和歌山県 伊都郡高野町 高野山 高野山奥の院六字名号板碑
奥の院の参道、中の橋を越えしばらく進んで32町石の付近、参道の北側に面して越前松平家結城秀康(1574~1607)と彼の母堂である長勝院(1548~1620)の石廟がある。木造建築風の堂宇を全て石で造作する二棟の石廟は、諸大名の巨大な五輪塔がたくさん居並ぶ広大な奥の院墓地にあって一際異彩を放ち、目立つ存在である。青緑色の石材は笏谷石と呼ばれる越前産の凝灰岩の一種と考えられており、西側の切妻造の方が長勝院、東側の入母屋造の方が秀康公のもの。
この石廟の10数mくらい西寄り、参道から北に10mほど入ったところに六字名号板碑が立っている。傍らに案内標柱があり、南面して参道からも目視できるので、注意していれば見落すことはないだろう。
白褐色の地衣類が表面を覆い斑模様に見えるが、地は緑色の結晶片岩製である。下端はコンクリートで固められてどういう形状なのか確認できないが、このコンクリート上端面からの高さ約189cm、幅は上方で約81.5cm、下端付近で約85.5cm。厚さは7.5cmほどしかない。上端は山形で正面は平らに整形し、その下に二段の切り込みを設ける。碑面は高さ約142cm、幅約69.5cmの縦長の長方形に輪郭を枠取りして区画している。輪郭線は線刻のようにも区画内をごく薄く彫り沈めているようにも見える。中央に行書風の達筆で「南無阿弥陀佛」の六字名号を大書陰刻し、その下方には凝った意匠の蓮華座を配置する。蓮華座は蓮弁を彫り沈め、雄蕊や蓮実のある花托も表現されている。
名号の左右に四行の陰刻造立銘が認められる。向かって右に「為自身順次往生并亡妻亡息追善也/奉謝二親三十三廻」、左に「恩徳阿州國府住人/康永参秊甲申暮春中旬沙弥覚佛敬白」とあるのが肉眼でも確認できる。ただし、右側中央寄りの奉謝…と左側の恩得…は、下方に小さい文字で浅く彫られており、あるいは後刻かもしれない。仮にその場合でも作為的な偽銘ではなく、さして時間差はないようにも思われる。康永は北朝年号。康永3年(1344年)、阿波国(徳島県)国府の住人であった覚佛という法名の、土地の有力者と思しい在俗出家者が願主となって、自身の極楽往生、亡き妻子の追善供養、そして両親の33回忌の菩提を弔うために作られたことが判明する。
なお、阿波は類型板碑が集中する地域として知られ、それらは阿波型板碑と呼ばれる。この名号板碑は、阿波の在地信者により作られ、四国から海を渡って搬入されたのではないかと考えられており注目される。
参考:巽三郎・愛甲昇寛 『紀伊國金石文集成』
川勝政太郎 新装版『日本石造美術辞典』
坂詰秀一編 『板碑の総合研究』2 地域編
浅学の小生は四国の石造を見ておりません。したがって本格的な阿波型板碑というものがどのようなものなのか、身をもって知りませんのでこの名号板碑が本当に阿波からの搬入品なのかについて見解を述べる立場にありませんが、このように青石製の定型的な古い板碑は、高野山でも異色の存在のようです。また、越前の笏谷石製の石廟もそうですが、弘法大師の眠る聖地高野山奥の院には、よそからの搬入石造物が少なくないのは事実です。こうした聖地への搬入石造物の伝統を考えるうえで注目すべき遺品のひとつとして貴重な存在といえるでしょう。
それにしても案内標柱の「阿弥陀仏各号の碑」というのには閉口します。各号って???名号でしょ。