石造美術紀行

石造美術の探訪記

京都府 木津川市 山城町神童子 天神社十三重塔及び宝塔

2009-05-04 23:23:01 | 京都府

京都府 木津川市 山城町神童子 天神社十三重塔及び宝塔

旧相楽郡山城町神童子は旧山城町の東の山間にある。今は通る人も少ないが、東方の山道を越えていくと木津川沿いに抜ける桜峠があって、加茂から伊賀方面へと通じている。木津川沿いの交通路が開鑿される以前は古い幹線道だったと伝え、今では想像しにくいが往昔は交通の要衝として賑わった所であった。01峠近くには中世城郭が残り、こうした伝承を裏付けている。集落の中央にある神童寺は北吉野山と号し修験道との関わりを示す寺伝や仏像が残る。同寺には十三重石造層塔や宝篋印塔の残欠が見られるが、今回紹介する天神社は集落の東のはずれ、もっとも奥まった所にある。社殿は室町時代の木造建築として府の文化財指定を受けている。02境内北側、稲荷社の裏側に玉垣に囲まれ十三重石塔が立つ。高さ約4.15mで花崗岩製。基礎は幅約74cm、現高約40cm、各側面とも素面で、西面に「右志者/為父母先師/法界衆生/平等利益/造立□□/建治三丁丑(1277年)/十月三日」の7行の刻銘がある。風化摩滅が進行し判読はかなり厳しくなっている。建治三の文字は何とか肉眼でも読める。初層軸部は幅約40.5cm、高さ約38cm、四側面とも二重円光型に彫り沈め、坐像石仏を厚肉彫りしている。蓮華座は確認できない。西面は定印阿弥陀如来、東面は右手は肩の辺りに掲げた施無畏印で左手は膝上に乗せ宝珠を持つように見える。03したがって薬師如来と思われ、南面は右手を上げ左手を膝付近施に置く施無畏与願印の釈迦如来であろう。北面は通常の顕教四仏の弥勒如来に代えて、左手に宝珠、右手に錫杖を持つ地蔵菩薩とする。例がない訳ではないが珍しいパターンで、地蔵信仰の流行を垣間見せる事例といえるかもしれない。また、鎌倉中期の古いものとしては初層軸部の背が低いのも特長。この低い初層軸部は、猪(伊)末行の作で弘安元年(1278年)銘の京田辺市草内の法泉寺十三重石塔初重軸部とも共通する。初層軸部と最上層笠を除く軸・笠一体彫成は通例の構造形式で、各層笠裏に一重の垂木型を薄く刻み出す。初層笠は軒幅約76cm、軒中央の軒口厚約11.5cm、隅で約12cm。軒口の厚みの隅増がほとんどない。01_2軒反自体にそれ程力強い感じは受けないが中央の水平部分を短めにして反りをやや長めに取るところはこの頃の調子をよく示している。9層目、10層目、11層目、最上層北東側の軒隅が大きく破損しているのは倒壊によるものと思われるが、相輪は奇跡的に完存している。下から伏鉢、請花、九輪、水煙、竜車、宝珠と全部残っている。請花は近づいて観察できないが複弁のように見える。各層逓減が美しく全体に洗練された印象で、基礎の紀年銘から石造層塔のメルクマルとなる貴重な存在。重要文化財指定。02_3なお、神童寺のものはこれよりやや垢抜けない感じで時期は若干降ると思われる。天神社には、このほかに社殿左手摂社の北側、山裾の斜面に瀟洒な石造宝塔があるのを忘れてはならない。花崗岩製で相輪を失うが笠上までの現高約92cm、基礎は幅約43cm、高さ約31cm。四側面に幅約5cmの輪郭を巻く。輪郭内は素面。塔身の高さ約33㎝、裾付近の径約34cm、肩部径約36cmと最大径が肩にあって裾がすぼまる壺型を呈する。首部と軸部の間に高さ約2cmの低い段を設け、首部は高さ約4cm、径は下方で約24cm、上端で約20cm。塔身は素面で扉型などの装飾はみられないが軸部に比較的大きい文字の刻銘が認められる。「京都古銘聚記」によれば「三十八所/如法経/□□此塔/礼拝供養/□知是□/□近菩提/□□□…/佛子□□」の8行、7行目が紀年銘らしいが判読できないとのことである。03_2むろん肉眼でも判読は厳しい。笠は軒幅約43cm、高さ約28cm。笠裏中央に円形の受座を設け首部を受けている。四隅に隅木を刻み、二重の垂木型を設けている。一本一本の垂木を連続する突帯でリアルに表現しようとしている点や垂木型の段に合わせて隅木にも傾斜を設けている点は手の込んだ手法である。リアルな垂木型を笠裏に刻む手法は、京都市内の古い凝灰岩製のものに若干類例がある。軒は真反に近く全体に反って、どちらかというと反り方がきついが、軒口の厚さが中央で約4cm、隅で約5cmと比較的薄いためか力強さというよりはむしろ軽快感がある。04隅降棟は屋根面と明瞭に区別される突帯ではなく、屋根面をややくぼませることで逆に稜を強調して表現している。これは石造層塔にもしばしば見られる手法である。笠頂部には幅約13cm、高さ約1.5cmの露盤を刻み出す。相輪は亡失、代わりに五輪塔の空風輪を置いている。笠頂部の枘穴は径約7cm、深さ約5.5cm。石造宝塔は南山城地域では珍しく、笠裏の表現など面白い手法とあわせ注目すべきものといえる。銘にあるとされる三十八所というのは三十八所権現のことであろうか。あるいは38ヶ所に如法経を供養して造塔が行なわれたのであろうか。集落入口の小丘陵にある墓地に腰折地蔵と称する地蔵石仏があり、周囲に箱仏や石塔の残欠が集積されている。その中に同じような手法の垂木型を持つよく似た大きさの石造宝塔の笠の残欠がある。01_4あるいは38ヶ所に作られた石造宝塔の内の1つだったのかもしれない。残欠ながら見逃せないものである。造立時期については比較できる類例をみないため推定することは難しい。かえすがえすも紀年銘の判読ができないことが惜しまれる。「京都古銘聚記」では鎌倉時代末頃のものとされている。笠の軒反の様子、手の込んだ笠裏の手法は古い要素といえるが、背の低いずんぐりとした壺型の塔身、基礎の背の高さなどは新しい要素であり、規模の小ささも考慮すれば、やはり鎌倉時代末を遡るとは思えない。難しいところだが南北朝時代、概ね14世紀中葉から後半頃のものとして後考を俟ちたい。

参考:川勝政太郎・佐々木利三「京都古銘聚記」

   川勝政太郎「新版日本石造美術辞典」

写真左2番目:錫杖を携える地蔵菩薩坐像。本来菩薩は如来と同列にならないはず、地蔵菩薩が重視されたことがわかります。それから低い初層軸部にも目をやっていただきたい。鎌倉中期頃であれば背が高いのが普通だと思うのですが…。写真下右:笠裏の垂木型や隅木にご注目。通常は単なる直線的な段形にデフォルメされることが多いのですがこれは違います。写真左一番下:真反りっぽいこの軒反がおわかりになるでしょうか。写真右一番下:神童子集落入口の墓地で見た石造宝塔の残欠笠。サイズ、笠裏の手法(この写真では笠裏は写っていません…)など天神社のものと共通し注目すべきものです、ハイ。


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