石造美術紀行

石造美術の探訪記

滋賀県 栗東市高野 松源院宝塔(その2)

2013-08-20 23:22:06 | 宝塔・多宝塔

滋賀県 栗東市高野 松源院宝塔(その2…2007年1月27日の記事の続編)
高野神社前の路地を左に歩いて行くと間もなく路地に面してその雄姿を現す見上げるばかりの大きい宝塔。相輪を失って層塔の初層軸部と思しい四方仏のある石材と宝篋印塔の笠石を代わりに載せてある。01_3完全でないのが惜しまれるが、基礎、塔身、笠石といちおう主要部分が揃い、宝塔の多い近江でも稀に見る巨塔である。03特色ある構造形式と優れた手法を示し、もっと注目されて然るべき優品と考える。褐色できめの細かい良質の花崗岩製。
基礎の下端が若干埋まっているが、笠石頂部までの現状高約229cm、これに見合う相輪はおそらく130cm程はあったと思われ、元は塔高約3.6mの12尺塔として設計されたものと考えられる。基礎はやや不整形な方形石材4つを田字状に組み合わせたもので、幅約132cm、下端が少し地中に埋まっているが現状高約41cm。幅に対する高さの割合が1/3程で非常に低平な基礎である。各側面は素面。基礎の石材どうしがぴったり接合しておらず、少々隙間が目立つ。元々一石であったものが4つに割れたか、あるいは本来の基礎が失われ適当な石材をあてがっている可能性も完全には否定できないが、とりあえず一具のものと考えておきたい。こうしたやや不整形な基礎を有する例として、湖南市廃少菩提寺や長寿寺の石造多宝塔、高島市満願寺跡の宝塔(鶴塚塔)がある。02いずれも塔高4m前後の巨塔で、鎌倉時代中期に遡る古い石塔である。ただし、これらの基礎はどれも一石で、上端に段形を作り出したものもある。一方、4つの石材を田字状に組み合わせる例として守山市懸所宝塔や大日堂層塔、愛荘町金剛輪寺宝塔がある。懸所塔や金剛輪寺塔も4m近い巨塔である。これらの石塔の基礎は相応に整形され、側面には輪郭と格狭間を有する点で松源院塔とは異なる。松源院塔のように、やや不整形で、かつ田字状に組み合わされた基礎の類例は今のところ管見に及んでいない。塔身高は約132cm、軸部の高さ約95.5cm、基底部付近の直径約94cm、肩部付近の径約92cm。縦断半裁された構造で、内部は中空になっており、何らかの納入物があったと思われる。ただ、わずかな隙間から内部をのぞき込んでみても特に何も見えない。軸部側面の四方に大きい扉型が薄い陽刻突帯で表現される。鳥居型のように見えたので2007年1月27日の記事ではそのように書いたが、上部中央の鳥居でいうと額束にあたる部分から縦の突帯が下に伸びて下端の框状につながっている。04鳥居でいうと貫から下がちょうど「Ⅲ」字のようになっているので、鳥居型というより、やはり扉型の方がよい。別石の勾欄部は、車のタイヤのような低い円筒形で、側面には架木や束、平桁が陽刻されている。また、構造的には二分割される塔身軸部をつなぎとめる役割を持っている。上端径約70cm、下端部径約78cmで高さは約25cm。さらに勾欄部から上部に続く首部は、基底部径約58cm、笠石との接合部分の径約54cmで高さは約11.5cm。先端を笠裏に空けられた円形の穴に枘のようにはめ込むようになっている。05_2笠裏には垂木型や斗拱型は一切刻まず、広い面積を粗面のままとしており、これに比較して首部がやや細く見える点を考えれば、別石の斗拱型を首部との間に挟んでいたとしても不思議ではない。もっとも笠裏の枘穴構造が本来のものであれば、別石の斗拱型は元々無かったと考えるべきかもしれない。笠石は軒幅約135cmもある。それに比べ高さは約56cmとかなり低平である。軒口の厚みは中央で約13cm、隅では約16.5cm。135cmという軒幅に比して軒口はあまり厚いとは言えない。軒反りは緩く穏やかで、軒口の隅増しも顕著でない。軒の一端が欠損している。笠上端に通常同石で刻みだされる露盤は見られない。削り取られたのか、元々作り付けられていないのか、笠頂部に載せられている層塔の塔身をどけてみれば何らかの手がかりが得られるかもしれないが現状では不明とするほかない。露盤は、相輪と同石とするなど笠と別石とする事例もないわけではない。現状の笠上端の幅は約38cm。笠上端から四注の隅降棟にかけては宝塔の特徴である突帯がある。隅降棟の突帯の断面は凸状ではなく、鈍角の△状を呈する。隅から約7.5cm入ったところでこの突帯は収束し、突帯先端には鬼瓦を表現したと思われる突起がある。
刻銘、紀年銘はないが、低平でやや不整形な基礎、背の高い塔身とほとんど横張りのない円筒状の軸部、低平で伸びやかな笠石の造形などは古調を示す特徴と判断して特に支障はないだろう。隅増のほとんどない穏やかな軒反の様子は廃少菩提寺多宝塔にも通じる。また、隅降棟の断面形状や素っ気ない笠裏の作りなど、定型化した宝塔には見られない特徴といえる。一方、大きい扉型の上品な陽刻突帯などはかなり洗練された意匠表現である。こうした特徴を総合的に勘案すると、造立時期は鎌倉時代中期の終わり頃から後期の初め頃、概ね13世紀後半頃とするのが穏当なところではないかと思われる。
基礎、塔身軸部、勾欄部と部材を分割して組み合わせる構造形式は特異で、特に塔身を縦断二分割する手法は非常に珍しい。こうした分割方式は、本塔のような大型塔の運搬上の便宜を図るための策と考えることもできよう。なお、笠上の層塔の初層軸部や宝篋印塔の笠もなかなか立派なもので鎌倉時代後期頃のものと思われる。このほか境内には小型の五輪塔や宝篋印塔の残欠、石龕仏等がいくつか集積されている。

参考:川勝政太郎『歴史と文化 近江』

最近再訪しコンべクス略測をしたので粗々の法量値を記載します。あくまでコンべクス略測ですので多少の誤差はご寛恕願います。なお、2007年1月27日の記事に現状高217cmとあるのは『歴史と文化 近江』の記述に依ったものです。今回は自分で測りました。とにかく一目見た時の
大きいなぁという印象が強く、かねがねサイズについてはもう少し詳しく紹介したいと考えておりました。前にも触れましたが宝塔の前にある説明看板はちょっと目障りですね。素晴らしい宝塔の正面にあるのに宝塔には一切触れていないというのはちょっとどうかと思います…。


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