳥形を配した塔身の特異な意匠表現については、能勢氏、服部・藤原両氏が早く指摘しておられるように、銭弘俶の金塗塔や阿育王塔などと称される中国製の金属製工芸品や意匠的にその系譜につながり、日本最古の呼び声も高い旧妙真寺塔などに見られる。本塔が旧妙真寺塔よりは下るというのは諸賢の一致するところで動かないだろう。そして本塔は中国の金塗塔などの金属製工芸塔から旧妙真寺塔を経て定型化した形状の宝篋印塔とをつなぐ系譜にあるものと考えるのが妥当だろう。基礎の孔雀文に着目すると、近江における石塔の孔雀文の紀年銘史料は14世紀初頭を遡る例はなく、田岡香逸氏によれば、無銘ながら卓越した作柄を示す日野町村井の蒲生貞秀廟塔の部材に転用されている宝塔の基礎が最も古く13世紀末の正応頃と推定されている。本塔の孔雀文のやや稚拙な雰囲気からは、貞秀塔に先行するものとは考えづらい。07また、段形式との折衷のような珍しい形状の基礎上反花に着目すれば、大和上小嶋の観音院塔などとの類似性から田岡氏が1280年ごろを降らないと評価されている野洲市の木部錦織寺の基礎残欠に注目したい。田岡氏は錦織寺基礎と本塔の関連性については触れておられないが、両者はよく似ている。両者が近い時期のものと仮定すると、孔雀文が正応頃を初現とする田岡氏の推論と10年程の矛盾が生じてしまうが、現時点では総合的に判断して鎌倉中期末から後期初め13世紀後半というとらえ方で大過はないのではないかと思う。01一方、基礎側面の一面を素面とする手法、隅飾の輪郭を線刻にする点を退化というか一種の手抜きと理解するならば、鎌倉末期まで時期を下げる要因になりうるかもしれない。仮に14世紀前半まで時期を下げて考えると、13世紀でも前半代に遡るということが定説になっている旧妙真寺塔との間に100年近い時間差を与えることになり、今日では否定的にとらえられているが田岡氏のいうように逆に旧妙真寺塔の時代を下げなければならない可能性も出てくる。類例の少ない特異な意匠表現を備え、宝篋印塔の初現問題にも多少関わる貴重な存在であり、慎重な検討が必要であるが、共通する意匠を踏襲する旧妙真寺塔との間に100年近い時期差があるとは考えにくいと思うがいかがであろうか。このほか付近には一石五輪塔や小型の五輪塔の残欠、箱仏などがみられる。

参考

能勢丑三 「鏡山鳥影宝篋印塔」(上)・(下)『史迹と美術』74・75号…オリジナルは「滋賀県史蹟調査報告」第六冊

服部勝吉・藤原義一 「日本石造遺宝」(上)

川勝政太郎 新装版「日本石造美術辞典」

〃 「歴史と文化 近江」

池内順一郎 「近江の石造遺品」(上)

滋賀県教育委員会編 「重要文化財鏡神社宝篋印塔修理工事報告書」

〃 「滋賀県石造建造物調査報告書」

平凡社 「滋賀県の地名」日本歴史地名体系25

田岡香逸 「近江木部錦織寺と志那吉田観音堂の石造美術」『民俗文化』95号

〃 「近江の石造美術」3

〃「石造美術概説」

吉河功 「石造宝篋印塔の成立」

山川均 「中世石造物の研究-石工・民衆・聖-」

写真左下:鳥形です。フクロウに見えますか?orオウムに見えますか?カルラに見えますか?ってカルラはつまりガルーダでしょ、実在の鳥ではないので本物を見た人はたぶんいないですね。なお、基壇は修理前より30cm程嵩上げされているようです。それから大量の人骨片は元どおり埋め戻されたそうですので訪ねられる際は心してくださいね。

写真右下:野洲市木部錦織寺墓地の基礎の写真を追加します。基礎だけの残欠ですが幅約80㎝もあり鏡神社塔と遜色ない大きさです。褐色の色調や質感もさることながら基礎上の手法はそっくりです。