石造美術紀行

石造美術の探訪記

京都府 相楽郡笠置町笠置 笠置寺の石造美術(その1)

2009-12-21 22:25:39 | 京都府

京都府 相楽郡笠置町笠置 笠置寺の石造美術(その1)

笠置山は木津川の南岸、南山城でも少し東に奥まった所で、奈良との県境はすぐ南側、目と鼻の先の距離にある。01_2標高300mに満たないさして高くはない山だが、木津川に接する北側斜面は急峻で西側は木津川の支流が流れ、東に深い谷が入り込んだ天然の要害の様相を呈し、山腹から山頂にかけて花崗岩の巨岩がいたるところに露呈している。山頂付近に位置するのが鹿鷺山笠置寺で、古来弥勒信仰の霊場として著名な古刹である。創建の時期は奈良時代に遡るといわれている。12世紀前半頃まとめられたとされる「東大寺要録」に南都東大寺の末寺として登場し、天智天皇一三年に大海皇子(一説に大友皇子)が創建したと記されているという。南都東大寺との縁が深く、寺伝には弘法大師が虚空蔵求聞持法を修したなどの伝承もある。02平安後期になって弥勒信仰のブームが起こると藤原道長など貴紳の参詣が相次いだことが記録に残っているようで、枕草子や今昔物語などにも登場する。鎌倉時代に入ると興福寺の解脱房貞慶上人が山中に般若台という子院を開き、寺観の整備が進んだとされる。その後、元弘元年の兵乱により笠置寺は全山焼失、以降は衰微の途をたどり、近年になってようやく今日見る寺観が整備された。03この笠置寺を中心とする笠置山には注目すべき石造美術が多く残されている。さて、境内を奥に進むと、左手の少し高い場所に大師堂がある。その前にある吹き放ちの小宇は手洗場で、天明5年(1785年)銘のある基礎石の上に載せられている手水鉢は古い宝篋印塔の基礎を逆さまにし、水を溜めるために底面を大きく彫りくぼめてつくった転用品である。キメの細かい花崗岩製で、基礎幅約54cm弱、高さ約38.5cm、側面高さ約28.5cmを測る。特記すべきは、基礎上の段形が3段になっている点である。例がないわけではないが、比較的珍しいものである。段形の幅は下段約45cm、中段約38cm、上段で約31cm。側面のうち二面に刻銘があり、一面はほとんど判読不能ながら4字5行、別の一面には「永仁三年(1295年)乙未/三月廿五日/□法界衆生/□□□□□/願主□□□」の銘があるという。風化摩滅が進み、文字の存在は肉眼でも確認できるが判読は容易でない。紀年銘のある側面には手水鉢に転用された際に加工されたのであろう内側に貫通する水抜き穴が穿たれている。04刻銘の状態や風化の様子から、あるいは意図的に文字の判読ができないように叩き潰されている可能性もある。そもそも宝篋印塔の形状的な特長を最も端的に示す点は、笠の隅飾と基礎や笠の段形にあるといってよい。そして基礎上については2段の段形とするのがもっとも一般的である。基礎上を反花式とする場合がしばしばあり、時には笠下を反花というか請花というか、段形にせずに蓮弁にする例や笠上を四注状にするようなことも稀にある。しかし、これらはあくまで本格式ではなく、むしろ傍流であり、また特殊なケースと考えるべきである。一方、基礎上を段形とする場合でも、普通は2段であり、3段とするのは、例がないわけではないがレアなケースだろう。どちらかといえば古いもの、大きいものに比較的多いように思う。本塔のように中型の範疇に含まれるサイズで3段というのは多くない。残欠に過ぎないものだが、13世紀末、永仁3年銘は京都の在銘宝篋印塔では屈指の古さである。今では水も枯れ、手水鉢としての機能も失われ省みる人も少ないが、石造美術を考えていくうえでは注目すべき遺品といえる。(続く)

写真左上:元は手洗い用の小さい覆屋ですが、皮肉なことに今では保存保護の上で役に立っています。写真右上:刻銘があるのはわかりますが、判読はほとんど不可能です。写真右下:他の面にも同様に刻銘の痕跡が見られます。風化摩滅のせいだと思いますが、何か意図的に読めなくしているようにも見えます。写真左下:基礎上の3段がおわかりいただけるでしょうか。もっとも天地が逆の状態なので現状では基礎下になるんでしょうかね。逆さまに眺めていると首が痛くなります、ハイ。笠置の石造物は素晴らしく、かつ重要なものが多いので、断続的になるかもしれませんが、しばらく紹介を続けたいと思います。

なお、参考図書類は別途まとめて掲載します。


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