滋賀県 湖南市針 廃法音寺跡不動明王石仏
街道沿いの針の集落の南方、山寄りの高台にある種苗会社の試験研究農場の北に接した社宅の脇の一画に、草の生える広場がある。北東約200mには飯道神社(2009年2月18日記事参照)がある。広場の中央に小堂があって地元で子安地蔵堂と称されている。ここに祀られる地蔵菩薩半跏像(木造)は平安末期の作とされる市指定文化財。広場の北寄りには石仏や石塔が集積され、地蔵堂の周囲にも小型の五輪塔や宝篋印塔の残欠が散在していて、いかにもお寺の跡という雰囲気が漂う。ここにかつて少林山法音寺(報恩寺)と呼ばれた臨済宗の寺院があったというが明治期に廃寺となったそうで、現在は地蔵堂だけがぽつんと残されているに過ぎない。聖徳太子開基、夢想疎石の中興ともいうが不詳。「蔭涼軒日録」に“針郷内報恩寺”と出ているというから少なくとも室町時代にはそれなりの寺勢を誇ったものと思われる。
地蔵堂のすぐ南側、周囲より少し高く盛り上がったような土壇状の場所があってその上に不動明王の石仏がある。寺は廃れても地蔵堂とこの石仏に対する香華は絶えない様子で、今も地元の厚い信仰が続いている。石仏は不動明王を刻出した自然石の左右に長方形の板状に整形した石材を立ててその上に蓋屋笠石を差し渡した簡単な構造の龕を伴う。石仏の背後にも自然石を立ててあるがこれは当初からのものかどうかはわからない。これらはいずれも花崗岩製である。不動明王石仏は下端がコンクリートに埋め込まれて確認できないが、現状高約170cm、最大幅約69cm、奥行き約27cmの細高い板状の自然石の平らな正面に右手に利剣を携える立像を半肉彫りしたもので、現状像高は約135cm。全体に風化摩滅が激しく衣文や面相はハッキリしない。光背や蓮華座(瑟瑟座?)も認めらない。羂索を握るはずの左手の様子も明らかでない。頭部はやや縦長で頸が短く、肘の張った体躯は全体として概ね均衡が保たれている。右手の剣は幅が細く真っすぐで古調を示している。体側線左側には衣の袖先が膨らんだような部分が認められる。側壁の石材は現状高約152cm、幅約40cmの長方形で、厚さ約15cm、正面と内側は特に入念に平らに仕上げている。笠石は間口の幅約143cm、奥行き約72cm、高さ約24cmとかなり低平な寄棟造で、頂部には幅約85cm、幅約12cm、高さ2cm程の大棟を刻出する。軒口は厚さ約6cmと薄く、隅増しをしないまま隅に向かって非常に緩く反転する。笠裏には約94cm×53cm、高さ約5cmの長方形の一段を設け、その内側を約75cm×42cm、深さ約7cmに彫り沈め石仏の上端がこのへこみにうまく収まるように設計されている。また、この笠裏の長方形段の両脇には浅い溝を彫って側壁石材を受けるような構造となっている。こうした構造から笠石と側壁が当初から石仏と一体であったことは疑いないだろう。簡単な構造の中にも石材の組み合わせ部分などに凝らされた工夫は注目すべきで、あまり類例がないスタイルの石仏龕として希少価値が高い。造立時期の推定は難しいが、ほぼ均整のとれた石仏の体躯や低平な笠石の緩い軒反りなどから鎌倉時代中期にまで遡る可能性が指摘されている。市指定文化財。
写真右上:笠裏の構造、写真右中:笠の上部、寄棟造です、写真左中:背後の様子、後ろに立っている石材は何なのかよくわかりません。
参考:川勝政太郎『歴史と文化 近江』
池内順一郎『近江の石造遺品(下)』
清水俊明『近江の石仏』
『滋賀県の地名』平凡社日本歴史名体系25
文中法量値はコンベクスによる実地略測ですので多少の誤差はご容赦ください。
風化がきつく像容面相が今ひとつはっきりしません。したがって現状では尊格不詳とするのが妥当かもしれません。縦長の頭部は髪を結い上げているようにも見えます。となれば菩薩や天部の可能性もあります。例えば虚空蔵菩薩や文殊菩薩も持物は剣ですしね。むろん不動明王像の可能性が一番高いことは間違いないわけですが…、やっぱ不動明王ですかね。