奈良県 吉野郡東吉野村小 天照寺石塔群
高見川右岸、小(一文字で「おむら」と読む)の集落の中ほどの小高い場所に天照寺が位置する。境内の一画に、長禄年間の神爾奪還事件で活躍した小川弘光が名高い中世の土豪小川氏の墓所として区画された場所がある。お寺の本堂下の石垣に沿って層塔2基、大型の五輪塔3基がL字形に配置されている。むろん原位置を保っているか否かは不詳とするほかないが立派な石塔が居並ぶ様子は壮観の一語に尽きる。
層塔は高さ約4m、ほぼ同形同大の十三重の層塔で、並び立つ2基ともに基礎下の切石基壇から相輪まで完存する。特に下から伏鉢・下請花・九輪・竜車・水煙・宝珠と途中で折損して接いではあるものの相輪がほぼ完全に残されている点は特筆に価するだろう。基礎側面は素面、初重軸部(塔身)は金剛界四仏の種子を線刻月輪内に雄渾に薬研彫りする。各層は軸笠一体整形の通有型で、軒は隅にいくに従ってやや厚みを増しながら反転する。ともに無銘だが、種子や軒の様子など向かって右側の方がより力強く、造立時期も遡るように思われる。鎌倉時代後期、14世紀初め頃のものと考えたい。左側は軒が薄めで反りの力強さにも欠けることから、少し遅れ、14世紀中葉頃であろうか。相輪は逆に左側の方が彫成が確かで、古そうに見える。あるいは入れ替わっているかもしれない。なお、傍らにも層塔笠石が一枚置かれている。別の層塔があったのか、どちらかが補修された際に除けられたのかは定かでない。
大型の五輪塔は、ほぼ同形同大でいずれも三段の切石基壇を有し、その上に反花座を据えた塔高180cm程の6尺塔で、基壇を含めた総高は約2.5m。3基とも完存する。うち一基には基壇上端と基礎の間に径5cm余の奉籠穴があることから、基壇も当初から一具のものと考えてよい。反花座は四隅に間弁を配する複弁反花の大和系のもの。どれも無銘で種子も見られない。これは律宗系の五輪塔の特長とされる。3基のうちでは、向かって右端のものが水輪の裾窄まり感が小さく、空風輪に安定感があって古調を示す。基礎並びに台座の背もやや低いように見え、複弁反花の彫成も優れる。中央と左側のはそれよりやや遅れるようだが、3基が14世紀前半~後半頃にかけて順次造立されたものと考えられる。
これら石塔の材質はどれも安山岩とされ、表面が全体に茶色っぽく風化し、苔や地衣類のせいもありフレッシュな断面が観察できないため、はっきりしないが、よくある花崗岩の類ではないように見える。あるいは流紋岩(石英粗面岩)や流紋岩質の溶結凝灰岩の一種かもしれない。
周辺にはほかに中型の五輪塔5基、石仏数基が残されている。墓所の入口北側に石仏が並べられており、向かって右端のものは、船形光背に半肉彫りされた地蔵菩薩立像で、光背面に天文一三年(1544年)銘がある。持物は錫杖と宝珠の通有のスタイル。下端に素面単弁の蓮華座を刻む。石材は安山岩とされる。高さ約76㎝。また、墓所に近接して俳人の原石鼎(1886~1951)の旧居を移築した石鼎庵という施設があるが、その裏手にも小さい墓地区画があり、中型の五輪塔2基と残欠数点が集積されている。中型の五輪塔は切石基壇上に建ち、反花座は見られない。四尺半~五尺塔(計測を忘れましたので目測)で14世紀後半から15世紀初め頃のものと思われる。
天照寺は、南泉山と号し現在は曹洞宗だが、小川氏が一族の菩提寺として弘安年間(13世紀後半)に創建した真言寺院と伝えられている。山間の別天地であるこの地も鎌倉時代には既に興福寺の勢力範囲に組み込まれていたといい、小川氏もこの地に根を下ろした興福寺・春日大社の国民であったとのこと。一方で小川氏は代々丹生川上神社の社司を務めたとされており注目される。しぶとく中世を生き抜いた小川氏も16世紀後半には没落してしまうが、これらの石塔群は小川氏累代の墓塔と伝えられている。伝承どおり小川氏の墓塔であるか否かの判断は慎重であるべきだが、このように保存状態良好な優れた石塔が一ヶ所に集中して残されている場所はそうそうないので貴重である。
天照寺から川を遡ることわずか数百mの距離に丹生川上神社(中社)が鎮座している。社殿前の石燈籠(重文)には、弘長4年(1264年)の紀年銘と、惜しくも摩滅が進み判読が難しくなっているが石工銘がある。石工は、般若寺笠塔婆の刻銘により伊行末の嫡男として知られる伊行吉とされている。さらに、ここから川を下った北西方向、直線距離で約7㎞程のところにある宇陀市大蔵寺には延応2年(1240年)の紀年銘とともに伊行末その人の名を刻む層塔が残されていることもあわせ、伊派が宇陀吉野方面と何らかの関係があったのではないかという指摘もある。山間の辺境に、優れた石造美術が集中している背景としてそういうことも考慮しておく必要があるかもしれない。
小川氏墓所に隣接して薬師堂と呼ばれる建物がある。極端に大きい寄棟造の茅葺屋根、奥壁以外壁のない吹さらしで、いかにも素朴で古風な佇まいである。三方に縁側を廻らせ能舞台形式を示すとされる。天正12年(1584年)に建てられたものらしく、県指定文化財との由。装飾を排した質実簡素な建物で、釘を使っていないというから驚きである。小川氏が最後の時を迎えた頃、天正の昔からよくぞまぁ今日まで残っていてくれたと感心する。
参考:清水俊明 『奈良県史』第7巻石造美術
川勝政太郎 新装版『日本石造美術辞典』
元興寺文化財研究所編 『五輪塔の研究』平成4年度調査概要報告
すぐ後ろに高い石垣があるせいかあまり大きさを感じませんがとにかく立派な石塔群です。幸い石垣には階段があって中段に登れるので石塔を上から観察できます。