石造美術紀行

石造美術の探訪記

滋賀県 長浜市野瀬町 大吉寺跡の石造美術(その1)

2008-09-17 00:22:14 | 滋賀県

滋賀県 長浜市野瀬町 大吉寺跡の石造美術(その1)

野瀬集落に入ってしばらく行くと、辻に四天王寺出口常順管長揮毫による「寂寥山大吉寺」と大書された石碑が立っている。01さらに東の山手に狭い道を行くと最も奥まった渓谷に現在の大吉寺がある。静かな山寺で風情のある佇まいを見せ、特に庭園の造作には見るべきものがある。自動車はここに停め、ここからは徒歩で登山になる。渓流沿いにしばらく進み、途中で右に折れ、九十九折になった急峻な山道をどんどん登っていく。やや開けた尾根上にある仁王門の跡を過ぎ、さらにしばらく登るとようやくにして本来の大吉寺の跡に着く。田岡香逸氏によると仁王門は旧長浜市内に移築されているとのことだが不詳。山裾の寺からは健脚でも片道1時間以上の道程である。振り返ると眼下に小谷山の向うに琵琶湖が広がり、竹生島が浮かぶ絶景が広がる。標高918mの天吉寺山山頂から南に延びる尾根の東側斜面に位置し、標高は700mくらいだろうか、寺跡といっても建物は何も残っていない荒地になっている。雑木が多く全体を見渡せないが整地した平坦面が点在し、中心伽藍の跡とされる場所はかなりの規模で、上下2段ないし3段に分かれ、ところどころに石積も見られる。方形に区画され一段高い土壇状になった本堂跡には自然石の礎石が整然と並び、5間四方の規模が想定される。本堂西側には自然石を組み上げた立派な石階段があって往時をしのばせる。このほか塔跡、経蔵跡、鐘楼跡と伝えられる低い方形土壇が点在し、自然石の礎石が残っている。本堂跡の東側にも広い平坦面があり、そこから東に少し上がった尾根の斜面に南北に長い平坦面があり、その北寄に覚道上人入定窟なるものがある。05西斜面に開口する古墳の横穴式石室によく似た構造の自然石を組んだ石室内に花崗岩の板石を組み合わせた龕を設けたもので、龕の入口には左右観音開の扉がある。扉内側を水磨きで仕上げ、罫線を薄く陰刻して8行にわたる銘文を刻む。02「星霜五百歳之刻/沙門覚道悲遺法/遠祈薩淂忽霊/夢告遂渡唐迎一、(以上向かって右扉、以下左扉)切経安当寺速欲/待三会之暁写影/於石而己/正応二年(1289年)己丑十二月七日沙門覚道」とあり、覚道という僧が中国から一切経を請来し、弥勒再生の竜華三会の時を待つために石の自肖像を刻んだ旨がわかる。03龕奥壁に高さ約29cmの覚道上人の像がある。丸彫りに近い写実的な表現で、風化もほとんど見られず、袈裟の細部まで良く残っている。右手にした払子を左手前に横たえ、半肉彫りした曲彔という椅子に端座する頂相風の雰囲気。目鼻が大きく唇厚く自信に満ちた表情がうかがえる。頭上には左右に円相を彫り沈めて蓮華座、舟形背光の如来坐像を薄肉彫りしている。向かって左は定印なので阿弥陀で問題ない。右は諸仏通有の施無畏与願印と思われ、特定は難しいが銘文の趣旨に鑑み川勝、田岡両氏とも弥勒如来とされている。入定窟というと、洞窟に篭り結跏趺坐したまま成仏するイメージを受けるが、龕内部は幅高さ奥行きとも40cmに満たず人が入るには小さ過ぎ、外側の石室も龕部と一体となった構造であることから、「入定窟」は適切な表現ではない。04_2あるいは廟所的な遺構と考えることも可能かもしれない。龕部の地下や奥壁の向うなどに上人の火葬骨など納めた施設等がないとは言い切れないが、田岡氏によればそうしたものは確認できないとされる。入定窟という言葉のイメージによって「死去」が連想されるが、銘文からは上人が正応二年12月に没したということは読めない。石像安置のための石室と考えるのが穏当との田岡氏の説に従いたい。上人が生涯をかけて請来した一切経は、残念ながら大吉寺の伽藍とともにこの世から消え去って久しいが、上人の強い信仰心と熱い思いが700有余年を経た今日も石に刻まれた肖像と銘文を通じて我々見るものに伝えらていることに感銘を禁じえない。大吉寺には銘文を裏付けるように、弘安8年(1285年)覚道上人が一切経の勧進を催したとの勧進状が残っているらしい。大吉寺は、貞観7年(865年)天台の安然(円)和尚開基、本尊は観音菩薩と伝える。また、天台座主慈恵大師良源(元三大師、角大師として有名)は、母堂が当寺に祈願して授かったと伝え、天元5年(982年)母の遺誡に従って当寺で百箇日護摩法を修法したとの記録が残っているらしい。さらに、嘉吉元年(1441年)成立、真偽不詳の「興福寺官務牒疏」にも「在同国浅井郡草野郷、号天吉山、僧坊五十七宇、天智天皇六年、役氏入峰、然后、桓武帝延暦九年、橘朝臣奈良麻呂本願也、始天台宗、後一条帝万寿元年(1024年)、秋篠寺霊円僧都中興、自是為法相宗、真言兼宗、本尊浮木観音大士」との記載がある。平安期のこうした伝説・伝承の類は真偽不詳で確かめようがないが、地元草野庄司家との強い結びつきのもと、平安時代から知られる天台の古刹であったということはほぼ間違いないのではないかと思う。平治元年(1159年)16歳の源頼朝が、平治の乱に敗れ落ち延びる父義朝一行とはぐれて当寺に匿われたことが「吾妻鑑」に見え、これを契機に鎌倉幕府の庇護を受けた模様で、さしずめ覚道上人は鎌倉期の中興といった位置づけになろうかと思われる。建武元年(1334年)に兵火に罹ったため、暦応元年(1338年)にも勧進が催されている。さらに観応の擾乱に際して近江に入った足利尊氏に味方したらしく、観応2年(1351年)同寺衆徒宛の尊氏の御教書などが残るという。鎌倉・室町時代を通じて幕府の庇護のもと寺勢隆盛を極め堂宇の整備が進んだものと思われる。平坦地が随所に見られることからも多数の子坊を擁したことはまず疑いない。大永3年(1523年)には浅井氏の台頭につながる京極家の内紛である「大吉寺梅本坊の公事」事件の舞台となり、大永5年(1525年)には六角氏と京極氏の戦いによる兵火で壊滅的な被害を受けたらしい。その後は浅井氏の庇護を受けて復興したらしく、元亀3年(1572年)7月には織田信長の命により、木下藤吉郎に攻められたことが「信長公記」に見える。このように、中世を通じて極めて興味深い歴史を今に伝える大吉寺であるが、度重なる兵火をかいくぐって盛衰を繰り返しながら営々と法灯が守られてきたこと、そして山上の寺跡が極めて良好に保存されていることは、まことに注目すべきことで、まさに当地域の誇りとすべきことといえる。かけがえのない文化遺産、後世に守り伝えていかなければならい地域資源である。(その2へ続く)


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